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古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「持衰」について(その後)

2017年06月03日 | 古代史

以前『倭人伝』に出てくる「持衰」について考察したことがあります。それを再掲します。

http://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/fc072a5cb2322893fb87567a37279274

ところで「倭人伝」には「持衰」という特徴ある風習について書かれています。
 
「魏志東夷伝 倭人伝」「…其行來渡海詣中國、恆使一人、不梳頭、不去〓蝨、衣服垢汚、不食肉、不近婦人、如喪人、名之爲持衰。若行者吉善、共顧其『生口』財物。若有疾病、遭暴害、便欲殺之。謂其持衰不謹。」

 ここには「生口」が関連して書かれています。ここに書かれた「生口」については以前から解釈が複数あり、この船の中に「皇帝」に献上すべき「生口」がいるという前提で、それを指すというような解釈がありましたが、それは大きな読み違えと思われます。
 「生口」は確かに「持参」することもありましたが、それも必ずというわけでもなかったわけです。しかしこの文章からは「いつもそうしている」というニュアンスを感じます。つまりここでいう「生口」は、「皇帝」に献上すべく乗船していたというようなものではなく「持衰」が母国に残して来たものであり、「其」という指示代名詞からもわかるように彼の所有に関わるものであったと考えられます。
 ここでは「恆使一人…爲持衰」とされていますがその「一人」とは「船」に乗り組んでいる人員のうちの「一人」と解釈すべきです。この「持衰」についての理解の中には、彼は航海の間陸上(出発地)にいるもので、乗船していなかったとするものもあるようですが、それでは「疾病や「暴害」などに遭遇したかは帰国しなければ判らないわけですから、「持衰」に対する対応としては後手に回るでしょう。当然彼は同乗していると考えざるを得ないものです。つまり、「持衰」そのものは「生口」などではなく「使者」のうちの一人であると判断できます。
 また「航海」がうまくいく、ということは「母国」に帰るまで確定しない事項ですから、「共顧其生口財物」というのは「帰国後」のことであるとわかります。
 またそこに「其」という指示代名詞があるところから考えると、「生口」と「財物」の双方とも本来「持衰」となっていた「使者」の所有するものであるということが推定できるでしょう。つまり「持衰」となる人物は乗船前から決まっていたと思われるわけであり、その意味で彼の所有となっていた「生口」と「財物」は出発前に当局に「預託」されていたものであったと思われるわけです。
 また上の記事の中では「如喪人」と表現されていますが、このような「航海」の「無事」を祈願するために選ばれた人物は「誰でもよい」ということではなかったと思われ、特に選ばれた存在であったと思われます。つまり普段から「祈祷」のようなことを生業としている人物が推定されるわけであり、またいつも彼が「持衰」をすると「安全」に航海できるというようなある意味「幸運」な人物ならば彼に乗ってほしいという要求も多かったと思われ、ある程度「固定」していたという可能性もあるでしょう。(これは後の「忌部氏」や「中臣氏」のような、神事に関わるようなことをその職掌としていた氏族につながることも考えられるところでしょう)
 
 そして、「共顧」するとは、無事に航海が全うできたならそれらについては「安堵する」つまり「返却」される(ただしその場合は褒賞付となり、増加していると思われますが)ということではないでしょうか。
 ここで用語として使用されている「顧」には「考慮する」あるいは「気を遣う」という意味があり、彼の「生口」「財物」については不当に扱われることのないよう「考慮」されるという意味で使用されているのではないかと思われます。
 また「荒天」に遭ったりしたなら使者は殺されるというわけですが、船には航海中の船内の治安を維持するために「解部」が乗船していたと思われ(「卑弥呼」の時代に既に「部」という制度があったものと見られます)、彼により判決が下され、また刑が執行されたものと思われます。また当然「母国」に残してきた「生口」と「財物」も(もし帰国できたならその後)没収されるということになると思われます。
 このように本人が「死刑」になった後に「生口」「財物」が「没収」されるというのは、後の「物部守屋」の死後にも同様のことが行われているとともに、「蘇我倉山田麻呂」の処刑後にも同じような措置が行われています。これらは「律令」の中にも同様の規定があるものであり、「倭」では古代より普遍的に行われた措置であったと考えられるでしょう。後にそれが律令に取り込まれたものと考えられるわけです。

 またこの「持衰」となった使者が「生口」を保有していたと見られるわけですが、当然「生口」を保有していたのは彼だけではなかったはずですから、他の使者やその他多くの「倭」の人々は「」として「生口」を保有していたものと思われ、その起源として最も考えられるのは「戦争捕虜」であり、この当時「戦争」が多くあり、多数の人々が「捕虜」となり「生口」という扱いを受けていたことを示すものと思われます。それが「」という存在ではなかったかと考えられます。
 すでに見たように「」には「犯罪者」やそれが「重罪」の場合「没」とされたその家族や宗族などがあったという場合と、「戦争」によって獲得された「捕虜」という二種あったと思われます。これらはいずれもその所有が「国家」に所属すると思われ、いわゆる「官」と思われます。ただしそれら「」の中で「犯罪」を犯したという場合その「被害者」にその「」が「国家」から「下賜される」という場合があったと思われ、そのような場合「」として存在したとも思われます。さらに「戦争」で獲得したという場合も、その戦闘で主体的に活躍した武将などにその「捕虜」が「下賜された」という可能性もあり、これも同様に「」となったと考えられます。
 この「持衰」記事において見える「生口」は「」であったと思われ、「持衰」が所有するところの「」を意味すると考えられるわけです。

 このように考察したわけですが、特に「持衰」が当の船に乗っていたかどうかと言う点において「乗船」していたと見たわけですが、これに関しては古田氏が示した『海賦』の一節が傍証となることを確認しましたので追加します。

「…若其負穢臨深,虛誓愆祈。則有海童邀路,馬銜當蹊。天吳乍見而髣彿,蝄像暫曉而閃屍。群妖遘迕,眇冶夷。…」(木華作『海賦』より)

 この冒頭に出てくる「若其負穢臨深」という部分が古田氏により「持衰」のこととされているわけであり、それは卓見と思われますが、ここでは「穢」を「負う」ものすなわち「持衰」が「深き」に「臨む」とされていますが、この「深き」とは「海」を表象するものと思われますから、「持衰」が船に乗っていることを示す文章であるのは間違いないと思われます。

 この『海賦』を著した「木華」という人物は『三國志』の著者である「陳寿」と同時代人であり、情報の共有があったと見るべきこととなります。つまり「魏」の「倭国」への使者がもたらした情報は一人「陳寿」だけが保有したものではなく、それはその後の「西晋」の朝庭において重要な情報(特に狗奴国関係の軍事情報という側面も含み)として共有されていたものと思われるわけであり、そのことがこの『海賦』に反映されていると考えられるわけです。

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