職員室通信・600字の教育学

小高進の職員室通信 ①教育コミュニティ編 ②教師の授業修業編 ③日常行事編 ④主任会トピックス編 ⑤あれこれ特集記事編

自己の輪郭の幻影。「他人の手をかりるとくせになる。できることは自分でする。時間がかかるだけだ」と拒ん

2010-03-23 05:06:50 | Weblog

10.03.23 自己の輪郭の幻影 その1



◆「自己の輪郭」のルーツは、どこか?……3/22の記事のつづきです。

 〈江藤淳『日本とわたし』〉(その1)

 眼下の右手に水銀灯に照らされた広い道路が一直線に通じている。
 そのむこうはおそらく三軒茶屋である。
 そこには戦前、母方の屋敷があり、母が死んだときは私はそこにあずけられていた。
 祖父は、第一次大戦中駐英大使館付海軍武官をつとめ、ロンドン条約直後の大異動のとき退官して漁業会社の役員になった提督で、戦後は三宿のKドレスメーカー女学院という洋裁学校のかたわらにあるバラックで極貧の生活を送っていたが、決してロンドン時代の日課を変えなかった。
 といっても、午後4時に紅茶を飲み、中気がひどくなっても身のまわりの始末を自分でするというくらいのものである。




 祖父は戦後いくらさそわれてもいっさい海軍関係の会合に出なかった。
 いくら退役の身で、戦争に参加しなかったからといっても、潜水艦作戦の基本立案者のひとりとして国民に対して敗戦の責任を感じるからというのである。
 昭和34年に86歳で死んだときも、遺言によって密葬にさせ新聞社にも知らせなかった。
 私はそういう生き方と死に方を壮烈と感じていたが、要するに祖父はそうして自分が「適者」ではなかったことをだれかに伝えたかったのかもしれない。
 私はこの祖父に似ているのだろうか?
 母の死後、父が再婚したので、私は新制高校に進んでから、しかも黙認のかたちでしかこの祖父を訪ねることができなかった。
 しかしそれは、父が「適者」ではない祖父の影響が私におよぶのをおそれたからではなかったろうか。
 あるいは父は、しばしば私の中からこの祖父の幻影がうかびあがって来るのを感じて、それを嫌っていたのではないか。





 たしかに祖父はちょっと輪郭のはっきりしすぎているところがあった。
 4歳半のとき母が死んでから十数年間逢っていなかった私が、戦後はじめて三宿のバラックを訪ねたとき、祖父はガウンを着て枕頭に洋書を置き、粗末な木のベットに腰かけていた。
 彼は、
 「おう、よく来たな。君には永いこと逢わなかったが、君の噂はよく聴いている。いくつになったか」
 といった。
 祖母が外出していたので、私が茶を入れるのをてつだおうとすると、
 「おれがやる。君はみておれ」
 ととりあわなかった。
 祖父は中気で、便所に立つのをみているとあぶっかしくてしかたがなかった。
 しかし、私が手をかしかけると、
 「他人の手をかりるとくせになる。できることは自分でする。時間がかかるだけだ」
 と妙にやさしい顔をして拒んだ。


★〈江藤淳『日本とわたし』〉(その1)終わり。
 (その2)につづく。

◆画像は、根城城址公園の表門付近の風景。


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