新発田三代目藩主の宜直は、この地にあった曹洞宗の高徳寺を近郊に移し、下屋敷を造営した。四代目藩主重雄は、幕府茶道方であった縣宗知をを招いて、庭園を築いた。
新発田川にも近く水が豊かだったこの地に、17世紀半ばに池を中心とした庭園が作庭された、という訳である。
廃藩置県により藩主の溝口家の手を離れ、荒れてしまっていた庭を1953年から5年がかりで修理・復元したのが柏崎出身の庭師、田中泰阿弥である。
書院に一番近い桐庵は、ちょっとくたびれた感じがする。しかし、茶室の場合、それこそがいい味を出しているのかも知れず、侮れない。
池に張り出した夕佳亭。内部はもちろん立ち入れないが、高い位置にある窓からカメラでのぞいてみた。茶を喫すにも良い水は欠かせない。池庭にも豊かな水が必要である。その両者が直接に出会った感じがする。
石と水との接点と言うと、州浜に石橋ではないだろう。この庭には、工夫を凝らした多数の石橋が配置されている。今回、訪れてその数の多さに驚いた。
州浜の先の、池が入り組んでいる辺りは実に見どころが多く、たった数メートル移動しただけでもまるで違う風景が展開する。ぐるぐると、何度も同じような所をめぐってしまう。
池の一番奥の所に、この池の主な水源となる滝が築かれている。そこにも深山幽谷ともいうべき景色が配置され、見事な石橋が渡されている。
しかし、この場所には流れに十分に匹敵する見事な勢いの石が配されている。
石橋の向こうには腰かけ待合。池から、そり出す石にも深い味わいを感じる。
茶室の同仁斎(なんと足利家のものと同じ名前)で、お茶をいただいた。汗をかいた後にはありがたかった。その隣はやはり茶室の松月亭。
新発田川にも近く水が豊かだったこの地に、17世紀半ばに池を中心とした庭園が作庭された、という訳である。
廃藩置県により藩主の溝口家の手を離れ、荒れてしまっていた庭を1953年から5年がかりで修理・復元したのが柏崎出身の庭師、田中泰阿弥である。
書院に一番近い桐庵は、ちょっとくたびれた感じがする。しかし、茶室の場合、それこそがいい味を出しているのかも知れず、侮れない。
池に張り出した夕佳亭。内部はもちろん立ち入れないが、高い位置にある窓からカメラでのぞいてみた。茶を喫すにも良い水は欠かせない。池庭にも豊かな水が必要である。その両者が直接に出会った感じがする。
石と水との接点と言うと、州浜に石橋ではないだろう。この庭には、工夫を凝らした多数の石橋が配置されている。今回、訪れてその数の多さに驚いた。
州浜の先の、池が入り組んでいる辺りは実に見どころが多く、たった数メートル移動しただけでもまるで違う風景が展開する。ぐるぐると、何度も同じような所をめぐってしまう。
池の一番奥の所に、この池の主な水源となる滝が築かれている。そこにも深山幽谷ともいうべき景色が配置され、見事な石橋が渡されている。
しかし、この場所には流れに十分に匹敵する見事な勢いの石が配されている。
石橋の向こうには腰かけ待合。池から、そり出す石にも深い味わいを感じる。
茶室の同仁斎(なんと足利家のものと同じ名前)で、お茶をいただいた。汗をかいた後にはありがたかった。その隣はやはり茶室の松月亭。
四阿の配置もいいですし
池と石組みの配置や
畔の処理もいい感じです
なかなかの名庭園ですね
なかなか行けずにいる庭園です。
けっこう広いんですね。
イメージが少し変わりました。
新潟の庭園巡り、
まだまだ実行できていません(涙)。
この庭は管理が素晴らしく、細部の造作が生き生きと感じられます。田中泰阿弥の修復後、ずっとその状態をキープしている感じで、大変なものだと思います。
また地形的にも有利なのか、こちらの苔も見事です。この日は、比較的苔の状態はダメでしたが。
江戸時代の日本海の廻船文化を残す庭だと思います。
新発田藩主の下屋敷ですから、それなりの広さがあります。また、細部まで緊張感が持続する点では、江戸の大名庭園よりも相当に上を行くように思います。
こちらと、日本海のお寿司を組み合わせれば、とても充実した旅が出来るように思います。