2023/6/3~6/17 2023年初夏の北海道ーその1
昨年と違い、全容がスッキリと見えた利尻岳 =稚咲内PAから
【GPS軌跡】 総走行距離1,884Km(自宅~自宅)
今年の装備の目玉は消費電力50wの車載用22L冷蔵庫と600Wから1000Wへとパワーアップしたポータブル電源。生鮮食料品を買い込めるし、24時間運転しても電気の残量を心配する必要はない。
私は鉄ちゃんではないが、今回は石炭鉱山の廃鉱➜鉄道の廃線➜衰退化した街や駅の現状を見ることも目的の一つとした(偉いなぁ僕(笑))
2022年5月にお世話になった雄冬の公衆トイレ脇で、車中泊する。時折通過する車と眼前の潮騒だけが聞こえる静かな夜だ。
天気良し! 速度良し! 後方良し!(笑)
車の少ないご当地でも60Km以下の走行だと車の列ができ、脇に寄せて道を譲る運転を常に心がける。癪なのは追い越し禁止域が解除になっても、何故かピタリと後方に付き決して追い抜かない輩。俺、何か悪いことしてる?(笑)
増毛まで来て寄らない選択はないので、観光客はまばらな増毛駅に立ち寄る。
駅までの道すがら、名峰暑寒別岳を望む。頂上を踏んだ山だからか、いつ見ても懐かしさを感じさせてくれる山だ。
今旅最初の炭鉱巡りは、羽幌市築別から東へ約16Km先の築別坑(築別炭砿)。曙から築別炭砿に向かう道路の真ん中に黒々とした立派な羆の糞を、2カ所で発見! 5月鞠朱内湖の羆事件もあり、辰巳橋から先に一人で進むのが怖くなる。貯炭所で会った、関西から同じく探訪に来ていた夫婦に同行をお願いする始末である・・・。
1985(昭和60)年5月発行道路地図より
曙から三毛別間の名羽線(未成線 1981(昭和56)年廃線)は記載されているが、1970(昭和45)年12月廃線になった羽幌炭砿鉄道(羽幌線築別~曙~築別炭砿)の記載はない。
1968(昭和43)年の羽幌炭砿鉄道ダイヤ。
石炭輸送以外に旅客輸送も行い、地元の足として活躍しました。1965年の1日の乗車客数は、曙242人、築別炭砿879人。
★羽幌炭砿とは★
北海道北西部留萌炭田の中心的炭鉱。1940(昭和15)年開砿。羽幌坑(本坑)、上羽幌坑、築別坑の3地区から成っていた。良質炭を産出することで知られ、大変人気があった。1970年(昭和45年)12月閉山。
最盛の1961(昭和36)年の築別炭砿全景
相沢川を挟んで両側には炭砿住宅がびっしりと並んでいるのが分かる。
人口13,123人 従業員2,603人 住宅2,391戸
2015年10月頃の築別炭砿跡全景 =Google Earth
当時を偲ばせる遺構は点在しているが、本縮尺では探しづらい。
上下2枚の写真内赤矢印は、道道741号上遠別霧立線・築別炭砿鉄道病院近くの交差点。同一場所を指す。
赤矢印から辰巳橋方面を望む。この先には立ち入り禁止で橋を渡れない。当時は炭砿関係者やその家族等が行き来したが、その面影はない。
廃墟と化した築別炭砿鉄道病院(左の建物)近くから(赤矢印)東方面を望む。道路を7-800mも進むとゲートがあり、進むことは出来ない。
朽ちるがままの築別炭砿鉄道病院。
下は当時の姿だ。画像が荒れています。雰囲気だけでも・・・。
1939年秋頃から鉄道建設は開始するが戦時体制下での資材確保は困難で、橋梁などは改修工事で不要となった各地の中古品を購入して再使用した。写真の橋脚頭部の段差は集めた資材の高さが異なるため調整したもの。
上羽幌抗や羽幌抗と築別抗との分岐となる、曙集落にある元曙小学校の石碑と体育館。
石碑には『曙小学校跡地 風雪八十四年』とある。体育館は農家の倉庫に使っている。
✽曙小学校 1906(明治39)年開校、1990(平成2)年3月閉校。炭砿の活動に左右され一時は130人もの生徒も、閉山後の1972(昭和47)年には34人まで減少。
✽曙部落 1933(昭和8)年51戸 350人足らずだったが、1960(昭和35)年187戸880人以上の集落となる。現在は農家が点在するだけだ。
★2023/6/3~6/17 2023年初夏の北海道ーその2
へ続く予定!
