考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

学習することで得られるもの

2006年03月08日 | 教育
 子どもは、学習をすることで、実は、大きく分けて二つのものを身に付ける。
 一つは、「知識や技能」である。もう一つは、学習するという行為そのものによって得られる「何らかの変化、成長や人格に関わる変化」である。後者の例は、「子どもがお習字教室に行くようになったら、落ち着きが出てきた」類であり、習得されるべき技能である「字の巧さ」とは別の成果である。
 ともに勉強や学習の成果には違いないが、質的にはかなり違うだろう。
 しかし、「学習の成果」が論じられるとき、一般的に(というか、常に)この2つは一緒くたにされるから、議論の際、焦点がぼやける原因になっていると思う。

 「知識や技能」は、習得された場合、目に見える形となって現れる。目に見える形とは、「あの人に聞けば知っているだろう」という知識だったり、テストの点数になったり、「物体」になって現れたり、「記号化」されて表出されたりするものである。建造物や薬品、作成されたコンピュータのプログラム、スポーツのテクニック、健康体操の方法でも何でも、世の中の大概のものである。「教える」「習う」というとき、内容として課題になるもので、当たり前だが、伝授されるものであり、文明や文化たるものである。

 もう一つは、何であれ何かを習得しようとする過程そのものによってしか、つまりは自分自身が体験することでしか習得できないものである。これは、はっきりとした「もの」の形を取らないし、形も見えないし、あるいは、表出すらされないことだってある。なおかつ、学ぶという自らの体験を通してしか得られないため、他人には決して伝授できないという点で、前者と全く異なる性質を持つ。決定的な言い方をすれば、これは、人格的な成長に繋がるということだ。
 たとえば、頑張ることで得られる「忍耐」はその人自身を成長させるものである。何かを学んだ際の知識や技能習得の成果がどうであれ、辛抱することそのものだけだたっとしても、それが力になって、次の機会に役に立つかもしれない能力になる。これは、自分が努力をするという経験を積んだ人にしか蓄積されない力で、知識のように決して他人に伝授されることはない。また、「学ぶ喜び」も似ているだろう。何かを学ぶことで得られる喜びそのものは「体験」で、その人が「変わる」ことに繋がる。いくら「面白いよ」と人が言ったところで聞いた人が面白いと感じることは出来ないものである。

 私は「効果的な学習」や「効率的な学習」には強い疑いを持つが、それは、効果的な学習は、前者「知識や技能」の習得という「結果」を目指すものの、後者の「何らかの変化、成長や人格に関わる変化」というまさに「人間が日々生きていく過程」を重視していると思えないからである。

 授業時間数の削減その他の様々な理由で、学校での学習時間が減っているのは周知の事実であろう。それで、学校では、先生たちが、「効果的な学習方法」を探り、短時間で少ない努力で生徒が知識や技能を習得できるよう様々な努力をしている。(←より努力するのが生徒ではなく先生たちである、というのがかなり滑稽である。)
 その先生たちの努力の成果として(←嫌味な言い方ですね。苦笑)、生徒が知識を短時間に吸収できることはあるかもしれない。受験で必死になっているような生徒だったら、大いにあるだろう。しかし、これによって習得できるものは、ほとんどが上記の「知識や技能」で、「何らかの変化、成長や人格に関わる変化」があるとは思えないのである。

 しかし、私が問題にしたいのは、教育の成果とは、つまり、子どもが何かを学習するときに得るべきものとは、現実的には、かなりの程度まで、後者に重点が置かれるべきでではないかということである。なぜなら、後者は、その子どもの全生涯に関わる能力に繋がるからだ。

 複雑な現代社会においては、確かに、多くの知識や技能がものを言う。社会で生き抜くとき、有利か不利かを考えると、大方は知識も技能も多くある方が有利に決まっている。「効果的な学習や効率的な学習」は、この点において非常に説得力を持つ。現代社会は、多くの知識や技能抜きに成立しないからだ。新しい効果的な方式による1時間の学習が、かつてのやり方の1時間以上の知識技能を習得させるとしたら、新しい方式が良いとされるのが常だろう。
 しかし、その新しい方式が、子どもの全生涯に関わるの有用な能力を身に付けにくくするものだとしたら、それで、成長しにくい特質を身に付けさせるとしたら、皆さんは、どう思われるか。それでも、新しい方式を良しとするだろうか。----私の疑問はこれなのだ。

