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防災関連・物品・正しい情報など個人で追求している防災ブログです。備え は自分の為ではなく身近な弱者様用と考えましょう。

能登半島地震で何が求められていたか 72 能登半島地震の被害に第2回義援金の配分

2007年08月31日 | ◆Weblog
能登半島地震の被害に第2回義援金の配分 (31日)

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今年4月以降全国から寄せられた能登半島地震の義援金、16億9千万円の配分計画が決まりました。全壊世帯には新たに80万円が配分されます。全国から県や報道機関に寄せられた能登半島地震義援金については今年4月、13億1千万円が配分されています。
 その後も新たに16億9千万円の義援金が寄せられたため31日配分を審議する2回目の委員会が開かれました。今回の計画では住宅被害に重点的に配分することとし、全壊の住宅には第1回の配分に加えて1世帯あたり新たに80万円、半壊の住宅には40万円を配分することを決めましたまた一部損壊住宅にも1万7千円が追加配分されます。

 この他、公民館や水道施設の復旧を支援するため「地域コミュニティ再生支援金」として被災した3市4町に合わせて1億5千万円が配分されます。(17:34)




徳島市で竜巻 プレハブ事務所倒壊など被害

2007年08月30日 | ◆被災地で起こりそうな事故
徳島市で竜巻 プレハブ事務所倒壊など被害 2007/08/30 10:11

 二十九日午後一時二十分ごろ、徳島市国府町で竜巻が発生し、プレハブの事務所が吹き飛んで倒壊したり、窓ガラスが割れたりするなどの被害が出た。徳島地方気象台によると、一八九一(明治二十四)年の開設以来、県内で竜巻が観測されたのは初めて。けが人の報告はなかった。

 目撃者によると、竜巻が確認されたのは徳島市国府町日開から鮎喰川東側にかけての約四キロ。気象台の調べでは、被害は幅約三十メートルの細長い帯状に集中。竜巻の規模を示す藤田スケールは「F0程度」(約十五秒間の平均風速一七-三二メートル)と推定された。

 気象台は、竜巻が発生した原因について、山陰沿岸に停滞している前線の南側に暖かく湿った空気が流れ込んだ影響で、大気が不安定になって国府町上空に積乱雲が発達したためとみている。

 県危機管理局のまとめでは、事業所の建物一棟でスレート屋根十枚と窓ガラス四枚が破損、ビニールハウス四棟が倒壊-などの被害が出た。竜巻の影響で国府町内の電線が切断され、百六十三戸が一時停電した。

徳島市で竜巻 プレハブ事務所倒壊など被害 徳島新聞社 

能登半島地震で何が求められていたか 71

2007年08月30日 | ◆Weblog
◎それでも「旅館買い」続く? 北陸・風評被害に泣く温泉 大阪の飲食業者名乗り
 北陸の温泉地で、再び県外資本の進出に動きが出てきた。加賀温泉郷では、ここ数年に比べて県外資本の温泉旅館取得に一服感が漂っていたが、来月、新たに一館が山中温泉で開業し、整理回収機構から破産申し立てを受けた片山津温泉の旅館にも、県外資本が名乗りを上げた。能登半島地震で停滞ムードが漂う温泉地で、再び投資熱が高まっている。
 「どうも、また県外の企業みたいだね」

 今年四月に整理回収機構が破産申し立てを行った片山津温泉の旅館「ホテルながやま」で、先月ごろから受け皿となる企業が地元の旅館関係者で取りざたされている。

 加賀温泉郷では能登半島地震の風評被害で宿泊客が前年より落ち込んでおり、旅館は軒並み前年割れで苦戦している。それでもここにきて、手を挙げる業者が現れた。

 ホテルながやまの破産管財人によると、入札は既に実施済みだが、受け皿となる企業名については「まだ公表できる段階でない」とする。しかし、既に接触した地元関係者によると、最高価格で入札したのは大阪の総合飲食業者だという。

 ホテルながやまは配湯管の老朽化が目立つほか、耐震工事を行う必要もある。受け皿となる大阪の業者は「改修後に旅館として営業を再開する見通しとなっているので安心してほしい」と地元関係者に説明しながら回っており、事業譲渡に向けて破産管財人と最終調整に入っている。

