職員室通信・600字の教育学

小高進の職員室通信 ①教育コミュニティ編 ②教師の授業修業編 ③日常行事編 ④主任会トピックス編 ⑤あれこれ特集記事編

学校が抱え込んでいる荷のままでは、家庭も地域も連携・協力できない。分担できるカタチに加工が必要だ

2011-04-05 16:56:15 | Weblog

 

2011
04.05
天ぷらになれるかもしれない、つぼみ状態のふきのとう


★散歩の途中、こころはろばろ神社の森で、ふきのとう――パートナーのいう「これでは天ぷらにならない」ふきのとうではなく、天ぷらになれるかもしれない、つぼみ状態のふきのとう――を6つ見つける。
 僕は山菜に疎い。
 子どもの頃、母とツクシを採った経験しかない。
 だから、花が咲いたり、咲きかかったりしているふきのとうしか目に入らない。
 そこで、花が咲いたり、咲きかかったたりしているふきのとうの周辺には「必ずつぼみのふきのとうがあるはずだ」という強い目で枯れ草や落ち葉のあいだを探してみたのだ。

 画像は、その天ぷら。
 採りたてだから、きめ細かなスポンジケーキのようにふかふかとしている。
 また苦みもグッと抑えられ、香ばしい。
 しかし、うかつなことに、天ぷらになれるかなれないかばかり気にしていて、天ぷらになる前のふきのとうを撮り忘れてしまった。
 ふきのとうに申しわけないことをした。



★前回、学校・家庭・地域の連携・融合・協働の活動、あるいは、教育コミュニティーづくり活動には、粗く、2つの発想があるということについて述べた。
 念のためにくりかえす。
 1つは、「学校が多くの荷を抱え、苦しそうだから、家庭や地域で支援してやろう、応援してやろう」(支援タイプ)という発想。
 もう1つは、「学校が多くの荷を抱え、苦しそうだから、家庭が引き受けるべきは家庭に、地域が引き受けるべきは地域に、適切に分担しよう」(分担タイプ)という発想。
 2つは似て非なる発想である。
 「支援タイプ」は学校が荷を抱えたままであるのに対して、「分担タイプ」をこれを改めようとする。

★数日後からはじまる、学校・家庭・地域の連携・融合に関する、怒濤の発表会・説明会&講演会に向け、この「2つの発想」に関して、乱氏とのあいだで、問題になったのが、粗く、次の3点だ。

(1)蔓延している「支援タイプ」から、僕たちが理想とする「分担タイプ」へと転換を図るための具体的な方法と、その語り方は?

(2)学校・家庭・地域が互いに「分担」できるシステムづくり(教育コミュニティーづくり)の、中核エネルギーを形成するための具体的な方法と、その語り方は?

(3)(大きなシステムとは別の)分担プログラムは、だれが開発するのか?
 現在、いちばん荷を抱え込んでいる学校の役目だ……、抱え込んでいる者(教職員)にしかできない仕事だと僕は思っている。
 この考え方でいいか?
 いいとすれば、その具体的な方法と、語り方は?

 すこやかみなみネットでは、(1)&(2)については、相当に進んでいる。
 たとえば、地域情報交換会でも、テーマは分担論、あるいは連携論が中心だ。
 また、中核エネルギーについても、ほぼ確立している。
 だから、乱氏とも、夕日の赤色が差しこみ、壮絶な色合いになったスクリーンの前で、二言、三言、確認し合っただけでパス。(その詳細は別項目で述べる。)
 問題になったのは(3)いちばん荷を抱え込んでいる学校の役目――

★学社連携が40年間、遅々として進まなかった原因については、これまでも、いろいろな角度から、具体的に論じてきたが、「教職員の教育丸抱え体質」も原因のひとつだ。

 日本の教育は一般的にいって、学校が教育を丸抱えする傾向にあるといわれるが、このことが教育の危機を増大させているのだという強い認識が必要である。
 本学区においては、学校・家庭・地域の教育のバランスは、具体的な教育活動においても、また理念においても、かなり改善されつつある。
 しかし、中学生の教育課程外活動(余暇活動等)については、部活動・自主学習等、まだまだ課題を残し、ある意味では「学校の教育丸抱え体制」に近い状態であるといえる。

 ただし、そうだからといって、学校側の判断のみで、無制限に、ダムの水を放流するように、丸抱え体制を解除することはできない。
 大混乱が目に見えている。
 やはり、まず、順序として、これを改めるために、多くの荷を抱えている側の学校が、地域とのコーディネート力をつけることが課題だろう。
 そして、次の段階して、ダムの水を徐々に放流するように、アウトソーシング計画をもつことが必要だ。
 別なところでも書いたが、日本の中学は、全国至る所で(特に東京で)これが遅れている。
 競い合って抱え込んでいる。
 教職員の意識改革が喫緊の課題だ。

