・・行ツテコハガラナクテモイヽトイヒ・・

防災関連・物品・正しい情報など個人で追求している防災ブログです。備え は自分の為ではなく身近な弱者様用と考えましょう。

人が集まらず困り果ててらっしゃいます。

2008年10月03日 | ◆Weblog
pdfファイルはここ
                            岩手のKさんより 37


岩手・宮城内陸地震で被災し一時帰宅を余儀なくされている栗駒耕英地区は6月14日の震災以来、畑の手入れが出来ず雑草に覆われています。いちごは収穫まで2年かかります。一年目は苗づくり、2年目に株分けして6月20日すぎから7月10日ぐらいに収穫されます。来年のいちご苗を今植えて置かないと再来年の収穫も見込めません。ここは11月始めには雪が降ります。

 その前に、いちご、その他の作物等、農作業ボランティアを行います。
今、耕英地区の皆さんは週5日午前8:00~午後5:00の日中のみの一時帰宅です。朝、住民の方と一緒の車に乗って山に上がり作業終了後一緒に山から下りてきます。

実施日 :10月4日(土)、5日(日)
集合場所 :くりこま応援の会(宮城県栗原市栗駒岩ヶ崎八日町33-1)
集合時間 :午前6時

必要なもの:農作業に適した服装、長靴、軍手、タオル、着替え、帽子、水分、昼食


申し込み・お問い合わせ:くりこま応援の会 TEL0228-45-2910 菅原幸司まで

ホームページ:くりこま応援の会

遠方から来られる方は寝袋持参であればくりこま応援の会に素泊まりも可
(もと居酒屋なので広い畳部屋があります。)

朝、早いので前日宿泊も可 駐車場もあります。

ここは街中です。コンビニ、食事をする場所、温泉も近くにあります。温泉(車で20分)
当日、天候などにより作業内容を変更することがあります。ご了解ください。

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私たち「くりこま応援の会」はNPO法人ハートネットふくしまとNPO法人とちぎボランティアネットワークが協同で立ち上げた会です。(協賛:チャリティ・プラットフォーム)
岩手・宮城内陸地震で被災した宮城県栗原市栗駒地区の皆様がもう一度、”山に帰る!”を手助けする為に、昨年、廃止された栗駒田園鉄道栗駒駅から徒歩30秒の場所を借りて、常駐スタッフ1名が活動しています。
当面は、くりこま耕英震災復興の会(耕英地区被災住民による会)のバックアップを中心に山での一時帰宅の作業手伝いを行ないます。
(耕英のイワナ、いちごジャム、山にカエル!スッテカーの販売なども行なっています。)
そして、毎週日曜日を「カレーの日」とし、地区の皆さんとカレーを食べながら日々のこと、これからのことを語りあえる場所づくりを目指しています。
また、宮城県、そして全国のみなさんへの情報発信を行います。
避難所生活から仮設住宅へ移り、週3日の限られた時間での一時帰宅はできますが、もう直ぐ雪が降ります。これから復興に向けて長い年月がかかります。
全国の皆さんが、くりこま地区の事を忘れないように情報発信を続けていきたいと思いますのでご支援を宜しくお願いします。

くりこま応援の会

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栗駒を応援する会の菅原幸司さんから岩手のKさんを通じて以下のような依頼がありました。

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協力お願いします。

くりこま復興の会の菅原さんから電話ありまして援農ボランティアの参加人数が私を含め現在3名しか集まらず、どうにか集めて欲しいとの事でした。
岩手は、この週末は農繁期・行楽のピークで人集めは難しく、しかも宮城は10月は、大型イベントが多く人は吸い取られたと言うのです。あっしには関わりがないんですが・・

詳しくは添付ファイルを・・・


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との事です。




くりこま応援の会通信
平成20 年9月30日 くりこま応援の会発行 7号 発行者:ハートネットふくしま&とちぎボランティアネットワーク

〒989-5301 宮城県栗原市栗駒岩ヶ崎八日町33-1 場X:0228-45-2910 E-mail:kurikomakouei@yahoo.co.jp

HP:http://www.geocities.jp/kurikomakouei/

秋の気配 冬支度始まる

仮設住宅の寒冷地仕様工事が始まりました。工事内容は(1)窓二重サッシの設置(2)玄関ひさし及び風当たり防止袖壁の延長。この工事で玄関の外に脱いでいた靴が濡れることはなくなるでしょう。今回の仮設住宅は4年前の新潟県中越大震災の仮設住宅にはなかった高齢者に配慮したスロープをつけています。しかし、玄関の表に扉をつけないと冷気が吹き込んでものすごく寒いと思います。4年前の中越大震災の震源地川口町ではボランティアが材料費だけ住民の方にいただいて扉を設置しました。(菅)栗駒耕英地区の成り立ち -満蒙開拓と戦後の耕英開拓-昭和7年(1932年)3月1日。「王道楽土」「五族協和」を合い言葉に満州国が成立しました。満州国は日本が、大陸での権益を守るため清朝最後の皇帝「溥儀」を執政に据えたいわば傀儡国家でした。日本は広大な満州に100万戸、500万人の移民を計画し、日本全国から一般開拓民や満蒙開拓青少年義勇軍を送り込みました。ところが、昭和20年(1945年)8月、ソ連の参戦によって大混乱に落ちいり、その際、開拓移民に多くの犠牲者を出しました。現在の中国東北部に当たる「満州」は面積が日本の3.5倍、約130万平方km で人口は約4,400万人でした。このうち日本人の満州への移民は、一般開拓民22万人、満蒙開拓義勇隊員10万人のあわせて約32万人と言われています。宮城県からも多くの方が満州開拓に夢を抱き、海を渡って行きました。

