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チェロ弾きの哲学ノート

徒然に日々想い浮かんだ断片を書きます。

ブックハンター 「運とつきあう」

2020-10-31 13:49:17 | Weblog
197. 運とつきあう  マックス・ギュンター著 九内麻希訳 2012年4月
  How  To Get  Lucky 
 幸せとお金を呼び込む13の方法
 Techniques for  Discovering and  Taking  Advantage  Good Breaks  by Max Gunther
    Copyright©1986 Max Gunther

 『 第一部 支配的な要因
 ○ 運を否定しない
 ウイリアム・S・ホフマンは、ギャンブラーだが、成功できなかった。 彼は「ザ・ルーザー(負け犬)」という著書で、自分が成功できなかった理由を突き止めようとして、興味深い結論に到達した。失敗した原因は、人生における「運の役割」を否定しようとしたからだというのである。
 私たち人間は運を味方につけなければうまく生きられない。「成功」の定義がどのようなものでも、運は成功するために欠かせない要素なのだ。

 ○ 運を向上させる方法は運の存在を認めること。
 これが「幸運のポジション」に立つための大前提である。 』

  第二部 「幸運なポジション」に立つための方法

 『 第1の方法  「運」と「計画」を区別する。
 ポーラ・ウェルマンは、ブラックジャックのディーラーとして、ラスベガスやアトランティックシティのカジノで長年働いて来た。「何が勝者と敗者を分けるか知りたいと思って」と彼女は語った。 でも、長いこと数え切れないくらいの勝者と敗者を眺めてきて気づいたわ。性格が違うのよ」
 どこが違うのだろうか? 
 「一つ言えることは、負ける人は負ければ運が悪かったっていうのだけれど、勝と自分がうまくやったって言うのよ」
 どうやら運をコントロールするための最初の手掛かりが見つかったようだ。勝者になりたければ、運が自分の人生にどのような役割を果たしたかを注意深く見極めることだ。
 運よく思いどおりの結果になったときは素直にその事実を認めることだ、決して自分がうまくやったから成功したなどと勘違いしてはいけない。 』

 『 第二の方法  「人の流れ」に飛び込む
 女優のローレン・バコールに自叙伝「自分自身で」「バイ・マイセルフ」によると、ニューヨークでの最初の二、三年は不運の連続だった。
 彼女はいつも「人の流れに」飛び込んでいった。誰がスターの階段に導いてくれる? それは知りようがなかったが、結果的には、テイモシー・ブルックという無名の英国人作家との出会いがその後の彼女の運命を決めた。

 ある夜、二人はト二ーズというバーに出かけ、ブルックは、知り合いのニコラス・ガンズバーグに紹介した。その時は、何とも思わなかったが、この出会いが彼女の大ブレイクへと続くステップだった。
 ガンズバーグは女性誌「ハーパーズ・バザー」の編集者だった、彼は、バコールをファション担当の編集者ダイアナ・ヴィランドに引き合わせ、運よくモデルの仕事が決まった。
 後日、バルコールの印象的な写真が紙面一杯に掲載され、それがハリウッドのプロデューサー、ハワード・ホークスの目にとまることになる。そして映画女優としての人生が始まったのである。 』

 『 第三の方法  「スプーン一杯」のリスクをとる。
 人生の敗者になりたければ間違えのない方法が二つある。一つは無謀なリスクを負うこと、もう一つはリスクをまったく負わないことである。
 ジョン・D・ロックフェラーが築き上げた莫大な財産は、石油事業で伸るか反るかの大勝負に打って出た結果である。
 
 ロックフェラーは、学校を出ると、クリーブランドにある商品取引の会社の事務員になった。 と言っても、日雇いのようなもので、このまま真面目に働き続けても、今の状態から這い上がるには、リスクをとらなければいけないと考えるようになった。そして、その考えを行動に移した。
 ささやかな貯蓄に借入金を足して、次から次へと商品相場や儲け話につぎ込んでいった。
 数々の不運に見舞われもしたが、ときには幸運がめぐってきた。なかでも、飛び切りの幸運は、石油精製事業の専門家であるサミュエル・アンドリュースとの出会いだった。 その頃には、それなりの経験を積んだいっぱしの投機家になっていた。