 加賀温泉郷では、九月十四日に山中温泉で再生旅館「かがり吉祥亭」が開業する。同旅館を運営するのは、同じ山中温泉で四月に「吉祥やまなか」を開業したばかりのエイチピーディーコーポレーション(大阪市)だ。

 かがり吉祥亭では九月末まで、一泊二食付き一万円の特別価格を打ち出し、スタートダッシュをかける。露天風呂付きの客室もあり、吉祥やまなかとの相乗効果で、顧客層の拡大を狙う。

 ここ数年、加賀温泉郷では宿泊者の減少に歯止めがかからず、借金経営に苦しみ、旅館を手放す既存業者が相次いだ。退職した団塊世代の需要の高まりなどで、温泉旅館の表だった破たんはいったん、鳴りを潜めていたが、「まだまだ経営が苦しい旅館は多い。水面下では買収、事業譲渡のうわさが乱れ飛んでいる」(山代温泉関係者)という。

 なぜ、既存業者では苦しいのに、買い手がつくのか。

 加賀市観光協会の萬谷正幸会長(よろづや観光社長)は「借金を抱えたままでは苦しい。だが、旅館を安く取得できれば、採算が取れるだけの魅力と歴史が加賀温泉郷にはある」と指摘する。

 全国で温泉旅館の再生ビジネスを手掛ける星野リゾート(長野県軽井沢町)も第一条件に挙げるのは「地域の魅力」だ。

 同社は破たんした山代温泉の老舗旅館「白銀屋」を二〇〇五年八月に営業再開させた。同社にとって白銀屋は再生旅館の第一号案件で、「知名度や、交通アクセス、施設自体が持つ歴史など検討する条件はいろいろあるが、日本文化が根付く地域性を最も重視した」とする。

 白銀屋を皮切りに再生ビジネスを徐々に拡大させており、今月二十日には島根県松江市の玉造温泉で八件目の再生旅館を開業する。加賀温泉郷と同じように歴史ある温泉地で、同社は「月に数十件、旅館再生の引き合いがある。しかし、条件に合致する案件は限られている」と、県外資本からみた加賀温泉郷の優位性を指摘する。

 こうした県外資本の動きに負けじと、既存業者の間でも誘客に向けた取り組みが出てきている。期待をかけるのが、今秋にも実現する小松空港の台湾定期便だ。

 加賀市観光協会では同市在住の台湾出身の女性をスタッフとして雇用し、台湾人観光客の受け入れ準備を進めている。萬谷会長は「当面は団体客が主流になるが、個人客の受け入れに向けた体制を整えたい」とし、近く、小松空港と加賀温泉郷を結ぶ二次交通対策にも動く。

 小松空港の台湾定期便以外にも、二〇一四年度の北陸新幹線金沢開業という好材料もあり、地元ではバブル以後低迷する観光業の復活を期待する声が高まっている。当然、県外資本も目を向けており、星野リゾートは「交通アクセスが向上すれば、県外資本の進出がさらに加速する」とみる。どんよりとした雲に覆われる北陸の温泉地に、今年のような暑い夏はやってくるのか。県外資本も巻き込んで、これから正念場を迎えそうだ。




