考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

職業適性検査は諸刃の刃ではないかと思う

2009年08月03日 | 教育
 たぶん「自分が何に向いているのか分からない」という生徒や人の仕事選びが適切にいき、仕事を全うしやすくするために「適性検査」というものが存在するのだろうと思うが、これって、逆方向に働くことはないのかな?
 「この世に適性検査というものが存在する」という事実によって、「私には適する職業があるはずだ」という信頼を生む。こういったメタレベルかそれとも水面下といった方がいいのか分からないが、ウラに存在しうる信頼が「もっと自分に向いた仕事があるはずだ」という信憑につながる、という負の側面である。

 「職業選択の自由」なんて言葉はあるけれど、私が教員をやっているのは、当時の女性の仕事で一生続けられるのが教員と看護婦(←これは当時の名称)と薬剤師くらい。(弁護士というのもあったが、法学部はてんで興味がなかった。司法試験は難しいし。)で、看護婦も薬剤師も、私の選択の範疇には全く入ってこなかったから、「じゃあ、教員」ということになった。「公務員」と言う選択もあったが、実際には男女不平等だと聞いたから、「教員」。親が教員、とか、教えるのが好き、というのも後押ししたが、主要な理由が、「自分が教員に向いている」とか「私は是非教員になりたい」というのでないのが、今の時代感覚から大きく外れているというのが何とも言えない。でも、リアルワールドで私を知る人は「見るからに教員」というはずである。(笑)
 他の仕事に就いていたら、それはそれなりになんとかやっていたんじゃないのかなぁと思う。「利潤追求」だったら、その権化になっていたとも思う。営業スマイル、舌先三寸でなんでもごされ、だったかもしれない。(笑)

 高校時代、進路適性検査のようなものを受けたような気もする。そのなかに「教育学部・教員」も入っていたような気もするが、他の仕事もあったように思う。別に、私がなれたかもしれない仕事は教員だけだったというわけではない。ただ、当時は、そういう検査の類を信じている生徒は少なかった。先生もあまり気にしてなかったと思う。
 
 そうか。
 この類の検査とは、「信仰」の一種なのだ。

 昔と今の教育の最大の違いは、「みんな一緒を目指す」と「一人一人の個性を活かす」の違いである。前者と後者では、適性検査に対する「信心度」は大きく
かわるだろうというものだ。

 前者の場合は、「誰が何の仕事についても同じ」だから、適性検査に信頼を寄せることはない。しかし、後者のなると、実のところ、実感として、余程の場合を除いて、仕事に活かすほどの「個性」を持つ生徒なんて、そういるわけでないのである。だのに、「個性を活かす」を標榜されたものだから、それに合わせるがごとく、「個性探し」にやっきになり始めた。「強いられた」と言う方が適切かもしれない。でも、もともと大した個性なんてないのだから、ないはずの個性が見つかるわけがない。それでも「見つけ出さなければならない」という強迫観念に似た感覚で「個性探し」が始まって、「適性検査信仰」が生まれ、みんなドツボにはまった気がする。
 
 それで、「適性がある」と診断されると、たぶん、いまどきのことだから、「適性があれば努力しなくてもすいすいやっていける」という無意識の感覚を生み出したのではないのかしら。ホントはそんなはずがないのに、「信じるものは救われる」である。学校の勉強だって「効率の良さ」という(面倒だからもう書かないけど)「無駄な努力を一切否定する」に繋がる感覚が根底にあるくらいだから、そこで育った生徒が、実るかどうかも分からない努力を肯定するわけはない。それなのに、我慢して辛抱がいって、先が見えないままにとにかく努力を強いられるものだから、「こんなはずじゃなかった。私にはもっとふさわしい仕事があるはずだ」と思い込んでしかりであろう。それで、永遠の負のループに陥る。
 大昔だったら、向いていようが向いていなかろうと、ほとんどの人が百姓をしなければならなかった。「自分にあった仕事」ではなく、「仕事に自分を合わせる」ほかない。「そのどこが適性だ」ということだ。

 「石の上にも三年」で、接客が苦手の人が営業マンになって、そのうち良い成績を上げる、ということだって大いにあったはずだ。人間なんて、よく言えば、けっこう「融通が利く」、悪く言うと「いい加減」なものである。これは、多くの人の能力は、信頼に値するということである。この意味では、今は、「人の能力を信頼しない時代」と言い換えることも出来るだろう。「大器晩成」が死語になったといえるかもしれない。

 もっとおおらかに考えればいいのに、あらゆることに関して、狭く、小さく分割する傾向が強い。これは、その方が、「専門的」で、専門的な故に「プロぽくってカッコイイ」ことになり、それぞれの狭い範囲での「親方」が存在することになり、プライドが擽られるということだろうか。
 国家資格としての「○○師」の数は増えてないのかな?(事実は知らない。) 「資格」という「自分以外の保証書」なくして、自分の技能も他人の技能も判断しきれなくなってきているということなのかなという気もする。(学校で「評価」に重きが置かれることになってきたのも同じか。)まあ、「専門的知識」がより深くなっているから、素人に判断が付きにくくなってきているのはあるかもしれないが、それでもねぇ、それだけではないような気がしてしようがない。

