職員室通信・600字の教育学

小高進の職員室通信 ①教育コミュニティ編 ②教師の授業修業編 ③日常行事編 ④主任会トピックス編 ⑤あれこれ特集記事編

高村祭④ 三畳あれば寝られますね

2009-05-21 14:28:59 | Weblog



★高村祭。花巻市立西南中学校吹奏楽部の演奏。5/15 10:50頃

◆みなみを退場してから、1ヵ月半かかって、やっと「読書」を生活の軸に設定することができた。

 退場する前に、漠然と「退場したら蟄居して読書しよう」と考えていたが、(以前にも少し触れたように)これがなかなかむずかしい。
 あちこちに気が散って、読書に集中できない。
 みなみの子どもたちには、常々、「勉強には、決断力、集中力、持続力がいる」と語っていたが、自分からは完全に欠落していることがわかった。

 きっと笑われると思うので、コマゴマとは記述しないけれども、読書のときの①古書店内での場所
 ②その場所でのソファーの向き
 ③ソファーの角度
 ④両足の高さ
 ⑤書物の高さ
 ⑥照明の種類と角度……等々、1ヵ月半、調整に調整を重ねて、やっと、読書→読書→眠くなったら書物を開いたまま胸の上に伏せていねむり→目覚めたらまた読書→読書……という具合に、なんというか、読書に自分が丸ごと沈潜している……という感じになってきた。(いつもいう「魂の底に沈潜する」というのとは違うように思うが……。)

 もちろん、①~⑤の「調整」がすべてではない。
 もう少し深い部分で、頭が、中学校の経営者から、市井の人に、ほぼ切り替わったということでもあるのだろう。






★高村祭。今年で52回目。木漏れ日の下、地元の人、親交のあった人、県内外のファン、約300人が参加

 その「市井の人」は、3つのイメージで支えられている。
 3つを列挙する。

(1)思いをあらたに

 思ひをあらたにする覚悟で、私は、かばんひとつさげて旅に出た。
 甲州。
 ここの山々の特徴は、山々の起伏の線の、へんに虚しい、なだらかさに在る。
 小島烏水といふ人の日本山水論にも、「山の拗ね者は多く、此土に仙遊するが如し。」と在つた。
 甲州の山々は、あるひは山の、げてものなのかも知れない。
 私は、甲府市からバスにゆられて一時間。
 御坂峠(みさかたうげ)へたどりつく。
 御坂峠、海抜千三百米。
 この峠の頂上に、天下茶屋といふ、小さい茶店があつて、井伏鱒二氏が初夏のころから、ここの二階に、こもつて仕事をして居られる。
 私は、それを知つてここへ来た。
 井伏氏のお仕事の邪魔にならないやうなら、隣室でも借りて、私も、しばらくそこで仙遊しようと思つてゐた。(太宰治『富岳百景』から引用)










★高村祭。西南中生が、光太郎の「心はいつも あたらしく……」という言葉を一節にする同校精神歌を歌う。

(2)蟄居

 漸っとその小屋まで登りつめると、私はそのままヴェランダに立って、一体この小屋の明りは谷のどの位を明るませているのか、もう一度見て見ようとした。
 が、そうやって見ると、その明りは小屋のまわりにほんの僅かな光を投げているに過ぎなかった。
 そうしてその僅かな光も小屋を離れるにつれてだんだん幽かになりながら、谷間の雪明りとひとつになっていた。
 「なあんだ、あれほどたんとに見えていた光が、此処で見ると、たったこれっきりなのか」と私はなんだか気の抜けたように一人ごちながら、それでもまだぼんやりとその明りの影を見つめているうちに、ふとこんな考えが浮んで来た。
 「……だが、この明りの影の工合なんか、まるでおれの人生にそっくりじゃあないか。おれは、おれの人生のまわりの明るさなんぞ、たったこれっ許(ばか)りだと思っているが、本当はこのおれの小屋の明りと同様に、おれの思っているよりかもっともっと沢山あるのだ。そうしてそいつ達がおれの意識なんぞ意識しないで、こうやって何気なくおれを生かして置いてくれているのかも知れないのだ……」
 そんな思いがけない考えが、私をいつまでもその雪明りのしている寒いヴェランダの上に立たせていた。(堀辰雄『死のかげの谷』から引用)

(3)独居、農耕自炊生活

 三畳あれば寝られますね。
 これが水屋。
 これが井戸。
 山の水は山の空気のやうに美味。
 あの畑が三畝、
 いまはキヤベツの全盛です。
 ここの疎林がヤツカの並木で、
 小屋のまはりは栗と松。
 坂を登るとここが見晴し、
 展望二十里南にひらけて
 左が北上山系、
 右が奥羽国境山脈、
 まん中の平野を北上川が縦に流れて、
 あの霞んでゐる突きあたりの辺が
 金華山沖といふことでせう。
 智恵さん気に入りましたか、好きですか。
 うしろの山つづきが毒が森。
 そこにはカモシカも来るし熊も出ます。
 智恵さん斯ういふところ好きでせう。(高村光太郎「案内」)


★高村祭。第1部(午前)の最後は、宮沢賢治学会イーハトーブセンター副代表理事の森三紗氏の講演「高村光太郎と宮沢賢治」。内容的にはやや支離滅裂な印象をもった(スンマヘン、聞き方が悪いのだと思います)が、語り口は魅力的だった。ただ、講演の終わりのほうで、いくつかの高村光太郎詩集を紹介し、「この編集は冷たい」「この編集はあたたかい」という言い方をしたが、その理由は語られなかったので気になった。もしかしたら、いわゆる戦争詩の扱い方に関係しているのだろうか。これには詩集によってかなりの差がある。まったく掲載していないという詩集もある。ちなみに、わたしはそういう詩集は認めない。前にも触れたが、光太郎の戦争詩は、現在の評価軸では評価しきれない、とてつもない、ずばぬけた質の高さを誇っている。

◆読書については、意識して、主に、ほぼ、1972年(昭和47)~1981年(昭和56)の10年間に発表された作品を読んだ。

 この10年間は、いい、わるいは別にして、自分にとって、ひとつの区切りだ。
 自分が過ごしてきた10年という時間と、書物の世界の時間とを、重ねあわせたり、対比させたりしながら、読みつづける。
 もう少しいうと、この作者が1975年に「新歌舞伎」について書いているとき、わたしは、根岸小学校で5年2組を担任していたのだ……ということを確認する作業だ。

 こういう読み方をすると、これまでの自分の経験からいうと、たいてい「悔い」が導き出される。
 悔いはやがて悲哀に……ということはわかっているのだが、それでもかまわない、その「悔い」とか「悲哀」とかに、正面から向き合おうと思っている。


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