*『原子力ムラの陰謀』著者:今西憲之
「プロローグ「3・11福島原発」の序曲 それは「もんじゅ」事故から始まった」、
「第8章 もんじゅ事故「隠蔽」の極秘記録と西村氏「怪死」の真相」
を複数回に分け紹介します。7回目の紹介
原子力ムラの暗部を刻銘に記録に遺し、その男は逝った-
1995年12月8日、「夢の原子炉」と言われた
高速増殖炉「もんじゅ」でナトリウム漏れ事故が発生。
事故をめぐる”隠蔽”が次々と発覚する中、
一人の「国策会社」幹部が突如、命を落とした。
死の謎を解く鍵は、遺された膨大な資料のみ。
そこには原子力ムラが行ってきた”裏工作”の歴史が、
あまりにも生々しく記録されていた。
(P3「まえがき」から)
「『もんじゅ事故』で謎の死を遂げた西村成生さんが残した内部資料があるらしい」
2012年冬、はじめにその話を聞いた時は、ここまで深くその資料と付き合うことになるとは想像もしていなかった。
「西村ファイル」と名づけた資料の山を読み進めるうち、取材班は何度も我が目を疑った。国の特殊法人であるはずの動力炉・核燃料開発事業団(動燃=当時) が地域住民や職員の思想・行動を徹底的に調べ上げ、「洗脳」「工作」といった言葉が頻繁に飛び交う。そして、あまりに不自然な西村氏の死-。「原子力ム ラ」の異常な体質が、次々と浮かび上がってきたのである。
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**『原子力ムラの陰謀』著書 「プロローグ「3・11福島原発」の序曲 それは「もんじゅ」事故から始まった」、「第8章 もんじゅ事故「隠蔽」の極秘記録と西村氏「怪死」の真相」の紹介(プロローグ⇒第8章の順)
前回の話:もんじゅ事故「隠蔽」の極秘記録と西村氏「怪死」の真相 ※6回目の紹介
すでに退職しているO氏は、いま何を思うのだろうか。取材班が直撃すると、
「いまでも腹が立っている。福島の原発事故に比べたら放射線も全然出ていないのに、新型炉っていうので騒がれちゃってね」
やはり当時と変わらず、被害者意識を隠そうともしない。さらに聴取記録を見せると、
「『自分が被害者』とは言ってない。それは傲慢でしょう。この資料、本当にあったの?いくらでも捏造できるじゃない」
と逆に疑いの目を向けてくる。ビデオを隠し、現場を隠蔽しようとしたのは、いったいどこの誰だったのか。
そのビデオ隠蔽や改ざんについて改めて問いただすと、
「事実をそのまま公開しなさいというのはあまりにもちょっと・・・かえって火をつけるというか。よかれと思ってやったことが、逆の結果になっちゃって。でもあれだけ騒がれたからね。あんたの不手際だ、と言われたら、そういうことになるよね。だからずっと謝ってきた。役所にも謝ったし。(もう一度同じことが起きたら)きっと一生懸命説明するよ。一緒に現場に行きましょうって言って。もうそれで勘弁して下さいよ。嫌なことを思い出させるなあ・・・」
と苦々しい表情で会話を打ち切った。
◎情報公開は「ソフトに、次第に明らかになる」
O所長のような考え方は、決して彼特有のものではない。O所長とともに「ビデオ隠し」を指示したS副所長の説明は、さらに不可解だ。翌96年1月3日に名古屋で行われた聴取に、このように語っている。
<(事故から約6時間後の1995年12月9日午前)2時に副所長が立入りの司令を出した>
<ビデオはとるつもりはなかったが、担当者が持込みとった>
<技術的には役に立たないビデオと思った>
自らの判断で事故現場への立ち入りを命令したこと、そして担当者によるビデオ撮影を認識していたことを認めている。
さらに、
<かくすつもりはなく、次第に明かになるというのが公開の考え方であった。最初から公開についてはフルオープンと言っていたが、オープンの仕方はソフトにやっていくつもりであった>
<ビデオが一人歩きすると困るという認識があり、ここでふんばってしまった>
あまりの馬鹿らしさに開いた口がふさがらない。情報を「次第」に、そして「ソフト」に公開することが「フルオープン」なのだという。自分たちに都合の悪い情報は隠し、情報操作することが「フルオープン」。これが動燃の”常識”だったのだろう。
※続き「もんじゅ事故「隠蔽」の極秘記録と西村氏「怪死」の真相 」は、11/4(火)22:00の投稿予定です。