職員室通信・600字の教育学

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自己の輪郭の幻影2 江藤淳の『日本と私』は1967年発行、わたしが座っているイスは1978年購入

2010-03-23 08:40:44 | Weblog

10.03.23 自己の輪郭の幻影2



◆「自己の輪郭」のルーツは、どこか?……〈江藤淳『日本とわたし』〉(その2)

 祖父が「適者」になれなかったのは、なにごとについてもこの調子で、輪郭をはっきりさせすぎたからかもしれない。
 逆にいえば、日本の社会で「適者」になるためには、自分の輪郭を適当にぼやけされておくことが必要なのかもしれない。
 それはかならずしも「個人主義」という思想を捨てることを意味しない。
 みんなが「個人主義」という思想を唱えているときなら、いっしょになって、それを唱えるのは、自分の輪郭をはっきりさせることではなくて、逆にぼかすことになるからだ。
 「民主主義」や「平和主義」についても同様で、自分が生活の場にしているところで、それが多数派の主張になっているなら、それを「守る」ということは、とりもなおさず自分はみんなとおなじ人間だよということである。
 ここでしてはいけないのは、異を立てることだ。
 あるいは「自分」というものの存在を他人に感じさせてしまうことだ。
 「自分」というものがいて、それが「みんな」とはちがう輪郭を持っていることを感じさせるようなことがあれば、その人間はまず「適者」になり得ない。
 みんなはこういう人間を危険と感じ、その存在を自分たちに対する許すべからざる侮辱と感じ、不安と不愉快を感じずにはいないからだ。


 ここでは「思想」は、いくら唱えてもよい。
 あるいは「西洋」や「近代」の模型を頭のなかにこしらえて、その「人形の家」で生きているような錯覚をおこしてもよい。
 してはいけないのは、そういう幸福な「みんな」に、それは「西洋」でも「近代」でもない、ただのインテリ用のおもちゃだ、なぜなら君たちはチャンと幸福に生きているではないか、本当にこの日本で「西洋」や「近代」を生きようとすれば、そんな無傷のツルリとした顔はしていられないぞ、ということだ。
 いいかえれば「みんな」に対して「他人」になることである。
 あるいは、自分の延長ではない「他人」が目の前にあらわれたとき、その存在のあたえる痛みと重みに耐えることだ。



 海老茶の古ぼけたガウンの裾をなびかせて、ノロノロと便所に出かけ、またノロノロと足をすりあわせながら帰って来た祖父は、どうもそういう思想を生きてきたような気がする。
 そして、私がこの祖父に似ているとすれば、あらゆることにかかわらず、私はこの日本の社会での「適者」になれそうもないことになる。
 30歳をすぎてはじめてこのことに気がつくとは迂闊な話だ。
 私はそれでもかまわない。
 しかし、私の家族はどうだろう?
 もし、家長が「適者」でないことになれば、彼らに安息はないことになるではないか。


◆上記の『日本と私』は、1967/1~3、朝日ジャーナルに連載されました。
 今回、DAKA古書店所蔵の、1967年の朝日ジャーナルの現物から、転記(^_^)v。
 乾燥した蝶の羽に似て、ページを開くとき、少しムリな方向に力が加わると、音もなく、崩壊し,割け目ができてしまいます^^;。
 今回の転記作業で2箇所、崩壊。
 なお、『日本と私』は、江藤の生前は封印される格好になっていたが、現在は、『江藤淳コレクション 2 エセー』(筑摩書房)に収められています。

◆画像は、現在、わたしがDAKA古書店内で使用しているイス。
 上記の朝日ジャーナルが1967年発行。
 このイスは1978年購入で、やはり、あちこち崩壊しかかっています(*^_^*)。


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