古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「救世観音像」と「仏罰」

2017年04月05日 | 古代史

法隆寺に伝わる「救世観音像」は長い間「秘仏」とされ、法隆寺に伝わる「伝承」(と言うより「戒律」のようなもの)によれば、表に出ると「仏罰」により「大地震」により寺自体が倒壊するなどの災厄が起こるとされていました。明治になり、当時の文部省の委託を受けて調査に当たった御雇い外国人の「フェノロサ」により止める僧侶達を振り切って白日の元に晒すまで(多分)一三〇〇年以上時間が経過していたものでしょう。(当然彼等の間に伝わる言い伝えもそのぐらいの歴史があると見るべきです)

ところでこの「救世観音像」を公開することがなぜ「仏罰」につながるのでしょう。またその「仏罰」の代表がなぜ「大地震」なのでしょう。
この「観音像」が当初は公開されていたと考えるのは自然です。しかし「何らか」の事情により「秘仏」とされるに至ったわけですが、それは「伝承」の内容から見て「大地震」の発生と関係していると考えるべきではないでしょうか。
これについては、史料もなく「推測を逞しくする」しかないわけですが(妄想ともいえます)、当初表に出されていた段階ですでに批判的な扱いをされていたということが考えられます。それはこの「救世観音像」が「真影」とされていることに深い関係があると思われます。「真影」つまり当時の「倭国王」の姿を写したものというわけですが(伝承では「聖徳太子」とされる)、これは「観音像」ですから本来は「観音」としての伝統的彫像が選ばれて普通であり、当然のはずです。しかしこの当時の「倭国王」は自分(或いはその「父親」という可能性もあるか)の姿を「観音像」として造らせ、その結果人々が「観音」に手を合わせると自然と自分自身に対して「拝礼」をすることとなるという、いわば「個人崇拝」を強制していたことになります。このようなことが批判を呼ぶのは(当時の仏教界としては)当然といえ、「仏教」の教義に則ればこのような試みは「畏れを知らぬ」悪行であり、まさに「仏罰」に値すると考えられたものではないでしょうか。
それでもこれが「法隆寺」であり、推定したように「勅願寺」であるとすると(それが「真影」であることからも)「権力」に直結した「像」であり、その「権力」によりいわば「ごり押し」されて公開していたということが考えられます。そして、その時点で発生した「大地震」が、「仏罰」であると多くの人々に判断されることとなったというストーリーが隠されているのではないと推察します。その意味で「六七八年」の「筑紫地震」に対する評価というものが「仏罰」として受け止められたと言うことが考えられるでしょう。(この時に寺院はかなりのダメージを受けたという可能性が考えられるでしょう)

このように「観音」というような「尊貴」の対象と自己を同一視するというのは「異例」と言うべきですが、これには前例があるというべきであり、それは「法隆寺」の釈迦三尊像の存在です。これは「釈迦」と言いながら「尺寸王身」とされ、実際には「倭国王」(阿毎多利思北孤か)の姿を現しているとも考えられます。両脇侍も「鬼前大后」と「干食王后」を表すという説もありますから、その点でもまさに「個人崇拝」(というより「王家崇拝」というべき)となっており、これもまた「邪道」といえるでしょう。このようなことが可能なのも「強い権力」の存在とつながるものであり、この当時「王権強化」の一環として「仏教」が利用されたことを強く示唆するものです。
このようなことに対する「反発」が「筑紫地震」の前後で発生し、「王権」の弱体化或いは別の王権による交代というイベントを経て「救世観音像」が「秘仏」とされるに至ったものではないでしょうか。
私見では「筑紫」から「飛鳥」へ移築されたと見るわけですが、それも「地震」の脅威から逃れるためであったと考えられ、その時点で「秘仏」扱いとなったという可能性もあるでしょう。

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