ところが戦争は日中戦争から太平洋戦争へと拡大し、開拓団でも男性の殆どが現地召集を受けました。そして、昭和20年(1945年)8月9日のソ連参戦は、地獄の幕開けとなりました。開拓団に残された老人や婦女子の辛く苦しい逃避行が始まります。この間食糧不足による栄養失調で多くの人がバタバタと死んでいきました。現地で招集され、兵役に就いていた男の人たちもソ連軍の捕虜になるなどで苦しい生活を余儀なくされ、終戦後すぐには故国の土を踏めませんでした。やっとの思いで日本に引き揚げてきたものの、日本には生活の拠点がありません。そこで、全国各地において開拓入植が奨励されました。

開拓の始まり

そのような中で、耕英地区へは同じ宮城県内の丸森町から多くの入植がありまし。昭和22年に開拓先遣隊が入植しています。現在、6世帯が耕英地区に在住しています(一世は2人86歳)。そのような縁から、被災直後から丸森町として耕英地区にボランティアを派遣したいとの意向も寄せられていますが、栗原市が一貫して安全を考慮して住人、親戚、工事関係者以外は入山を許可しないため、お断りせざる終えない状況です。そのため、丸森から新米10kgづつ手紙つきで耕英地区41世帯に送ることが提案されています。金澤区長の奥さんのお父さんは、丸森町耕野出身だそうです。



耕英という地名は、耕野よりもっといいところにしようという願いをこめて耕英と名づけられたそうです。
丸森町耕野は阿武隈川と山に挟まれた山間の町で耕作地が少ない場所であるため、戦後満州から帰ってきた農家の次男、三男坊が分家する土地もなく、耕英地区の開拓に入りました。耕英地区でも標高が高く原野であったところに入植しました。当時は湯治場としての駒の湯しかなく、春から秋までの間に駒の湯を拠点に開墾し、住まいを建てたそうです。その後、冷涼な標高の高さを生かして、高原大根と端境期の露地イチゴの産地となります。また、地区の清流に生息するイワナの養殖に挑戦し、日本で初めてイワナ養殖に成功しました。また、駒の湯のほかにも民宿やハ
イルザーム等の宿泊施設が増加し、観光も地域の重要な産業となります。


激震で一変した耕英

しかし、これまでのそれらの努力の結晶も、あの震度6強の地震で一瞬に激変してしまいます。陸の孤島と化した耕英地区から避難することを選択せざるを得ず、
結果として収穫期のイチゴや出荷最盛期を控えたイワナの管理ができずに、地区
の皆さんは忸怩じくじたる思いを募らせていきます。そのような中で、自衛隊のヘリによる一時帰宅で少しづつではあるものの、イチゴの収穫やイワナの管理を進めたのです。そこから生まれたのが復興いちごジャムです。

また、地区のみならず県北地域等での大きな風評被害等の影響もあり、観光産業が大きな影響を受け、そのためにイワナの販売先が確保されない中で、各地のイベントでのイワナの塩焼きの販売が大きく寄与することとなります。

生業再建 大根、イチゴ、イワナ 潤オそして、花卉栽培へ

地区の皆さんの、将来に対する不安も大きなものがあります。イワナについては、今後の安定した販路が確保できるのか、イチゴや高原大根に代わる新たな作物としてのカスミ草等の花の栽培が順調に拡大していくのか、宿泊施設の再建ができるのか、再建した場合にお客が戻ってくるのか、そして何よりも住民がこれからも耕英地区に住み続けられるのか等です。大規模災害の被災地では、災害後の過疎化が進む傾向があります。中越地震の被災地で震源地でもある新潟県川口町木沢集落では56世帯が地震後38世帯に減少してしまいました。集落に子供がいないといった現象が現れました。耕英地区の耕英分校も今現在生徒3人。来年廃校の危機に瀕しています。

また、当面の生活を維持するため、また、山に帰った時に生業を再開するためには、多額のお金が必要です。避難所生活では避難所自体の住宅費はかからないものの、収入がない中での生活費は必要です。土地等の資産があると生活を維持するための生活保護を受けることもできません。山に帰ってから生業を再開するための資金も必要です。現行の制度ではそれらが手当てされないのです。これは、災害復興制度の中で大きな課題でもあります。早急な検討が必要です。


3世の活躍!

一方、明るい点も見られます。それは3世の力です。現在、復興ステッカーやTシャツの販売、インターネットでの情報発信等、30歳前後の3世の若者たちが復興の重要な担い手として活躍しています。仙台などの宮城県内のみならず、東京でのイベントへの積極的に出かけています。耕英の先達の不屈の精神とこれからを担う若い力とで、この難局を乗り越えていってくれるものと信じています。ぜひ、
多くの皆さまのご支援をお願いいたします。(君)




どうしてボランティアセンターがないんだろう?????

見通しが誤りだった・・?




一人で頑張る菅原君(私の部屋にて)

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