昨年と違い、全容がスッキリと見えた利尻岳 =稚咲内PAから
【GPS軌跡】 総走行距離1,884Km(自宅~自宅)
今年の装備の目玉は消費電力50wの車載用22L冷蔵庫と600Wから1000Wへとパワーアップしたポータブル電源。生鮮食料品を買い込めるし、24時間運転しても電気の残量を心配する必要はない。
私は鉄ちゃんではないが、今回は石炭鉱山の廃鉱➜鉄道の廃線➜衰退化した街や駅の現状を見ることも目的の一つとした(偉いなぁ僕(笑))
2022年5月にお世話になった雄冬の公衆トイレ脇で、車中泊する。時折通過する車と眼前の潮騒だけが聞こえる静かな夜だ。
天気良し! 速度良し! 後方良し!(笑)
車の少ないご当地でも60Km以下の走行だと車の列ができ、脇に寄せて道を譲る運転を常に心がける。癪なのは追い越し禁止域が解除になっても、何故かピタリと後方に付き決して追い抜かない輩。俺、何か悪いことしてる?(笑)
増毛まで来て寄らない選択はないので、観光客はまばらな増毛駅に立ち寄る。
駅までの道すがら、名峰暑寒別岳を望む。頂上を踏んだ山だからか、いつ見ても懐かしさを感じさせてくれる山だ。
今旅最初の炭鉱巡りは、羽幌市築別から東へ約16Km先の築別坑(築別炭砿)。曙から築別炭砿に向かう道路の真ん中に黒々とした立派な羆の糞を、2カ所で発見! 5月鞠朱内湖の羆事件もあり、辰巳橋から先に一人で進むのが怖くなる。貯炭所で会った、関西から同じく探訪に来ていた夫婦に同行をお願いする始末である・・・。
1985(昭和60)年5月発行道路地図より
曙から三毛別間の名羽線(未成線 1981(昭和56)年廃線)は記載されているが、1970(昭和45)年12月廃線になった羽幌炭砿鉄道(羽幌線築別~曙~築別炭砿)の記載はない。
1968(昭和43)年の羽幌炭砿鉄道ダイヤ。
石炭輸送以外に旅客輸送も行い、地元の足として活躍しました。1965年の1日の乗車客数は、曙242人、築別炭砿879人。
★羽幌炭砿とは★
北海道北西部留萌炭田の中心的炭鉱。1940(昭和15)年開砿。羽幌坑(本坑)、上羽幌坑、築別坑の3地区から成っていた。良質炭を産出することで知られ、大変人気があった。1970年(昭和45年)12月閉山。
最盛の1961(昭和36)年の築別炭砿全景
相沢川を挟んで両側には炭砿住宅がびっしりと並んでいるのが分かる。
人口13,123人 従業員2,603人 住宅2,391戸
2015年10月頃の築別炭砿跡全景 =Google Earth
当時を偲ばせる遺構は点在しているが、本縮尺では探しづらい。
上下2枚の写真内赤矢印は、道道741号上遠別霧立線・築別炭砿鉄道病院近くの交差点。同一場所を指す。
赤矢印から辰巳橋方面を望む。この先には立ち入り禁止で橋を渡れない。当時は炭砿関係者やその家族等が行き来したが、その面影はない。
廃墟と化した築別炭砿鉄道病院(左の建物)近くから(赤矢印)東方面を望む。道路を7-800mも進むとゲートがあり、進むことは出来ない。
朽ちるがままの築別炭砿鉄道病院。
下は当時の姿だ。画像が荒れています。雰囲気だけでも・・・。
1939年秋頃から鉄道建設は開始するが戦時体制下での資材確保は困難で、橋梁などは改修工事で不要となった各地の中古品を購入して再使用した。写真の橋脚頭部の段差は集めた資材の高さが異なるため調整したもの。
上羽幌抗や羽幌抗と築別抗との分岐となる、曙集落にある元曙小学校の石碑と体育館。
石碑には『曙小学校跡地 風雪八十四年』とある。体育館は農家の倉庫に使っている。
✽曙小学校 1906(明治39)年開校、1990(平成2)年3月閉校。炭砿の活動に左右され一時は130人もの生徒も、閉山後の1972(昭和47)年には34人まで減少。
✽曙部落 1933(昭和8)年51戸 350人足らずだったが、1960(昭和35)年187戸880人以上の集落となる。現在は農家が点在するだけだ。
★2023/6/3~6/17 2023年初夏の北海道ーその2
へ続く予定!