 子どもは一生を学校で過ごすわけではない。必ず学校を巣立ち、独り立ちをする日が来る。しかし、その時、彼らは、果たして、「全生涯に渡って必要とされる知識や技能」を身に付けて巣立つことができるか。--誰が答えても、返事は「できない」だ。

 だったら、彼らが学校で身に付けるべきものが何であるかは自ずから決まってくるのではないか。それは「生涯にわたって学習し続ける能力」の習得である。
 社会階層の二層化に関わる問題の一つが、「学習し続ける能力」があるかどうか、「努力し続ける能力」があるかどうかに関わる。自らこの能力を培うことができる人たちはそれでいい。しかし、自らの力で得られない人たちは、学校教育に身をゆだねるしかない。出なければ、それこそ本当に階層が固定化する。それで、現代の問題になるのは、効果的な学習を目する学校教育にその力があるかどうかである。

 今日も授業をしてきたが、生徒からは「なるべく勉強しないでうまくいく方法はないか」という気配が大きな「気迫」のように感じられてならないのである。「なるべく多くを学びたい」というどん欲さは全くない。最低限を目指すやり方である。だから、学習に際して丸ごと勉強をすると言うことはまずしない。本人たちが熱心でないというわけでもない。しかし、根底からの理解したいという欲求がなくて、どうして物を本当に飲み込めるようになるだろうか。

 授業の「気配」は大事である。したことのない人にはわからないかもしれないが、意外に「言外のコミュニケーション」が行われ、こちらのちょっとした話一つで生徒の気分が盛り上がるのがわかることもよくある。別に、生徒が言葉を発したり笑ったりするわけでなくても、じっと黙って座っていても、反応の良い生徒集団は、ちゃんとコミュニケーションが取れたものである。
 ところが、私が出会った真性ゆとり教育世代は、「無駄なことは一切勉強してなるものか」という「気概」を心の底から発しているのである。それで、やたら「答え」を求め、答えがわかればそれだけで安心する。何故それが答えになるかをほとんど要求しない。思考がそこで実に見事にストップするかのようだ。

 「関係ない」は、彼らの口からよく出てくる言葉である。彼らは容易に「線」を引く。すぐに「無理だ」と言う。(まさに「バカの壁」である。)内心で、「自分はこうだ」という「自分像」が既に凝り固まって出来ているように思われる。自分が変化することを全く想定しないのである。これは成長する子どもや青年の姿ではない。まるでアタマの固い老人である。

 それで、「知識・技能」と共に、彼らのこういった態度もこれまでに彼らが受けた「教育の成果」であると考えてもいいのではないか。
 ここで、私は「教育」という言葉を使った。「社会環境のせいであって、教育のせいだとは一概に言い切れないのではないか」と考える人もいるだろう。しかし、「社会環境」も「教育」の範疇にはいるべきものである。(ヒトを人間にするのは、遺伝と環境しかない。教育は遺伝ではない。環境要因である。)だから、世の中を見よ。効率主義が蔓延っているではないか。何から何までと言って良いほど、「効果的」「効率的」「能率がいい」の世界である。「ゆとり教育」の裏の方策としての「効果的な学習」とは、私は、実のところは、世間の余波が学校教育に入り込んできたものだと考える。(だからこそ、これほどまでに誰にでも受け入れられやすい方策になったのである。)

 だから、(これまでも書いたように思うが、)学校は、社会と異なる価値観で動くべきなのだ。知識や技能の習得はもちろん否定をしない。しかし、同時に、効果的・効率的な学習では決して身に付かない方法で学習を進めた方が、子どもの全人的な発達に繋がるのではないか。
 
