古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「行程記事」と「宣諭」との関係

2017年03月04日 | 古代史

久しぶりに投稿します。

またもや入院していました。(命に別状はありませんが)

その間あることをつらつら考えていました。それは『隋書』に「行程記事」がある理由です。一般には「行程記事」があるのは「隋」が「北朝系」であり、「倭国」との国交が「北朝」としては初めてであったためと思われていますが、そのことよりも「宣諭」記事の存在との関係ではなかったでしょうか。
『隋書俀国伝』には「大業三年」の「明年」のこととして「裴世清」等を「宣諭使団」として倭国に派遣した記事がありますが、その中に「行路記事」があるのは、『魏志倭人伝』に「行程記事」があるのと同様の理由であったらしいことが推定出来ます。

一見すると『隋書』にはこの「裴世清」派遣記事に先行する「開皇二十年記事」があるわけであり、それが「隋」として初めての「倭国」への使者派遣を表すものとすると、そこにこそ「行路記事」が書かれて不審はないわけですが、この記事は「帝紀」の中に存在しており、「帝紀」は「列伝」と違い国や人ごとに詳細が書かれる性質の場所ではありません。そうであればこの記事に対応する記事が「列伝」としての『俀国伝』になければならないはずですが、それは存在していません。そのため従来はそれも含めて「大業三年記事」に集約されていたとみていたわけですが、真実はこの「裴世清」派遣が「宣諭使」としてのものであったからではないでしょうか。

そもそも「宣諭」はその使用例から見ても戦闘地域やそれに準ずるような緊張状態の地域に派遣された使者に課せられた職務であるわけですから、それは「軍派遣」という政治行動を内在していることを意味していると思われ、そうであれば「行程」は現地の詳細情報として必須であったこととなります。
これに関しては三世紀「魏」の時代に「倭」の「邪馬壹国」から「狗奴国」との戦闘行為について訴えを聞いた「魏」王権が「帯方郡吏」である「張政」を派遣し「告喩」させたとされることと類似したものと見られることとなります。

「正始元年…其八年、太守王〓到官。倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和、遣倭載斯、烏越等詣郡説相攻撃状。遣塞曹掾史張政等因齎詔書、黄幢、拜假難升米爲檄『告喩』之。」(三国志魏書烏丸鮮卑東夷傳巻三十より「倭人伝」)

この「告喩」という行為については、「狗奴国」の行動(戦闘行為)が「邪馬壹国」というより「魏」に対するものと見なすという内容を含んでいたとものと見られ(それを明示するために「魏軍」の旗を示す「黄幢」を「難升米」に「拜假」しています。)それに対して「狗奴国」が「魏」の大義名分を認め戦闘行為の停止に応ずることもありうるわけですが(実際そうなったものと思われますが)、逆にそれに従わず、戦闘行為が継続されるという可能性も考えられるわけであり、その場合「魏」としては「軍派遣」という究極的行動もその選択肢の中に入れざるを得なかったこととなります。なぜなら「魏」は「倭王」に対して「制詔」しており、それは「魏」が「倭王」たる「卑弥呼」に対して「魏」の支配(制度)の元のものと認知した事を示しますが(それは「卑弥呼」に対して「親魏倭王」という称号を付与したことにも現れています)、そうであれば「魏」は「倭」と「倭王」に対して「皇帝」と「臣民」という関係の中で「防衛」の責務を負っていたこととなり、結果的に「倭」に軍を派遣し、「狗奴国」に対して示威行為あるいは直接戦闘により「邪馬壹国」を防衛するという事態まで想定しなければならなかったこととなることを意味します。もし仮に「狗奴国」がこの「檄」に従わずしかも「魏」がそれを放置したとなると「魏」の「権威」は東アジアにおいて「地に墜ちる」ということとなります。多くの配下の諸国が「魏」に対して忠節を誓わないという事態も考えられることとなりかねません。そしてそのような事態が内在されていたとすると彼ら「告諭使団」は軍の派遣・進行に必要な情報を記録し報告するという責務を負っていたことになるでしょう。それが端的に現れているのが「行程記事」ではなかったでしょうか。そう考えれば「隋」が「裴世清」を「宣諭使」として派遣した際にも全く同様の事情が隠されていたはずであり、そのためこの「宣諭使」記事の中に「行程」記事が書かれたのではないかと思われるわけです。

また従来「倭国」は「隋」から「柵封」されず「皇帝-臣下」という関係が築かれなかったとみられているわけですが、それは「倭国」が「対等」を意識していわば「突っ張った」からであるように認識されています。「天子」自称についてもそのような意識の一環と考えられていたわけですが、それは実際とは異なるとみられるわけです。「天子」自称は外交下手のためであったと思われますが、それを除けばあくまでも「倭国」が「絶域」であるという事情からのものであり、「柵封」されなかったということについては双方合意であったとみるべきですが、「隋」にとって見るとそれが「絶域」であろうと「隋」皇帝の権威を傷つけるものにたいしては軍事的行動をいとわないという意思の表れとして「宣諭使」が派遣されていたはずであり、「行程記事」の存在も同じ理由によるものであったと見るべきこととなります。
「行程記事」を書くに当たっては、「俀国」の位置とそこに至るルートや途中に存在する諸国の名称などに違いがなければ『魏志』を引用して終わりとなるはずですが、実際には『魏志』に書かれた時代から四〇〇年近くの年数が経過しているわけであり、当然最新情報が求められていたとみるべきですから、「国名」や距離・方角などについて新たな知見を書いた「行路記事」が必要であったとみられることとなります。

ちなみに「宣諭」と「告諭」は非常に良く似た用語ですが、違いといえば「宣」が「広く知らせる」意を含んでいるのにたいして「告」は面前の相手にだけ知らせるというように範囲の広さに差があるようであり、『倭人伝』の「張政」の場合は「難升米」だけに「告諭」したものであるのに対して、「裴世清」は「倭国王」本人を含む王権の関係者全員に対するものであると思われ、そのような公開の場所で高らかに「宣」したらしいことが推定されます。そうであるとすると「隋」皇帝から「宣諭」されるということそのものを「王権」には「隠しようがなかった」可能性があり、関係者一同の知るところとなったとすれば、「倭国王」としての「権威」を傷つけられたこととなるものであり、「恥辱」といえるものであった可能性があるでしょう。それはその後何らかの影響を王権に及ぼした可能性を推察させるものであり、統治そのものに対する不安定さが顔を覗かせることとなったかもしれません。

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