奥州糠部 九戸四門~西門の歴史~

岩手県二戸郡の歴史と風景をご紹介します。浄法寺町を支配していた浄法寺氏とその先祖畠山重忠も扱っています。

今東光と浄法寺

2006年10月19日 | 重慶と浄法寺氏
毒舌作家で知られる今東光は天台宗の僧侶であった。
今東光は天台宗の大僧正となり、東北大本山中尊寺貫主を務め、のち浄法寺町にある八葉山天台寺の住職を兼務した。
天台字の住職を兼務することになったのは、明治の廃仏毀釈と昭和の霊木伐採事件で荒廃したこの寺を復興しようと、
山本吉男町長が中尊寺管主の今東光に対談、要望したことに始まる。



就任時に言った言葉は以下の通り。
「これまでの天台衆の坊主はでたらめだった。資金面では総本山(比叡山)にもゼニはないが、私が悪戦苦闘すればゼニを持って駆けつけてくれる者もいる。
だからといって七堂伽藍が建つと思っては困る。
埋もれていた信仰心を鼓舞し、復興を盛り上げるのが私の役目だ。
寺の復興はこれまでに一二、三ヶ所やってきた。私は大工坊主だ」

今氏は天台寺を気にかけながらも、就任の翌年お亡くなりになった。
今氏が亡くなった後、奥方が「天台寺の復興に役立ててください。今大僧正の遺志です」と一千万が寄贈され、その資金を元に収蔵庫が建設された。
今氏の供養塔は、浄法寺氏の後裔で41代目の松岡忠雄氏と佐藤庄逸氏の資金で建立したものである。
(天台寺の方に伺ったところ、本堂に今氏の位牌が安置されているが供養塔はないという)

以前、京都で今氏が重忠の末裔であるとの話しを聞いたことがある。
今氏の今は金に通じ、奥州安倍氏と同族だ。
今氏が重忠の末裔ならば、浄法寺氏の手により、供養塔が建立されたのも「縁がある」というものだろうか。

重慶と小久保家

2006年10月17日 | 重慶と浄法寺氏
埼玉県小川町上古寺(かみふるでら)

浄法寺氏の祖と伝わる畠山重忠の三男重慶は所々を流浪し、いつの頃か、上古寺の高山重遠(小久保晏関入道)を頼り、養嗣子となったと伝わる。
後、慈光寺第二十九世別当となり、引退後小久保家を継いだという。
慈光寺二十七世別当、厳耀は重忠の大叔父と伝わるが、これは同じ大叔父である重遠のことだと思われる。
小久保家裏手の山、高福寺のある土峯山には重慶が重忠を祭ったという塚が残される。



明治の時代に小久保家が墓を建立した。
小久保家には重慶の位牌が残されている。位牌には三部都法大阿闍梨重慶法印、文永元年(1264)二月寂と書かれている。
小久保家の方は、松岡氏が訪れた事があると仰っていた。
松岡氏とは浄法寺氏の子孫で、本家に近い一流である。

今話題の巨人、小久保氏は末裔になるのだろうか。

重慶と浄法寺

2006年10月12日 | 重慶と浄法寺氏
九戸西門、西門(二戸郡)を治めた領主は浄法寺氏である。
浄法寺氏の祖は桓武平氏秩父流畠山氏、畠山重忠の三男、阿闍梨重慶が祖と伝わっている。
重慶については、浄法寺を始め、各地に伝説が残る。

まずは浄法寺氏の由来をいくつかご紹介しよう。

『奥南落穂集』
畠山庄司次郎重忠三男出家、大夫房阿闍梨重慶、奥州二戸郡浄法寺ニ住シ、
父重忠依讒討死、両兄共殺害ヲ憤リ兵ヲ起スノ企アルヨリ、鎌倉ノ命ニヨリ
長沼五郎宗政討手トシ来リ。重慶誅セラレ其の男幼弱、民間ニ潜シ、
後浄法寺太郎重基トイフ。夫々住居シテ近村ヲ従ヒ一家ヲナセリ。
南部守行公ニ応永ノ頃ヨリ従ヒ、軍功アリ。信直公御大、5千石ヲ領シ、
浄法寺修理重安、九戸攻ニ功アリ、帯刀ト改ム。

『南部藩士由緒記』(南部氏諸士由緒か)
畠山重忠と太郎重保が、奥州の戦功によって頼朝から二戸郡を受けたとする。
その後この地を継いだのは二男であるが、この嫡子が死んだため、
鎌倉浄法寺で出家した者が還俗してこの家を継いだ。