北國新聞ホームページ - 北陸の経済ニュース

中越沖地震 50  柏崎職安が再就職支援、10月上旬にも面接会 情報提供呼び掛け

2007年08月30日 | ◆Weblog
中越沖地震 50

中越沖地震:柏崎職安が再就職支援、10月上旬にも面接会 情報提供呼び掛け /新潟
8月30日13時7分配信 毎日新聞


 中越沖地震で解雇された人の再就職を支援しようと、柏崎公共職業安定所(ハローワーク柏崎)は29日、柏崎市、刈羽村、出雲崎町の3市町村や商工会議所、新潟労働局など関係機関と雇用対策推進協議会を開いた=写真。10月上旬をめどに地元企業を集めて合同面接会を実施することを決めたほか、各機関に人材を募集している企業の情報提供を呼びかけた。
 同職業安定所によると、地震の影響ですでに解雇されたのは64人。うち40人は、店舗が被災し、9月20日で閉店する刈羽村刈羽の大型スーパー「PLANT―5刈羽店」の生鮮食品部門のパートで、そのほかに飲食店や衣料品、医療、旅館など13事業所で24人が職を失った。柏崎刈羽原発の計器メンテナンスの関連会社からも操業停止の影響で1人解雇されている。
 21人がすでに再就職しているが、「PLANT―5刈羽店」の閉店時にさらに120人のパートが解雇されるため、離職者は合計184人に上るという。
 稲葉豊・同職業安定所長は「製造業の解雇はいまのところないが、店舗の傷みが激しい衣料品店や旅館は厳しい」と分析。そのうえで「180人を超える大量離職が地域に及ぼす影響は大きい。地域で解雇された人は地域で再就職できるようお願いしたい」と各機関に協力を呼びかけた。
 新潟労働局から出席した布施幹男地方労働市場情報官は「各人に見合った求人を根気よく確保するよう努めたい」と話した。【岡田英】

8月30日朝刊


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中越沖地震  49 中越沖地震ボランティア体験記 オーマイニュース

2007年08月30日 | ◆Weblog
中越沖地震  49

中越沖地震ボランティア体験記
8月28日12時49分配信 オーマイニュース


 新潟県中越沖地震から約1カ月。8月9、10日と柏崎市内でボランティア活動に参加した。

 「故郷の新潟がひどいことになっている! 自分の目で見てこなきゃ分からない」と思ったのが動機。当初、ビデオカメラを持っていくつもりだったが、ボランティアとして向かうことにした。

 記事を書くつもりも、取材するつもりもなかったが、実際、現場に行ってみると、被災地で手助けをする人やされる人の、テレビや新聞からは見えない、「複雑な気持ち」がそこにはあった。以下は、私が被災者から聞いたことである。

■被災者がみた「えらい人たち」

 被災直後、Fさん宅近所では、2~3人が倒壊した家屋の下敷きになったという。なんとか救い出そうと、近所総出でがれきをどける中、Fさんはすぐそばで腕組みしている人に気付いた。

 その人は「お巡りさん」だった。

 「『ここに誰が埋まってるんだ? 身元確認をたのむ!』って、それだけガナリたててさ。救助隊はまだ来ないとか言って、全く手伝わない。何とかがれきの上に来てもらったんだけど、その時も脇に書類を抱えてるんだよな」

 まもなく、ひとりの女性が救出されたが、病院で死亡が確認されたという。

 Fさんは自営業で店の「若旦那」だった。私は翌日再開する予定の店の片付けを手伝った。

 「なんでボランティアにきたの? お金でないんでしょ? えらいねえ」

 Fさんは時々タバコを吸いながら、色々なことを話してくれた。

 水道が復旧しない間は雨水を溜めてトイレに使ったこと。自衛隊はお風呂を用意してくれたが、赤の他人と入るのは気が引けて、雨水を太陽の熱で温めて体を流したこと……。

 被災直後に被災地を訪れた安倍首相のことも話してくれた。


 「あれはまるで『大名行列』だった。人道支援が一番と言うものの、具体的にどうしてくれるのか、それが伝わってこなかった。首相が歩くと、ぞろぞろマスコミが追いかける。関係者もふくめて、異様な集団だった。こっちは選挙なんか忘れてたし、ただでさえ狭い道が地震でふさがれているのにそれが困った。TV1局に中継車が4台もあって! ここは駐車禁止だからどいてくれと頼むと、返された言葉は、『ああん!?』だけだった」

■ボランティア「される」気持ち

 ボランティア対策本部によると、1日あたりの要請件数は100件前後だという。内容は荷物整理や部屋の掃除、片付け、ゴミ出しなどの作業が多い。

 それに対してボランティア応募は、平日で200~400人、週末は多いときで900人近くが集まるという、「慢性的な人余り」状態だった(文末の注参照)。

 時間帯にもよるが、待機所で過ごす時間が長く、やる気満々なのに、すぐに活動できないもどかしさがある。お呼びがかかったと思うと、軽作業を複数で分担というケースもあった。本部の人も、「今後の人手や要請がどうなるか、数が読めない」という。

 では、被災者は本当にボランティア無しでやっていけるのか?