 以上、脳味噌垂れ流し。
 (こんなに長くなると思わなかった。これが、このブログが、小中学校高校と作文が大の苦手だった人間が書いたものとは、とてもじゃないが、思われないよなぁ。。まだまだいくらでも書くことはある。)

8 コメント

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Unknown (執事)
2009-08-04 05:47:57
様々な心理検査の大本である知能検査は、徴兵で使えない兵士をはじくために研究されたのが始まりなんですよね。つまり、人間の負の部分を見出すことから始まったということです。
初期の精神分析が怪しげなことをしてたおかげで、心理検査や何かに抱かれる不信感というのは根強いのですが、結局は使い方次第なのですよね。学校でやるものとなるとクレペリン検査(ひたすら単純計算する奴)とかなのでしょうが、ああいうのは参考にする程度で、生徒、ましてや先生が振り回されているようではいけないのです。適性検査も然り。私も受けたことありますけど、主に手先の器用さによって測るタイプのもので、なんと全部の職業に適性あり、でした。かえって意味がないですよね。まあそれはどうでもいいとして。
先の発達障害の記事にも関連しますが、まあ障害とひとくくりにしても色々種類があるわけで、対応の仕方もかなり違ってきますから、それらに関する知識と検査結果を先生が知っておくこと、それ自体は有益なことだと思うのです。

さて、話を変えて、個性と職業。
最近思うのですけれど、もう働きたくない人は働かなくていいんじゃないかな、と思うのです。ベーシックインカムといって、国民一人一人に一律でひと月当たり七~八万円ぐらいを配る、ってやり方が提唱されているのですけど、年金や社会保障をこれに一本化するのです。そしたら、まあ質素に暮らせば食うに困るようなことはないわけです。
あとは、何やるも自由。これなら、自分の「個性」を見誤って不幸な目に会う人も減るでしょう(自分の能力のなさに失望するくらい、かな)し、きつい労働の給与は上がるので、贅沢したい人はそこで働けばいいわけです。
「個性」信仰の弊害を、啓蒙によって打ち砕くのではなく、無効化するやり方、です。ま、こんなのも面白いんじゃないかな、と。
従順な市民のつくりかた (わど)
2009-08-04 13:34:24
まったく、何てことでしょう。最近はほり先生のブログから目がはなせません。
というのは、こっちが高校時代以降にメチャメチャ苦しんだ問題――しかしその後も影になり日向になって苦しめて、やっと最近なーんだそっかバカみたいじゃーんとうっすら気がついて、やがて、おれはおれなんだからやっぱり、それで行くしかないしーと思っているうちタクドラ以外にできる仕事がなくなった、そんな問題――が、ビシバシ言語化されているからです。
この「適性検査」的な考えは(たぶん、おっしゃる以上に)巨大な社会悪イデオロギーです。それまで数学や自然科学、音楽や小説や恋愛ゴッコやスポーツを楽しんできた若者文化に、急激な方向意識を植え付けたからです。いわく「社会に役立つために」、「自分を十分生かすために」、「可能性をよりよく開花させるために」。全部、嘘でした。その嘘を街中に撒き散らすために、一体どれだけの自称・知識人や自称・先生、自称・文筆家が若者たちのエネルギーを押さえ込もうとしてきたでしょうか。
まず文系・理系へと分類され、にがてな数学・理科と別れられて文系は幸せ感にひたったし、理系はメンド臭い歴史年表から開放されて受験科目の習得に時間を有効利用できました。音楽やスポーツ(小説、マンガetc)はしだいに忘れられ、ソレカラの問題としてペンディングされていきました。
要はこうです。
適正意識の植え付けは、若者意識に分裂・分断をもちこんで若者を社会的な均質化圧力のもとに位置づけ、さしあたって偏差値という2次元座標軸のうえに順序づけ配列させるためのイデオロギー、というよりツールでした。多少の得意・不得意を足がかりにして、それとしらず若者たちは自分の意識をバラバラに分解して、ドミナントな配列圧力のものに自分の存在を位置づけるように命令されてきたのです。有名な正規分布の右端に「自分」を見つけて喜び、その次がんばって東大入学者予定のなかに入っていたとき(偏差値85?)、なーんだつまんねーやと思っちゃってからドロップ・アウト。←信じなくていいです。
コメントにふさわしくない長さになってきました。
そうした分裂・分断政策にたいするリベンジは、根深く大きいはずだ。これが最後にいってみたかったことです。そのすえにタクドラの自分があるんだから自嘲しています。喰わなきゃいけなかったので・・・。
人の感覚を信用しない考え方 (ほり(管理人))
2009-08-04 22:57:15
執事さん、コメントをありがとうございます。

そもそも「検査」は「数値」だから、検査重視の考え方は、人そのもの、つまりはアナログな自分の感覚を信じないところからきているのでしょうね。(だから、ただのブログの意見にも「検証」を求める。)そりゃ、直感的なものが間違えることだって当然ある。でも、それは「数値」だって同じです。「どこをどうやって切り取るか」で変わりますから。