 ロックフェラーは、アンドリュースの新規事業に大いなる魅力を感じた。すぐさま二人はクリーブランドに精油所を立ち上げたが、手堅い仕事をしている人たちの視線は冷ややかで「そんな馬鹿げた事業が成功するはずがない」と幾度となくからかわれた。ところが、やがてこの精油所がスタンダード・オイル社のドル箱となるのである。』

 『 第四の方法 「引き際をわきまえる」
 「調子に乗りすぎてはいけない」という教訓は古くからあるが、この言葉の本当の意味を理解しているのは運の良い人だけだ。 』

 『 第五の方法 「運を選ぶ」
 「損切りしろ」とウォール街では言う。きちんと実行できる人は少ないのだが、実に良いアドバイスである。株式投資に限らずあらゆる局面で役立つ。
 「運を選ぶ」ことが多くの人にとって難しいもう一つの理由は「自分が間違っていた」という辛い事実を認めなくてはならないことである。
 運の良い人は自分の判断がときには間違うことを前提にして生活している。これは「リスクを受け入れる」という習慣の一つである。
 「飛び込むにもリスクがともない、立去るにもリスクがともなう」とローバード・バルクは語った。「100パーセントを求めれば、身動きがとれなくなってしまう。これが最高にツイていた男の言葉である。 』

 『 第六の方法 「ジグザグに進む」
 レーガン政権のときオーストリア大使を務めたへレン・フォン・ダムは、一九八五年にニューヨークタイムズ紙のインタビューに「セレンディピティを生かせればと思って生きて来ました。」
 彼女は一九三八年オーストリアの貧しい家庭に生まれた。故郷の小さな村は第二次世界大戦後はソ連の占領下にあった。
 彼女は逃げ出す機会をうかがい、ほぼ無一文で西ドイツに脱出した。何とか仕事を見つけることができたが、アメリカ人の兵士と出会いプロポーズされると迷うことなく結婚を選び、デトロイトへ旅立った。

 しばらくすると彼女はもっと良い目標を求めるようになった。離婚し職を見つけて自立したころ、魅力的な秘書の仕事が目に留まったのでそこへと移った。
 今度の仕事は単なるデスクワークではなく、外に出ていろいろな人たちに会えるという点が気に入った。それは米国医師会の政治活動委員会に関する仕事だった。
 やがて、彼女は米国医師会の仕事を通じてある男性と知り合ったことがきっかけだった。
 映画俳優としてキャリアをスタートし、紆余曲折を経て政治の世界に転向した人物ーーロナルド・レーガンだった。ヘレンのエネルギシュで有能な仕事ぶりに感心したレーガンは、カルホルニア州知事選へ出馬の際に自分の秘書として手伝ってほしいと依頼した。彼女はすぐに同意した。
 ヘレンはレーガンの私設秘書となり、大統領選挙にも尽力し、ホワイトハウスに入った。そして1982年、かって着の身着のままで逃げ出した祖国オーストリア駐在大使に任命されることになった。運はどの方向から近づいて来るかわからない。気配を感じたらすぐに手を伸ばすのだ。 』

 『 第七の方法 「迷信」とつきあう。
 現実の人生も十分な情報もないままに決断を迫られ、リスクを負わなければならない時、自分を導いてくれるものであれば何でもいい。決断しないよりははるかにましである。必要な時に頼りにできる何かをもっていることが重要なのた。 』

 『 第八の方法 「最悪」を想定する。
 運をつかむためには最悪の事態への対処の仕方を学んでおかなければならない。「状況が悪い方向に進むこともある。最悪の結果は何か? それはいくつあって、自分を守るために何ができるか?」
 商品相場での投機でカリスマ投資家のマーティン・シュワルツは、「どうして成功したのですか?」と問われて彼はこう語った。「負け方を学んだんだよ」 』 