 「相手に悪いしなあって、遠慮しちゃう人がたくさんいるのよね。それに、近所の人の目が気になってボランティア要請できない人が結構いるの」「ボランティアに来てほしくても素直に頼めない心情があるんだよ」

 ボランティアを頼んだ人に対して、「うちは全部自分でやったのに、どうして他人様に頼むのか!」と、隣人が白い目を向けたり、作業する家の場所を探して、ボランティアが道を尋ねても、「あんなとこ行かなくていい」と、道を教えてもらえないこともあったという。

 助けたい側、助けてほしい側……。それぞれの気持ちを上手く結びつけるのは難しい。人手があるのにこしたことはないが、ボランティア慣れしていない地域の、「遠慮」と「村八分」的意識が足かせになってしまう。

■ボランティア「する」気持ち

 私の実家は柏崎から車で1時間の上越市にある。身近な土地が地震でどうなってしまったのか、自分の目で見て、何かやってきたいと柏崎へ向かった。

 わずか2日間の滞在だったが、広島、長崎、京都、神戸、横浜、青森などなど……、「柏崎には縁もゆかりもない」、遠方から来たボランティアの人たちに大勢出会った。土地の事情も分からないのに、食事も寝る場所も自前確保が前提、はじめての土地で、いきなり「手助け」するのは、かなり大変なことだと思う。

 失業中なのに山口県から駆けつけた女性Sさんは、柏崎に2週間「滞在」している。

 「昼間ボランティアして、夜は自衛隊のお風呂に入って、ガーッと寝る! あと1週間はいようと思うよ。え、私? ひとり暮らしだから時間も人も気にしなくていいのよ~。 いくらでも手伝えるでしょ! あっはっは!」

 関西弁まるだしのガングロギャル女子高生Yさんは、父親に引っ張られて柏崎に入った。

 「おとん、ボランティアしょっちゅうしててな、能登半島のときも無理やり連れられてきてん。うちはこういうの、嫌いやねん。暑いし、汚いし、はよ帰りたいわ~」

 そう云いながら、食事配給やトイレ掃除に大汗をかいていた。指示待ちでなく、重い荷物に苦労している人を見つければ、すぐに駆け寄るYさん。

 「じいちゃん、もてる? うち持ったるわ」「やあ、お姉ちゃん若いのによく来てくんなったねえ。ありがとねえ」

 ボランティアは人なつこい! 心を開いて言葉をかけあう、その反応力がとにかく速い!

 「困ったときは力を貸す」──そういう気持ちが集まったときのパワーは、やっぱりすごいものだと感じた。「誰かの役に立ちたい」、それがボランティアを突き動かすのかもしれない。私自身、「ありがとう」と言われると嬉しかった。

 同時に、「親切の押し売り」になっていないかどうか、それがずっと心にひっかかっていたことも確かだ。

 相手は何をしてほしいのか、何が役に立つのか。目の前で困っている人に対して、どうやって声をかけるのか、どこまで踏み込んでいいのか。

 被災者から直接聞く話に、ときどき私はなんと返していいかわからず、何も言えないときもあった。本当に「人を助ける」って何だろう、と疑問にも思った。

 今回ビデオをもって現地入りしようかとも思ったが、体験を優先した。だからこそ、被災者やボランティアの生の声をしっかり聞くことが出来たと思う。ビデオをいきなり回しても聞けなかっただろう。

 Fさんの言葉が心に残る。

 「『お巡りさん』だろうが何だろうが、まず、『ひと』なんだから。そういう行動とれよ、ってね」


【注】 柏崎市社会福祉協議会のHP(http://www.syakyou.jp/index.html)によると、お盆ごろを境に徐々にボランティア人数も減っている様子。8月25日の活動報告では、「今日は、ボランティアさんの人数が少なめで、静かにマッチングが進んでいるという感じです」とある。

(記者:荒川 真帆)


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ネットでロープ結び方公開

2007年08月30日 | ◆色々な機関の防災情報
ネットでロープ結び方公開




ロープの結び方を紹介するホームページ

 蒲郡市港町の情報ネットワークセンター内の市教委視聴覚ライブラリーは、地場産業のロープの結び方をネット上で公開している。

 梱包用具として使われるロープは、結び方が難しいため敬遠され勝ちだったが、近年は災害時の救命用具として備えたり、キャンプ用品として活用する家庭が増えてきたという。

 「ロープワーク」として紹介する結び方は23種。ロープ同士を結ぶ「本結び」や「男結び」、網やハンモックなどになる「あやつなぎ」を、手順を画面送りで説明。輪をつくって船をつなぐ「もやい結び」、登山で命綱となる「二重8字結び」などの堅固な結び方も紹介している。

