富山市の中心からわずかに東に逸れた新庄町の街道沿いに、町屋造りの金岡邸が立っている。
母屋部分(という事は街道に面した店もそうだろう)は、明治初年に建てられ、門が前から入る座敷は大正初期の造りであるという。
漢方の生薬の材料が豊富に保存され、それを丸薬にする道具も、すぐにも使えそうな感じで保存されている。
全国を渡り歩いた富山の薬売りの旅道具。帳簿に矢立て、そろばんは、事務用具の必需品だろう。
明治期に建てられた母屋と、大正期の座敷(写真右側)に挟まれた中庭。明治期としては立派な内庭だったのかもしれない。
非常に格の高い座敷。スケールの大きさも並みではない。
それでいて、大変な技の技が使われている。
これを一般に開放しているのは実に太っ腹、とでも言うべきだろう。
庭の灯篭や、石の置き方は、目が離せないように興奮させてくれる。
大正期らしい、日本中から優れた物を集めようという意欲が見て取れる。
いかめしい瓦屋根の中にしつらえられた茶室ではあるが、気持ちのよい風が吹き抜ける事に変わりはない。
北陸の座敷としては、本当に一級だと思う。
母屋の二階から見渡せば、屋根の造りも納得の丹精が見て取れた。
母屋部分(という事は街道に面した店もそうだろう)は、明治初年に建てられ、門が前から入る座敷は大正初期の造りであるという。
漢方の生薬の材料が豊富に保存され、それを丸薬にする道具も、すぐにも使えそうな感じで保存されている。
全国を渡り歩いた富山の薬売りの旅道具。帳簿に矢立て、そろばんは、事務用具の必需品だろう。
明治期に建てられた母屋と、大正期の座敷(写真右側)に挟まれた中庭。明治期としては立派な内庭だったのかもしれない。
非常に格の高い座敷。スケールの大きさも並みではない。
それでいて、大変な技の技が使われている。
これを一般に開放しているのは実に太っ腹、とでも言うべきだろう。
庭の灯篭や、石の置き方は、目が離せないように興奮させてくれる。
大正期らしい、日本中から優れた物を集めようという意欲が見て取れる。
いかめしい瓦屋根の中にしつらえられた茶室ではあるが、気持ちのよい風が吹き抜ける事に変わりはない。
北陸の座敷としては、本当に一級だと思う。
母屋の二階から見渡せば、屋根の造りも納得の丹精が見て取れた。
ほぼ不案内です
こちらの商家
庭の雰囲気が
兼六公園に似てるような感じがします
北国街道を文化が北上していたのかもしれませんね
北前船の立ち寄る範囲に広まった文化圏、ではいかがでしょう。北国街道は金沢までの参勤交代に使われましたが、江戸後期になると財政が逼迫した藩が多く、お金も文化も落とす余裕はあまりなかったように思います。
それに較べ、九州を中継ぎに使う北前船の密貿易は巨万の富をもたらしたようで、特に漢方薬などは中国との密貿易が無ければ土台入手不可能なように思われます。
それを全国に売り歩いたのが富山の薬売り、とは深読みに過ぎるのでしょうか?
大正期の庭園は、
庭石や灯籠、手水鉢がとにかく大きくて、
とても豪華に見えます。
これまで、
富山にはなかなか行く機会がなかったので、
庭巡り、
行きたくなりました。
大正期の庭石や灯篭が豪華なのは、国内の運輸事情の発展と大きく関係するように思っております。およそですが、明治30年代までは水運事業が主で、山深い所にある庭石や銘木を運ぼうにもなかなか思うにまかせなかった事情があるように思います。それが、明治後期の信越線等の開通により、運輸事情がかなりよくなったように思うのです。
その時代、景気の好転もありこれ見よがしの物が置かれた歴史があるように思われます。