 『 第九の方法 沈黙を守る
 私たちは次に何が起こるか予測することは出来ない。それでも何かが起こることは間違いない。そうした不測の事態に対処するには、できるだけ柔軟に構えていることが重要である。
 生涯にわたって類い稀な強運に恵まれた第二九代大統領のカルビン・クーリッジは、不必要なおしゃべりが運を退けてしまうことを本能的に理解していたに違いない。
 1919年にボストンで起こった警察官のストライキで、当時クーリッジは、マサチューセッツ州知事だった。それまでに公務員の組合活動について意見を表明したことはほとんどなかった。
 突如としてストライキ突入の懸念が高まると、彼は組合の代表者に連絡し、警察官のストライキは許容できないと警告した。組合側は警告を無視したが、これが大きな誤算だった。
 相手がどんな行動に出るかと疑心暗鬼になっていた組合側を驚かせたのは、アメリカ労働総同盟のサミエル・コンバーズ会長に公開討論を申し入れ、問題を国民議論に発展させた。「社会の安全に反するストライキ権は、何人も、いかなる場合も有しない」とクーリッジは明言し、報道機関と大衆の支持を得た。この瞬間からカルビン・クーリッジは大統領への道を歩むことになった。 』

 『 第十の方法 教訓にならない教訓
 人生の経験のなかには教訓になりそうに見えるのに、そうならないものがある。運の良い人は「何も教訓の得られない経験」をきちんと見分けることができる。
 「歴史は繰り返す」という格言を妄信している人が少なくない。歴史は単純に繰り返すわけではない。なぜ? 歴史は何十憶人の人がそれぞれに行動し、考え、感じたことの結果であり、絶え間ない変化を続けている。予測など不可能だ。 』

 『 第十一の方法 不公平を受け入れる
 空軍の第十五師団に属していたボブ・バウマーは第二次大戦で欧州戦線へ赴いた。操縦していた戦闘機が二度も撃墜されたにもかかわらず、辛くも生還した。
 「オレより飛行回数が多いのに一度も撃墜されなかったパイロットは大勢いたんだ。また戦争に行って飛ぶことになっても、もう撃たれることなないだろうな」とボブは話していたという。
 やがて朝鮮戦争が勃発し、ボブは再び従軍した。1952年6月に、彼の操縦するB29が爆撃任務中に撃墜され、帰らぬ人となった。世の中は不公平にできている。』

 『 第十二の方法 いくつも同時にこなす
 運の良い人を思い浮かべ、次に運の悪い人を思い浮かべてみよう。際立った違いは何か? 運の良い人のほうが忙しいのだ。
 1933年、42歳のチャールズ・ダロウはペンシルバニア州ジャーマンタウンで、空調関係のエンジニアをしていた。当時は世界恐慌のさなかで、幸運な男といえども、不運の勢いに押され気味で三年ほど定職についていなかった。
 ダウロは、本職である空調エンジニアの仕事を探す傍らで、家電製品を修理する商売を立ち上げた。景気が悪く、どの家庭も新製品を購入する余裕がない時期だったため、思いのほかうまくいった。

 1933年の寒々とした冬のある日、ダウロは妻と食事をしながら、不動産王になれたらどんなに楽しいだろうと思いをめぐらした。やがてダウロは、こんなゲームがあれば興味をもつ人がいるのではないかと思いついた。
 皆が長引く不況でうんざりしているので、大金持ちになることを創造するゲームがあれば憂さ晴らしにもってこいではないかと考えたのだ。
 手先が器用で、ときおりジグゾーパズルなどのゲームを自作することもあったダウロは、どこからか厚手の防水布を見つけてきて街並みの絵柄を描いてみた。
 羽振りが良かったころ訪れたアトランティックシティに実在する名前をつけたりした。絵柄が決まると、近所の商店からペンキのサンプルをもらい色を塗った。
 木材置場から木材の切れっぱしをもらって、家の形のコマをこしらえ、廃物のボール紙をカットして、不動産の権利証書を模したカードを作った。

 ゲームの遊び方についてはぼんやりとしたアイデアしかなかったが、時間がたつにつれて、具体的ルールが固まってきた。サイコロ二つと子供から借りたおもちゃの紙幣と(各プレイヤーが駒として使う)ボタンを用意し、ダウロは、週末や夜の空き時間に妻や友人を誘ってゲームを進めてみた。
 回数を重ねるにつれて、新たなルールを導入したり、複雑な要素を加えながら洗練の度合いを高めていった。
 やがて完成したゲームはちょっとした芸術品に仕上がった。初めて参加した人もすぐに夢中になり、みんなが一晩中遊びたがるほど面白いゲームが誕生したのである。