 繊維産地として知られる同市は、繊維ロープでも国内1の生産量を誇る産地。全国の約半分を生産しているが、外国製品が流入している近年は、苦しい状況に追い込まれている。

 業界では、ロープ自体や結び目の美しさに着目して工夫した照明器具や装飾用具など、新しい用途の開拓にも意欲的に取り組んでいる。

 市ホームページ(http://www.city.gamagori.aichi.jp/)からアクセスできる。


東日新聞

覚えて使おう! ロープワーク

中越沖地震  48 中日新聞 検証 新潟県中越沖地震の介護現場

2007年08月30日 | ◆Weblog
中越沖地震 48 中日新聞 検証 新潟県中越沖地震の介護現場

検証 新潟県中越沖地震の介護現場(上) 福祉避難所 フル稼働
2007年8月29日

 先月十六日に発生した新潟県中越沖地震から一カ月半。ライフラインの復旧や仮設住宅の整備も進み、日常生活を取り戻しつつある。だが、介護が必要な高齢者には、行き場のない人も少なくない。どんな生活を送っているのか現地を訪ねた。 (広川一人)

 「冷房もあって一般の避難所より過ごしやすい。でも月末に福祉避難所が閉鎖されたら、東京に戻るしかないと思う」

 新潟県柏崎市内の福祉避難所で、大橋和子さん(78)の避難生活は続く。家族はなく、数年前から市内の弟宅に身を寄せ、三年前の中越地震も経験した。「住民票が東京都中野区にある」ため、弟家族と仮設住宅に入るのは「遠慮した」。

 先月十六日の地震で、弟の家は半壊。近くの避難所に移り、四日過ごした。「食事の配給はパンかおにぎりで食べにくかった。扇風機はあったが、暑さがこたえた」

 大橋さんは被災前に在宅介護を受けていなかったが、保護が必要と判断され特別養護老人ホーム内に被災後に開設された福祉避難所に入った。

 福祉避難所は、災害救助法で規定された避難場所で、特別な配慮を必要とする高齢者ら災害弱者を収容する。阪神大震災を受け二〇〇〇年に導入された。食事などの費用は県と国が負担する。県の要請を受け、新潟県老人福祉施設協議会などが職員を派遣、ピーク時には同県内で九カ所開設され、九十三人を受け入れていた。

 避難所の責任者、遠藤真一さんは長岡市の社会福祉法人からの派遣。「要介護度の高い人は施設が受け入れている。ここには要介護度は高くないが、虚弱者や内向的な高齢者が多い」と説明する。「ライフラインの大部分が復旧し、仮設住宅も完成しつつあるが、今も避難している人は、行き先の決まっていない人たち」と話す。

 被災直後、介護関係者が直面したのは在宅介護を受ける高齢者の安否確認だ。柏崎市は民生委員や保健師に確認作業を依頼、全員の確認ができたのは被災から六日目だった。ただ介護施設も独自に行い、被災翌日には確認し終わった。刈羽村役場でも翌日には全員の安否確認ができた。

 次に避難場所の確保に追われた。要介護高齢者は、福祉避難所だけでなく各種介護施設が受け入れて急場をしのいだ。

 刈羽村でショートステイやデイサービスをする小規模多機能居宅介護事業所「ももの木」には、地震当日、デイサービスなどの利用者十八人がいた。すぐに近くの一般の避難所に退避した。

 だが「この施設の利用者の七割は認知症がある。環境が変わり、夜中に大声を出したり徘徊(はいかい)したりする人が出た」(歌代晃施設長)ため、翌日から全員で施設に戻った。今月中旬まで定員を超える人数を受け入れ、「避難所としての機能を果たした」という。