『南旧秘事記』
畠山庄司重忠の後裔也 右大将頼朝公伊達次郎泰衡御退治以後 重忠の弟重宗に二戸郡を賜
(此時畠山重忠の郎等本多次郎近常か二男供して下向故に浄法寺の内本田と伝村有)
浄法寺と唱ふることは 重忠の末子鎌倉浄法寺と云寺に出家して有けるか 重宗の嫡子死去して
嗣子なし 故還俗下向して家を継 仍て家名を浄法寺と号 (元松岡氏と称す) 子孫永く浄法寺に
居住し浄法寺修理代慶長年中岩崎合戦有 此時修理利直公の命に背き (或は岩崎城代被仰付
といへ共修理命に従はすとも云) 浄法寺五千石召放され 重宗より数代二戸郡を領する嫡家此時断絶す
(浄法寺氏は松岡から大館に移住し、西は田山から北は上斗米まで領有したという。その上斗米に本田という地名があり、それが本田の伝村があった場所であろう。上斗米本田に館跡があるというが詳細は不明)

一戸平糠 畠山家の由来
「畠山重忠、小坪の敗戦後、重忠の三男重慶坊なる人来りて、東平に寺院を開き、
地方民をして仏教に帰依せしめ、人民を教化せしが、後此地を去るに臨み一子を残してさる。
そのとき、我が子孫は永く此の地に移住すべし。万一寺院が衰いて信徒なくならば、破壊して家として、
本堂の丸柱を以て家の重要なる所に用すべし…」と言い伝えられ、寺財で作ったという柏の丸柱が残るという。
(この畠山氏の庵(寺院?)は平糠小学校の場所にあった)

頼朝による奥州征討の時に二戸郡と呼ばれるものがあったか、それは明らかではない。
「餃目氏旧記」(余目氏旧記か)によれば、頼朝は重忠を奥州守護に任命しようとしたと云う。
しかし梶原景時の讒言により思い留まったとある。
いつの頃かに、畠山氏分流は宇多源氏の佐々木氏と同じく、今の二戸郡に移住し、二戸氏を名乗ったようである。(天正の頃、九戸政実の家臣に二戸一休斎という人物がいる)
奥州征伐の功で重忠が賜ったと明らかになっているのは狭小といわれる葛岡郡(長岡郡か)だけであり、浄法寺松岡の地頭になったのは同じく奥州征討の功によるものと考えてよいのではないだろうか。

重慶母は「二戸郡史」によれば北条時政の娘、新編武蔵風土記稿 下関の宮之原系図によれば足立遠元の娘という。
足立系図によれば、北条時政の子、北条時房の母は足立遠元の娘である。
重忠の子、重秀の母も足立遠元の娘であり、時政と重忠は義兄弟にもなるようだ。

鎌倉の浄法寺については、江戸時代の編纂物「南方紀伝」に1430年(永享二年)の正月に炎上したと書かれている。
現存していなく、鎌倉のどこにあったかもわからない。また開基も不明である。

相馬氏ゆかりの神社

2006年10月06日 | 二戸市
浄法寺には妙見(北極星)を祭る三社妙見大明神という神社がある。
三社とは福島県相馬郡にある太田神社、中村神社、小高神社を指す。
これらは相馬三妙見と呼ばれ、慶長16年、相馬利胤による建立という。
相馬氏は平将門の後裔と云われ、この相馬氏は千葉の豪族である千葉介常胤の次男、師常が将門の子孫である篠田師国の養子になり、将門に所縁の深い相馬を苗字とし名乗ったようである。

蓬田文書によれば相馬利信の三男、利久は正嘉二年(西暦1258年 戊午) に陸奥国南部常慎寺駒ヶ峯移住し、その子孫は駒ヶ峯を領有したという。
蓬田村の解説は二戸の(福岡)としているが、浄法寺駒ヶ嶺のことだろう。
二戸には千葉氏系の相馬氏で後の上斗米氏、下斗米がいるが、この相馬氏は平将門の直系の相馬氏である。

別系とはいえ、相馬氏の一族である下斗米氏がゆかりの地であるこの地に、三社の妙見を分霊し、三社妙見大明神を建立したのであろう。



葛西氏

2006年10月04日 | 平姓畠山氏
秩父氏の出で畠山氏と近しい一族に葛西氏がいる。

葛西氏は豊嶋清元の三男、清重が葛西氏を名乗ったことに始まるという。
しかし、一説によれば葛西庄の下司職である葛西重隆の養子となり、葛西氏を名乗ったという。
また葛西重隆は千葉常胤の弟とされるという。この葛西重隆は誰なのか、それを明らかする。

葛西清重の母は畠山重弘の娘、妻は重弘の嫡男畠山重能の娘であり、限りなく畠山氏に近い。
千葉常胤にも重弘の娘が嫁いでいる。千葉常胤に嫁いだ娘は慈勝寺を開基したと伝わる円寿院であり、重忠の伯母という。
千葉系図によれば千葉胤政の母である。

重隆の重の字は秩父氏の通字であり、千葉氏の通字である胤の字がないことから
秩父氏の出と考えてよい。豊嶋氏の通字には重の字は使われていない。
ならば、この人物は清重の母である重弘娘の兄弟で、常胤に嫁いだ円寿院と重能の弟であろう。

即ち、葛西清重は畠山重能の弟である重隆の養子となり、葛西氏を名乗ったのである。