 ダウロはこれを「モノポリー」と名づけたのである。
 もっとも、ダウロにとってこのゲームは、あくまでも片手間にすぎなかった。友人や隣人が欲しいと言えば1セットあたり1ドルで売ることにした。手作りなので、せいぜい一日に二セット作るのがやっとだったが、注文をこなすにはそれで間に合った。

 誰かがゲームを手に入れて知人を招いて遊ぶと、そのうちの誰かが新たに注文をするというふうに、評判はクチコミで広まり、いつの間にか販売数は百セットに達した。 ダウロにとってはそれで十分だった。
 ところがそんなダウロのもとに「運」が近寄ってくる。ある小さな印刷会社のオーナーがゲームに好奇心をそそられ、ダウロに会って、ボードとおもちゃの紙幣やカードなどを自分の所で印刷させてくれないかと申し出た。ダウロにとっても、手間のかかる日々の作業が軽減されるので喜ばしい話だった。
 加えて印刷会社のオーナーは、ささやかな広告と販売促進のキャンペーンも引き受けた。
 こうして二人は、一日に最大六セットのモノポリーを生産できるようになった。しばらく経つと、もう一つの幸運がめぐってくる。フィラデルフィア・デパートの職員が、ある雑貨屋の店先に陳列されてるのを見かけ、一セット買い求め自宅にもちかえった。ほどなくしてダウロたちは、デパートで販売するために大量の注文をうけることになった。フィラデルフィア・デパートでは発売まもなくして最初の注文分が売り切れたので、すぐに注文がきた。
 新しいゲームの噂はすぐにほかの店にも飛び火し、さらに別の都市にも広がって行った。注文も100セット、200セット、300セットと増え始めた。
 一度にそんなに多くのゲームを小さな印刷会社では作ることが難しくなった。ダウロの方も商品や請求書の発送、材料の仕入れなどの仕事に追われた。
 この状態から抜け出す方法は一つしかなかった。
 ダウロは1883年に創業されたテーブルゲームの大手パーカーブラザーズ社にライセンスを与えて、ロイヤリティー収入を得ようというものだった。

 パーカー社の担当者は、持ち込まれたアイデアが自社製品にふさわしいかどうか吟味した。この新しいゲームには、基本的な欠陥が52あり、提案は却下された。
 ダウロが自宅に戻るとクリスマスが近づいたため、店側はもっと多くの商品を作るように迫ってきた。
 印刷会社の製造ラインをフル稼働しても出荷と同時に完売し、何千もの追加注文が待っていた。
 こうした熱狂的なゲームの噂はパーカー社にも届いていた。ダウロの申し出を断った担当者は、自らの間違いをいさぎよく認めるしかなかった。ダウロは、条件を受け入れ契約書にサインすると、休暇を取ることにした。 』

 『 第十三の方法 「運命の相手」に出会う
 最終的には、出会いが運を左右するにしても、積極的に行動することによって、幸運と出会う可能性が高まる。
 この好例がマーガレット・ミチェルとハロルド・レイサムだ。もし二人が出会わなかったら、「風と共にさりぬ」が日の目をみることはなかったかもしれない。
 1918年、ミチェルは医者になりたくて大学に入学した。翌年、インフルエンザが大流行、ミチェルの母親がなくなった。母を失ったミチェルは、父の世話をするために一時的に帰郷することになった。
 しばらくして、彼女は大学に戻って、勉強を再開したが、いくつかの科目で落第しそうになり、ホームシックにかかり、結局、アトランタへ帰ることにした。
 その後、彼女は結婚して、離婚し、再婚した。二度目の相手は広告代理店の役員を勤めるジョン・マーシュだった。
 子供はおらず、まだ二十代だったこともあり、彼女はそのエネルギーを執筆活動に注ぎ込んだ、彼女の文章は魅力的で機智に富んでいた。
 やがて新聞社の記者として働くことになり、文芸関係者の集まりにもよく顔を出し、人気者になっていた。
 その後、偶然の出来事が違う方向からやってきた。交通事故である。彼女は生涯に三度の交通事故に巻き込まれることになるのだが、これが最初のものだった。