 書き取り練習をしたり、面倒な計算をしたり、自分の手で黒板を写したり、辞書を引いたり、自分で表を作ってまとめたり、美しい言葉の教科書を暗記したり、年号を覚えたり、自分でノートを作って文章で纏めたり、ひたすら今の子どもだったら「めんどくさい」と言うことを実直にやるのである。身体を使って、面倒な思いをして勉強をすれば、独りでに自分で考えるようになるものだ。一見無駄に思われる作業をすることで、「これはなぜだろう」と疑問に思う本物のゆとりが出てくるのである。「無駄」とは「剰余」であるから、効果的な方法で結果を求めるときには敵視されるが、「剰余」は「余裕」に繋がるから「ゆとり」を生むのである。子ども時代に費やした労力は、何一つ無駄になるまい。それどころか、大いなる将来への投資にさえなるのではないか。子ども時代の「無駄」こそが、学校を卒業して大人になってから、着実で堅実な「学習能力」として花開き、成長し続ける人間としての生き方に寄与するのではないかと思う。

 後半書き急ぎ。

7 コメント

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効率的な学習を疑う (madographos)
2006-03-12 08:33:25
ほり様。

 私の日ごろもやもやと考えていることを,あざやかに描き出してくださいました。ありがとうございます。

 効率的な学習は,ゴールを定めて,そのゴールにいかに短時間で,いかにエネルギー消費を少なくして,いかに楽に到達できるかという観点から考えられているような気がします。この考え方は,人間の成長というものをあまりにも単純化して考えすぎています。あらかじめ意識されているゴールに関しては効率的であっても,人間の全人格的成長という多様なファクターをもった目標を考えた場合,必ずしも効率的でないということがあります。迂遠にみえる道が,実は最も人を成長させるということは,昔の人なら常識として知っていたのではないでしょうか。効率的な学習に固執する考え方は,先人が歴史的に蓄積してきた人間観をまるで無視しているという意味において,傲慢であり,かつ愚かだということになります。今の教育現場を取り巻く状況は,愚かさの極まった状態だと考えています。ためいきばかりの毎日です。
ねっ、そうでしょ。 (ほり(管理人))
2006-03-12 10:02:26
madographosさん、コメントをありがとうございます。

同感頂きまして嬉しいです。

いかに欺瞞に満ちた教育が行われているかが、なぜ、問題にならないのかが不思議です。どうしてみんな気が付かない、何も感じないのだろう?

一人一人想像していくことがだいじです (PEE)
2006-03-19 02:46:50
いやーー息詰まりますね。。この状態は、、

ほりさんのおっしゃる今の真性ゆとり教育を受けた子供たちはどこでこの先まず絶望していくんでしょうか、、、まず予測してみても学生の時期ではなさそうだし、、将来的にその反発が内面に向かって自己啓発のきっかけになったり、あるいは制度に反発や保障を求める様であれば一応に今の日本を反映した秩序として結果的にいいんでしょうけど、、、かしこい人間だけではない訳で、、、この世代が僕らが大事にしたい、ゆとりや余裕に攻撃をしかけてくるようになるとしたら。。。

僕はあまりに口うるさくて、出口を好む体質の人からは煙たがられてしまう事がよくあって、、、正直最近は僕の軟弱なパートがグラグラされてしまって、ガクッとまいる時があります。。そういった意味ではそういう人たちからすると、僕も逆に知識論者としてステレオタイプになっているのかな、、なんてなおのこと弱っちゃたりしてますが、、、外的要因が僕をこの方向性のみに導いているという分析された事実があるとしても、僕は純粋に啓蒙主義の申し子として、世の中庶民から盛り上がっていたいなと思っています。。。

最近は日本を外国から見てみようかな、今とは別の常識を見てみようかなと、イギリスへ4~5年移住してみようかな、、、なんて事を考えていますよ。



個と集団 (ほり(管理人))
2006-03-19 16:51:25
PEEさん、ご訪問&コメントをありがとうございます。



一人一人は、意外に絶望しないかもしれません。「壁」を立てて、その中では幸せなのかもしれません。でも、その分、社会はギスギスするのかなぁ?