学校で行われる具体的な検査は、クレペリンは、個別の生徒の結果がどうのと言うのがないとは言えないけれど、生徒は変わりますから。それでも、「集団」としてみると、入学者の年度による変化が傾向として見える。この点ではかなり有用です。個と集団は扱いが異なります。

それから、毎月7,8万の不労所得はなかなか
魅力的ですね。(笑)でも、今の財源で可能なのですか? 可能なら是非。(笑)
数人集まればなんとか暮らしていけないかしら? そのうち「一人」にがんばってもらって。。。(でも、「類は友を呼ぶ」から、「ナマケモノ」ばかり集まってもなぁ。。。)

仕事は穴埋め-養老先生の至言 (ほり(管理人))
2009-08-04 23:26:39
わどさん、コメントをありがとうございます。

「派遣社員」という職?が生まれたとき、何となく胡散臭いなぁと思いました。そしたら、やっぱり。。。
そんなに自分の都合の良い働き方ができるのかなといぶかしく思ってたので。

若い人が、そういうのに騙されてるように思いました。
適性検査の結果に合う求人がなかったら、どうするのだろう? 「信じるも八卦信じないも八卦」くらいの感覚ならいいけど、イマドキは、検査の「商品価値」を高めようと、売り込む側も「信頼できること」をアピールするから--こんなに便利、参考になる、とかも含めてだけど--買う(?)方も、「信じないと損をする」くらいの気分になるのではないのかしら(←暴言的)。でないと、「モトが取れない」から。実に消費者mindedです。これも、広く効率重視の考え方でしょうね。

これからの若者には、「君たちは何でもできる。ただし、常に努力せよ」ですね。

ところで、わどさん、やっぱり偏差値の端だっったんですね。(全統とベネッセで逆だけど。)なーんとなくそんな気がしてて。。
このブログ、不思議にも(私から見るとかなりの頻度で)そういう人が登場する。
Unknown (執事)
2009-08-11 15:26:46
自分の感覚を信じないというよりは、熟練した一人では捌けない人数について判断しなければならないという状況がまずあって、それを人力で手分けしてやろうとすると個々人の判断基準と熟達度の違いによりばらつきが出てしまう、という問題があったのだと思います。
まあ職業適性くらいなら、被検査者の受け止め方次第ですけど、徴兵や精神病の検査だと、それってすごく問題ですよね。
時に権威に押しつぶされる社会から、良くも悪くも自分次第の社会になっていくのが、時代の流れかと思っています。「どれほど悪い結果に終わったことでも、それが始められたそもそもの動機は善意によるものであった」というカエサルの言葉もあります。そんなにわかりやすい悪役ってのはいないものです。もしいたとしても、本当にそいつが元凶かどうか、そいつをスケープゴートにしようとしている奴がいないかどうか、をまず疑ってかかるべきです。具体的には、市場原理主義、とかね。

ベーシックインカムは、ここで半端に語るよりは、ちょっと検索してみるといいかと思います。財源は、年金基金、様々な社会保障、消費税の値上がり分、などでしょうね。
障害となるのは、妬みと愚かしさ。まあ、それ以上に厄介なものなどありませんけどね。
検査をする側される側 (ほり(管理人))
2009-08-11 22:54:43
執事さん、コメントをありがとうございます。

「検査」というのは、結果が相対的に判断されるものだから、被験者それぞれにとってのメリットより、検査する側の方にメリットが大きいときの方が多いのでしょうかね。そんな気がした。(この典型が「アンケート」とも言えよう。)
まあ、要は、全体像を知ったうえで、個を取捨選択することだってできるのだから。

それから、何であれ、誰かのメリットが他の人にとってのデメリットになることも多いから、難しいですね。

>障害となるのは、妬みと愚かしさ。

最終的には、扁桃体が関わるのだろうか。
前頭葉の制御との兼ね合いなのかな。
Unknown (執事)
2009-08-12 16:31:45
誰にとってメリットがあるのか。
何のために検査をするのか、の話でもありますね。
元々は、規律ある軍隊を組織するためとか、精神病者を判別して治療を加えるため、とかだったわけです。
そのように、検査結果を主体的に活用できる側であれば、メリットは大きいわけです。
そうすると、職業適性検査は例えば企業が学生たちをふるいにかけるような場合には有用、ということになります。
つまり、学校で自分の職業適性検査を受けるのなんて、ほんのお遊び、余興のようなもの、なのかも知れませんね。
「こいつはどうしようもねぇな」って被検査者であっても「貴方は仕事をすることそのものに向いていません」なんて出せないでしょうし。
そうですね (ほり(管理人))
2009-08-12 21:22:58
執事さん、コメントをありがとうございます。

>つまり、学校で自分の職業適性検査を受けるのなんて、ほんのお遊び、余興のようなもの、なのかも知れませんね。

そのようなとらえ方をする方が先が明るいような気がします。
「大器晩成」ってね。

>「こいつはどうしようもねぇな」って被検査者

「生活の改善をしましょう」などの指導的な内容になるのかな?

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