浄法寺氏には系図上から消えた修理の弟がいた。
時の当主浄法寺修理重安は、南部宗家の家督を巡りって田子信直と自身の弟実親を擁立した九戸政実が争った際、最初日和見をしていた。
信直と政実が争った経緯はおよそ以下の通りである。
南部家24代の当主南部晴政が死去(暗殺と病死説あり)し、後を継いだ晴継が父の葬儀終わらせた帰りに暴漢に襲われ急死した。
南部家の一族や重臣は次の当主を決める為集まり評定が開かれた。
評定で重臣らは晴政長女の婿であり、晴継が誕生するまで養嗣子であった田子信直と、次女の婿である九戸実親を推す者に分かれていた。
田子信直の父は石川高信であり、晴政の父安信の弟であった。
それ故、先々代(実際は先代みたいなものだが)と血縁が近く、それが信直を推す者の理由の一つであった。
評定は九戸氏を推す者が多く、浄法寺氏も九戸氏を押していたと思われる。
その理由の一つは当主重安の先代以前に九戸氏の娘が浄法寺氏に嫁入りしており、九戸氏と縁戚関係にあることだ。
当時九戸氏は宗家三戸氏を凌ぐほどの戦力を持っており、隣接し、「鹿角の大将」と呼ばれた浄法寺氏と並んで鹿角口の合戦で主力であった。
評定で優勢だった九戸氏だったが、信直の参謀といえる北信愛の働きにより信直が南部氏の当主を継いだ。
これを不満に思った九戸氏はその後挙兵することになる。
浄法寺氏も家中は一枚岩ではなかったらしく、修理が日和見をやめて信直側に付き、東氏や上斗米氏と
ともに一戸城を守っていた際、弟やその家臣の浄法寺主膳に欺かれ城を追い出されてしまった。
その後、一戸城は上方(豊臣秀吉の軍勢)の支援を受けた信直側に奪還され、修理の弟や主膳の行方は知れない。
家臣の主膳は「浄法寺」の苗字を名乗っている為、本家に近い一族であろうと思われる。
そして、浄法寺氏の系図上から弟の名を探そうとしても、修理重安に男子の兄弟はいない。少なくとも系図上に記載はない。
のち修理を継ぐことになる重安嫡男の重好には弟がいるが、修理を名乗るのはこれより後である事、系図上に存在する弟に主家に叛いたであろうと思われる該当者はいない。
浄法寺氏の系図から消された修理の弟はさぞ無念であったであろう。
時の当主浄法寺修理重安は、南部宗家の家督を巡りって田子信直と自身の弟実親を擁立した九戸政実が争った際、最初日和見をしていた。
信直と政実が争った経緯はおよそ以下の通りである。
南部家24代の当主南部晴政が死去(暗殺と病死説あり)し、後を継いだ晴継が父の葬儀終わらせた帰りに暴漢に襲われ急死した。
南部家の一族や重臣は次の当主を決める為集まり評定が開かれた。
評定で重臣らは晴政長女の婿であり、晴継が誕生するまで養嗣子であった田子信直と、次女の婿である九戸実親を推す者に分かれていた。
田子信直の父は石川高信であり、晴政の父安信の弟であった。
それ故、先々代(実際は先代みたいなものだが)と血縁が近く、それが信直を推す者の理由の一つであった。
評定は九戸氏を推す者が多く、浄法寺氏も九戸氏を押していたと思われる。
その理由の一つは当主重安の先代以前に九戸氏の娘が浄法寺氏に嫁入りしており、九戸氏と縁戚関係にあることだ。
当時九戸氏は宗家三戸氏を凌ぐほどの戦力を持っており、隣接し、「鹿角の大将」と呼ばれた浄法寺氏と並んで鹿角口の合戦で主力であった。
評定で優勢だった九戸氏だったが、信直の参謀といえる北信愛の働きにより信直が南部氏の当主を継いだ。
これを不満に思った九戸氏はその後挙兵することになる。
浄法寺氏も家中は一枚岩ではなかったらしく、修理が日和見をやめて信直側に付き、東氏や上斗米氏と
ともに一戸城を守っていた際、弟やその家臣の浄法寺主膳に欺かれ城を追い出されてしまった。
その後、一戸城は上方(豊臣秀吉の軍勢)の支援を受けた信直側に奪還され、修理の弟や主膳の行方は知れない。
家臣の主膳は「浄法寺」の苗字を名乗っている為、本家に近い一族であろうと思われる。
そして、浄法寺氏の系図上から弟の名を探そうとしても、修理重安に男子の兄弟はいない。少なくとも系図上に記載はない。
のち修理を継ぐことになる重安嫡男の重好には弟がいるが、修理を名乗るのはこれより後である事、系図上に存在する弟に主家に叛いたであろうと思われる該当者はいない。
浄法寺氏の系図から消された修理の弟はさぞ無念であったであろう。