新聞に、どこかの会社が十代を調査したら、「悩んでも解決しないことには悩まない」という答えが多かったらしいです。これ、人生に積極的、建設的に見えながら、実は人間を止めようとしてるってことじゃないかと私は思います。悩む、ってのは、考えることだし、悩んで解決できることも捨ててる危険性があるからです。犬や猫は、「困る」ことはあっても、悩むことはないだろうから。前頭葉が弱っているのでしょうか。どんどん社会が細分化していく気がするなぁ。で、最終的には「カリスマ」政治家が出てきたら全体主義につっぱしりそうだ。考えないとそうなりそうです。

TBありがとうございました (ほり(管理人))
2007-01-20 10:39:05
これ、ずいぶん前の記事ですが、kamihira_logさんから、TBをいただきました。気に掛けて頂いて嬉しいです。(こちらからもTBさせてください。)
「効率と無駄の狭間にて」にコメントを差し上げたかったのですが、メルアドを入れないから?ダメみたい。で、自分のトコに書いてます。
以前から読んでくださってくださるとのことで嬉しいです。(ありがとうございます。私の考え方って、けっこう大学の先生ウケが良いみたいですね。)

この記事、久しぶりに自分でも読み返してみました

小・中・高だと、どうしても「結果としての知識・技能」を優先することになるようです。
でも、かつては、書き取りや計算ドリルなどを通して「学習方法」を身に付けていたと思うのです。たぶん、無意識のうちに「学習する方法やその大切さ」も体得させていたのでしょう。しかし、近年は効率優先でこれらが蔑ろにされている。
無意識に(あるいは、そうせざるを得ずに)やっていたことだから、それらが欠けてきても意識化できず、表に出てこないところに根因があるように思います。ブログにはよく愚痴ってますが、学校だと余り共感されませんから。

大学は教育の最終過程だから、ことさら「これでは困ったね」ってことになるんですよね。根幹は小学校からの教育にあるのに。

今後ともどうぞよろしくお願いします。
想像力が必要な時代になれば・・・ (kamihira)
2007-01-21 22:17:07
こんにちは、kamihira_logの上平です。この記事以外でもいつも読むたびにひざを打つことばかりです。

>無意識に(あるいは、そうせざるを得ずに)やっていたことだから、それらが欠けてきても意識化できず、表に出てこないところに根因があるように思います。

確かに。でもこの表に出てこない本当の価値が、いまの便利な生活の中で必要だと真剣に感じられないってのが、またややこしいとおもうんですよね。いつか起こる先のことを踏まえて今苦労するほど想像力のある子ども(や親)は少ないと思います。
結果的に今の気分のよしあしですべてを判断しまう、というか。よかれとおもって優しくしているつもりが逆に真綿で首しめてるようなところがありますよね。

この問題はゆとり教育世代が社会人になった頃には表面化するでしょうから、広く理解してもらうためにはもうちょっと時間がかかるのかもしれません。


#メルアドはダミーでOKですので、お気軽にコメントいただけましたら。
こちらこそ今後ともよろしくお願いします。
ようこそ! (ほり(管理人))
2007-01-23 00:05:21
上平さん、ご訪問&コメントをありがとうございます。

>この記事以外でもいつも読むたびにひざを打つことばかりです。

ご賛同いただきありがとうございます。学校では通じないことが多いので嬉しいです♪

>でもこの表に出てこない本当の価値が、いまの便利な生活の中で必要だと真剣に感じられないってのが、またややこしいとおもうんですよね。いつか起こる先のことを踏まえて今苦労するほど想像力のある子ども(や親)は少ないと思います。

「空気」や「水」のありがたみを感じないのと似ているかもしれませんね。(ちょっと違う気もするけど。笑)
私は、人間であることの大きな特色は「想像力」だと思うんですよ。これが欠けてきてるのが何とも嘆かわしいと思います。

>広く理解してもらうためにはもうちょっと時間がかかるのかもしれません。

私はちょっと悲観的で(笑)、わかる人はわかるだろうけれど、わからない人も多いと思っています。すでに、社会人になっている人でもわからない人はたくさんいるから。まさに「バカの壁」です。

どうぞ今後とも気楽に遊びに来て下さい。上平さんとこにも寄せさせていただきます。

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