奥州糠部 九戸四門~西門の歴史~

岩手県二戸郡の歴史と風景をご紹介します。浄法寺町を支配していた浄法寺氏とその先祖畠山重忠も扱っています。

盛岡の風景 桜山神社と三ツ石神社

2009年06月24日 | 岩手県
櫻山神社


五穀豊穣、領民安堵


擬宝珠みくじ


烏帽子岩

「烏帽子岩(兜岩)のいわれ」

盛岡城築城時、この地を掘り下げた
ときに、大きさ二丈ばかり突出した
大石が出てきました。
この場所が、城内の祖神さまの神域
にあったため。宝大石とされ、以後
吉凶のシンボルとして広く信仰され
災害や疫病のがった時など。この石
の前で、平安祈願の神事が行われ、
南部藩盛岡の「お守り石」として、
今日まで崇敬されています。

         桜山神社社務所

桜山神社の御祭神

初  代  南部光行公、二十六代 南部信直公
二十七代 南部利直公、三十六代 南部利敬公


三ツ石神社

三ツ石と鬼の手形
伝説によると昔この地方に羅刹という鬼が住んでいて付近に住民をなやまし旅人をおどしていました。
そこで人々は三ツ石の神にお祈りをして鬼を捕えてもらい境内にある巨大な三ツ石に縛りつけました。
鬼は二度と悪さをしないし、又二度とこの地方にはやってこないと誓ったので、約束のしるしとして三ツ石に手形を押させて逃がしてやりました。


この岩に手形を押したことが「岩手」の起源といわれ、又鬼が再びこないことを誓ったのでこの地方を「<rb>不来方コズカタ」と呼ぶようになったと伝えられています。
鬼の退散を喜んだ住人達は幾日も幾日も踊り、神様に感謝のまごごろを捧げました。この踊りが「さんさ踊り」の起源といわれています。

三ツ石神社由来
「岩手」の呼び名について大和物語によれば、「平城天皇の時代に、みちのくの国から鷹が献上され、帝はこれを岩手と名づけた」とある。
俗説では「三ツ石と鬼の手形」の物語が岩手の地名や、不来方(こずかた)の起源や地名であるといわれている。
伝説によると、むかしこの地方に羅刹という鬼が住んでいて、付近の住民をなやまし、旅人をおどしていた。
そこで人々は三ツ石の神にお祈りをして鬼を捕まえてもらい、境内にある三ツ石に縛りつけた。
鬼は二度と悪事はしないし、二度とこの地方にはやってこないことを誓ったので、約束のしるしとして三ツ石に手形を押させて逃がしてやった
ところ、この手形の跡には苔が生えないといわれている。しかし長い年月が経っているので、今は手形を確認する事は出来ません。
この、岩に手形を押したことが「岩手」の県名の起源だといわれています。
また鬼が再び来ないことを誓ったことから、この地方を「不来方」と呼ぶようになったと伝えられている。
鬼の退散を喜んだ住民達は、幾日も幾日も踊り神様に感謝の心を捧げた。この踊りが名物「さんさ踊り」の起源だといわれている。

「さんさ踊り」の名まえは、「さしあげ踊り」、つまりお供え物として踊るというのが短くなったとか、
三十三種類の踊りがあるので「さんさ」というのだとか、いろいろの説がある。
三つの石はもとは一個の大きな岩であったが、長い年月の間に三ッに割れて現在の三ツ石になったのである。
昔この地方「愛宕町、名須川町、三ッ割」を三ツ石野と呼んでいた。
神社には小夕彦尊・稲荷大明神を祀っており、増産、医療、縁結びの神として崇敬されている。

慶長四年十月二十四日(一五九九年)南部二十七代利直公が盛岡に城を移したとき、初代光行公のみたま
を三ツ石神社に迎え東顕寺に五十ニ石を寄進されたのである。その文書は今も東顕寺に保存されている。
この大石の碑は三ッ石の割れた一部分が土中に埋もれていたものであるが、社殿新築にあたりこの場に移し由来文を挿入したものである。

昭和47年八月二十七日 社殿落成日 三ッ石神社奉賛会


白龍(じゃじゃ麺元祖)

じゃじゃ麺(500円)


南部凧絵(義経と弁慶)

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