 利用者の大半は復旧に伴い、自宅や家族の元に戻ったが、遠藤鉄太郎さん(93)は妻のツネさん(87)と震災以来、この施設に宿泊している。

 訪問介護を受けていた自宅は被災調査で一部損壊と判定され、仮設住宅入居基準外だった。東京に住む長男(63)らと相談し月内は施設にとどまることにした。「施設と縁をつないでいれば、面倒を見てもらえるから」と頼りにする。

 先の大橋さんが身を寄せる福祉避難所は、月末で閉鎖されるが、大橋さんの身の振り方も決まっていない。

 避難所代わりの介護施設で生活をつないだ高齢者は少なくない。施設やその職員も被災していたが、それを支えたのは、県内外の介護関係者たちだ。


中日新聞検証 新潟県中越沖地震の介護現場(上) 福祉避難所 フル稼働暮らしCHUNICHI Web

検証新潟県中越沖地震の介護現場(中) 問われる官民連携
2007年9月1日

 新潟県中越沖地震直後から、介護施設や事業所は、介護の必要な人たちの「避難所」になった。被災者でもある職員に加え、県内外の介護関係者らの手厚い支援がそれを支えた。一方、「地域の介護状況をつかめず、連携できなかった」との声もある。 (広川一人)

 柏崎市の特別養護老人ホーム「しおかぜ荘」の松井裕園長は地震当日、休みで自宅にいた。被災した道路を通り、しおかぜ荘に着いたのは約二時間後の正午すぎ。当日の勤務者が、マニュアル通り利用者を食堂に集めていた。安否確認は済んでおり、利用者二人が軽傷を負っただけだった。

 建物の周囲に亀裂が入り、ガスが止まったが、電気は通じ、給水タンクも応急修理で使えるなど施設被害は小さかった。

 だが、臨時夜勤など通常以上の職員が必要になった。利用者や家族たちから緊急引き受けを頼まれたためだ。地震当日の通所サービス利用者が帰宅しなかったほか、自宅で被災した利用者が家族やケアマネジャーに連れられ、次々と訪れた。

 ピークは、地震から三日後の七月十九日。特養とショートステイで宿泊定員七十人のところに、百人を超える宿泊者を受け入れた。デイサービスを中止し、定員超過は八月初めまで続いた。

 「職員自身も被災し、避難所から通勤した人もいた」(松井園長)中、この態勢を支えたのは、県内外から集まった介護関係者やNPOのボランティアだ。

 新潟県は同日、県内外の自治体に対し、新潟県老人福祉施設協議会(県老祉協)などを窓口とした介護職員応援を要請した。八月末までに、柏崎市内の施設や福祉避難所での活動を中心に、延べ九百人あまりが応じた。また、県看護協会も福祉避難所への夜間(午後五時-翌午前十時)の看護師を派遣。県が派遣した保健師は九月七日まで、避難住民らの健康状態把握などを担う。

 県主導の支援以外に、松井園長は「横のつながりに助けられた」と振り返る。近隣市町村の施設は、食料などを提供してくれた。市外の福祉用具リース業者らは、地震当日夜にふとん三十組、未明までにベッド二十三台を運び込んだ。新潟市の介護専門学校教師も、バスでボランティアの学生を二十人連れてきた。

 松井園長は「説明しなくても必要な人や物資が集まった」と協力に感謝する一方、「市との情報共有ができず、市内全体の介護状況が見えなかった」と話す。施設への受け入れ希望者が、どこにどれくらいいて、どこの施設が受け入れられるのかなど効率的な対応ができず、うまく連携ができなかった。「市や市社会福祉協議会などが主導して、関係団体と地域の介護連携を図るべきだった」と指摘する。

 刈羽村の小規模多機能居宅介護事業所「ももの木」の歌代晃施設長も、地元自治体との連携の不備を痛感した。行政が目配りをする一般の避難所と違い、同施設は村から私的避難所と扱われた。要介護者を保護したにもかかわらず、物資支給など公的配慮はなかった。「発電機や厨房(ちゅうぼう)用ガスの手配とレンタル費用は自前」(歌代施設長)という。

 同村の武本純住民福祉課長は「情報が伝わらなかった点は反省したい」としながらも、「介護事業者は、あくまで民間企業」と、公的な支援に難色を示す。震災緊急対応期の介護施設への官民連携に課題が残った。