★わかりやすくするために、あるいは、念押しするために、あえて横道にそれるが、このことに関連して、先日、とんでもない論文に出会った。
 論文の主をA氏とする。
 A氏は教職員だ。
 下記に一部を引用するので、どこが「とんでもない」のかチェックしていただきたい。

 一部引用――
 「生きる力」をはぐくむという理念を実現するために、今回の学習指導要領の改訂のポイントの1つは、地域全体で学校を支援する体制を整えていくことです。
 元来子どもは、学校・家庭・地域社会の三者で育てられ、「大人」化されていました。しかし、核家族化や少子化、共働きの増加、地域社会の崩壊などにより、子どもを「大人」化する機能を失ってしまいました。しかしながら、学校には人的・物的資源にも限りがあります。そこで、今まで地域や家庭が担っていた子どもを「大人」化する機能を補完するために、学校の中に地域の大人を取り込んだり、学校から地域へ出向いて行ったりすることが大切になってきます。(引用以上)

 粗く、3点指摘したい。
(1)まず、「核家族化や少子化、共働きの増加、地域社会の崩壊などにより……」のくだりだ。
 A氏は、いったい、どの地域の、どういう状態をみて「地域社会の崩壊」といっているのだろうか?
 各地を歩き回ってきた僕の認識では、日本の地域社会は、あるいは、日本の家庭は、「ご近所の底力」ではないが、まだまだ、まだまだ、大きなポテンシャル(潜在的な力・可能性としての力)をもっている。
 決して「崩壊」などしていない。
 この認識は、ぜひ改めてほしい。
 そうでないと、現在、A氏の実践している学社連携プロジェクトは(評価そのものは、現時点では、保留するとしても……)具体的な進展はのぞめないだろう。

(2)加えて、仮に「大人化する機能が低下している」ことは認めたとしても、大切なのは、学校の抱え込みが、それを加速させているのだという認識を、学校側の人間がもつことである。
 あるいは、学校の抱え込みが、「大きなポテンシャル」を抑え込んでいるのだという認識をもつことである。

(3)もう1点。「しかしながら、学校には人的・物的資源にも限りがあります。そこで……」のくだりだ。
 この論理だと「限り」がなければ、今の学校の抱え込み状態のままでいいのか?ということになる。
 「限り」のあるなしの問題ではない。
 A氏のこういう認識レベルでは、おそらく、学校の抱え込みがますます進行し、学校・家庭・地域のバランスがさらに悪化するおそれがあるだろう。

 僕が「教職員の意識改革が課題」といっているのは、このことだ。

★少し横道にそれたが、学校・家庭・地域の連携・融合・協働の活動、あるいは、教育コミュニティーづくり活動というのは、よほど慎重にやらないと、なかなか、いや、ほとんど効果があがらない。

 本校区の「教職員の教育丸抱え体質」改善、あるいは、いちばん荷を抱え込んでいる学校の今後の役割のポイントを列挙する。

(1)教育コミュニティーづくりの「しかけ」役。

 まず、「中核になるコーディネート力」を明確にし、それを核にした連携のためのネットワークの形成。
 これについては、これまでも「すこやかみなみネット事業」として説明してきたので、詳細は省略する。
 だだ1点、断っておきたいのは、学校側に身を置く者として敢えていうのだが、「中核になるコーディネート力」がどこであるにしても、教育コミュニティーづくりの「しかけ」役(←このことばは適切でないかもしれないが……)は、教育の荷を抱えている側の学校だということである。

(2)分担・連携プログラム開発の役目。

 再び、学校側に身を置く者として敢えていうのだが、抱え込んでいる荷を、他者が分担できるカタチに加工(プロデュース)するのは学校の役目だ。
 抱え込んでいる荷のままでは、家庭も地域も連携・協力することはできない。
 ただし、この「加工」作業には、プロ教師として力量が要求される。
 加工する際、①学校外で分担を請う場合(外注)と、②学校内で分担を請う場合とにわけて考える必要がある。

(3)分担・連携プログラム実践管理の役目。

 上記の(1)も(2)も、学校・家庭・地域が相互に協力して進めるのがいいことは百も承知の上で、僕は「学校の役目」だとした。
 理由は、このことを学校側が重要な職務の1つだと認識しない限り、学校・家庭・地域の連携・融合・協働の活動は進まないと考えるからだ。
 この職務を遂行するために、校務分掌の1つとして「学社連携部」の設置が望ましい。
 しかし、たとえば、11、2学級の規模では、総務・教務・研修・生徒指導・保健に加えて、学社連携部の創設というのはむずかしい。
 そこで、「連携主任(すこやかみなみネット主任)」を選任し、総務部の枠のなかで、連携業務にあたるというのもひとつの方法だ。


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