 結婚して、一年が過ぎた頃、26歳のとき、雨の中一人で運転していて、スリップ事故で、足首に重傷を負い、一年間、家から出ることができなかった。記者の仕事もあきらめざるをえなかった。

 自分で紅茶をいれるくらいの家事しかすることがなく、彼女は小説を書き始めた。
 スカーレット・オハラという女主人公が、南北戦争による度重なる困難に翻弄されながらも逞しく生きる物語だ。
 

 書き終わったのは、1929年の後半といわれれいる。おそろしいほど長大な小説で、積み上がった原稿用紙は2千枚を超えた、ところがこの作品は5年間書類綴じに押し込まれて放って置かれることになる。
 彼女は何人かの編集者に見せたが断られ諦めてしまったらしい。
 六年が過ぎる頃、一部は黄ばんできた、この小説が陽の目を見るには「運」の力が必要だった。

 幸運は、やがてマーガレットの「運命の相手」となるハロルド・レイサムという人物とともにやってきた。
 マクミラン社の副社長で編集部の責任者を務めていたレイサムは、ミッチェルが小説を書き始めてから九年後の1935年南部での出張の途中で、アトランタに立ち寄った。
 書籍の出版事業が拡大しつつあったので、南部の歴史小説を出すのにちょうどいい時期だと思っていた。
 あらかじめ何人かのスカウトを派遣して有望な作家を見つけておくように指示していたが、待っていたのは、がっかりするようなものばかりだった。
 レイサムは不機嫌になりながらホテルの部屋にもどり、仕方ないので伝手を頼って何人かに電話をかけてみた。ここでマーガレット・ミッチェルが「人の流れ」に身を置いたことで、彼女の知り合いが、レイサムの情報網に引っかったのだ。

 「彼女は何をかいているの?」 
 「何年も前に小説を書いたって話をしていたけど、よくわからないなあ‥‥」
 そこでレイサムはミッチェルにコンタクトをとり、面会を求めた。レイサムに小説のことを聞かれたミッチェルは、そんな原稿はないと答えた。それでも、お互いに気が合う相手だということに気づき、打明けて話をすることができた。
 レイサムは、小説を見せてほしいと執幼に迫った。ミッチェルは原稿の存在は認めたものの、まだ完成していなくて本にできる状態ではないと言った。

 レイサムは仕方がないので、早めにベットに入って、翌朝の列車でニューヨークに帰ろうと思っていた。そのとき部屋の電話が鳴った。マーガレットからだった。「気が変わったの」と言った彼女はホテルのロビーまで原稿を持ってきていた。

 ミッチェルとレイサムは二人して膨大な量の原稿に手をいれて、人々の心をつかんで離さない魅力的な物語に仕上げた。
 小説「風と共に去りぬ」は1936年に、千頁を超える分厚い本で、価格は三ドルだった。 』 (第196回)

ブックハンター「イラストで分かる英単語使い分けMAP」

2020-07-25 14:05:43 | Weblog
 196. イラストで分かる英単語使い分けMAP (晴山陽一著 2016年12月)

 まず、本書のまえがきを記述し、次に私の英語への無駄な挑戦を書いて、内容の要約と私の勝手なアレンジを加えたものを記述します。

 『 日本語に比べ、英語は「言い換え」を好む言語だと言われています。同じ言葉、同じフレーズを繰り返すと、読み手や聞き手を飽きさせ、「表現に工夫が足りない、ひねりがない」と思われてしまうのです。
 このことを逆に言うと、英語の文を読んだり聞くときには、どのような言葉が言い換えられているのか瞬時に理解しないと、文脈を追えなくなるということを意味します。
 
 「言葉の言い換え」の具体的な例をあげてみましょう。
 Nowadays,  people  can  buy  imported  products.  (最近、人々は外国産の商品を購入することができる) この文をもとにして、4ヶ所を言い換えると、次の文となります。
 Recently  people  are  able  to  purchase  foreign-made  products.