 地震から一カ月半。仮設住宅への入居が進み、ライフラインもほぼ復旧した。震災対応は、復興期へと軸足を移した。


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検証新潟県中越沖地震の介護現場(下) 本格稼働まだ時間が
2007年9月5日

 新潟県中越沖地震で建設予定の仮設住宅は千二百二十二戸。大半が完成し、入居も進んでいる。住宅内には、多くの高齢者も住む。施設には集会場が設けられ、介護サポートの拠点として動きだそうとしている。 (広川一人)

 「バリアフリーがおおむねできている。狭いけれど、荷物をたくさん持ち込まなければ快適に過ごせそうだ」

 先月二十一日、長岡市に住む荒瀬清孝さん(46)は、母(87)と兄(53)のため、柏崎市の仮設住宅を下見に訪れた。身体障害者で電動車いすを利用する母と腎臓透析を受けている兄は、同市内で二人暮らし。地震で自宅が半壊し、長岡市の市営住宅に住む荒瀬さんの元へ避難していた。

 仮設住宅は、入り口やトイレに手すりが設けられ、室内に段差はない。玄関に階段があるが、希望者には、後日スロープがつく。浴室の浴槽は床より高いが、「踏み台を置いてもらえる」(荒瀬さん)ことになった。

 県福祉高齢課は「仮設が市内三十九カ所に分散している。被災者は自宅近くに入居できており、ほとんどの住民は被災前と同じ在宅介護を受けられる」とみる。柏崎市福祉保健部も「介護が途切れることはない。不安は、震災による介護認定者の増加」と話す。県が派遣した保健師に、仮設住宅の全戸訪問を依頼し、健康調査を始めたところだ。

 仮設住宅には多くの高齢者も入居する。当然、介護の必要もでてくる。仮設住宅独自の取り組みも始まっている。柏崎市、刈羽村では、戸数の多い計十一カ所の仮設住宅に県が集会場を設置した。同市と同村は、そこを利用して介助入浴が可能な広い浴室を備えた介護拠点をつくった。

 モデルは中越地震の際の長岡市のケースだ。仮設住宅の集会場内に、地元の社会福祉法人がサポートセンターを設置。通所介護や訪問介護、介護予防のほか、見守りも兼ねた配食サービスなどを実施した。

 今回県は、被災者の生活や福祉を援助する生活支援相談員をスタッフとして常駐させる計画。二十人規模の人材を各集会場に派遣する方針だ。

 高齢者の期待は高まるが、求められるのはスピードだ。相談員派遣について、採用担当の県社会福祉協議会は「今月十八日には即戦力の人材を送りたい」と言うが、仮設での生活は始まっている。

 相談員とは別に独自にスタッフを置く計画の地元自治体側も思うように進んでいない。刈羽村では、入居開始直後からボランティアが常駐、かき氷を振る舞うなど仮設の住民交流には一役買っている。入居の住民たちが「十五人ほど入居する独り暮らし高齢者の見守りをしている」(総務課)が、介護など「福祉拠点としての活用は、保健師の訪問調査が終わる八日以降に検討する」(住民福祉課)のが実情だ。

 柏崎市では、ボランティアによる生活相談のために集会場を数時間開放しているだけだ。県の担当者は「仮設入居は原則二年。素早い対応が望ましい。住民に開放してほしい」と指摘する。

 今月一日に設置された市復興支援室は「これから自治会の設置を住民に持ちかける」と説明する。市の担当窓口もやっと決まったばかりで、運営について県との調整はこれからだ。集会場の活用は「早くても九月中旬以降」(近藤清信福祉保健部長)の見通しだ。


中日新聞検証新潟県中越沖地震の介護現場(下) 本格稼働まだ時間が暮らしCHUNICHI Web

長野県岡谷市湊地区1年前

2007年08月29日 | ◆行ってみました
長野県岡谷市湊地区1年前の空撮写真です。

独立行政法人土木研究所土砂管理研究グループ火山土石流チーム 平成18年7月 長野県岡谷市で発生した土石流災害発生箇所への派遣について
独立行政法人 土木研究所土砂管理研究グループ火山土石流チーム
平成18年7月豪雨の岡谷・湊地区の土石流跡を見る


北京食堂