 本書は、この英語特有の「言い換え」のセンスを養っていただくために編みました。
通常、英単語の言い換え情報は、「類語辞典(シソーラス)」にまとめられています。 しかし、多くの類語辞典はとても分厚く、学習には不向きです。

 そこで、本書では、「会う」 「上げる」 「当たる」 などの意味を表す英語表現にはどのようなバラエティがあるかを、図やイラストを用いて、ダイナミックに印象づけることにしました。
 「会う」を例にすると、この意味フィールドは、①ぴったり合う、②調和する、③意見が合う,④体質・好みに合う、⑤ふさわしい、という5つのグループに分かれます。

 そして、①の「ぴったり合う」という意味フィールドを表す英単語は、fit, shape, close, snug ということになるのです。
 言い換えに関する知識は、日常会話で役立つだけでなく、英語の資格試験でスコアを上げるとき威力を発揮します。 本書は、2008年ダイヤモンド社から出版した本を発展・増強したものです。 』 (まえがきより)

 今回本書を取り上げましたのは、英語で本を読みたい一心で、様々に挑戦し、挫折してきた私ですが、最近少し理解したことがあります。
 一つには、日本人のアイウエオの発音表記では、多くの言語を発音することが難しく、新しく国際的な発音表があると良いと感じます。
 二つには、日本人の書いた英文法書を読む時、そこで用いられている英文がいかにも、日本人が作ったうそぽい英文で、英語の名文からの距離を感じます。

 三つには、主語、動詞、目的語(補語)といっても、実際の英文では句や節で構成され、英文をどこを手掛かりに、どのような手順で、解析すべきか良くわからない。
 四つには、 a, the によって名詞を判別し、 be 動詞や不規則変化動詞によって、動詞を判別し、 to, for などの前置詞によって、目的語を判別するかの説明が、英語の名文を例にして、もっと説明する必要があるのでは、ないでしょうか。

 五つには、英単語は、医学薬学分野、金融証券分野、インターネット、ソフト開発分野でそれぞれ大辞典が必要なほど英単語が存在して、すべての分野の英単語を記憶することは、ほぼ不可能です。 しかしながら、英語は、ラテン語を語幹として、接頭語、接尾語によって
構成されているので、基本の語を使っていけば、何とかなるのかもしれません。

 六つには、日本語の語順が、多くの言語と離れているため、意味がとりにくいのかもしれません。
 七つには、英文をどこからどう捉えて、辞書をどう引いて、どの日本語を選択すべきか、私のような英語の劣等生にも、わかるように説明して、もらいたいものです。

 八つには、私の感じでは、日本語の本でも、英語の本でも、本のタイトルと目次を読んで、そこに書かれている事が、推測できなければ、その本を読んでも、内容は理解できない確率が高い。したがって、題名と目次を名著を通して、学ぶことを訓練する必要が、あるのではないでしょうか。

 本書では、Unit1として、動詞 55、Unit2として、形容詞12、Unit3として、名詞5を紹介しています。
 私は、少し変形して、名詞5つ、形容詞12つ、動詞Ⅰ(思考的)18つ、動詞Ⅱ(動作的)20つ、動詞Ⅲ(思考と動作)17つ、として紹介いたします。
 私は、英語の言い換えの多い単語は、特に重要な72の日本語の単語を索引として、英語を攻略する一つの、道筋になるのではと考えました。

 『 名詞 5
 ○考え、 言葉、 場所、 話、 道

 形容詞 12
 大きい、 かたい、 鋭い、 高い、 小さい、 速い、 ひどい、 広い、
 深い、 よい、 ○立派な、 悪い

 動詞Ⅰ(思考的) 18
 会う、 言う、 受ける、 応じる、 落ち着く、 ○ 思う、 考える、 困る、
 耐える、 注意する、 伝える、 できる、 解く、 整える、 直す、 
 守る、 認める、 見る

 動詞Ⅱ(思考と動作) 17
 上げる、 扱う、 入れる、 動かす、 置く、 送る、 起こす、 ○つかむ、
 続く、 取り上げる、 のばす、 入れる、 張る、 引く、 開く、 結ぶ、
 持つ

 動詞Ⅲ(動作的) 20
 当たる、 行く、 落ちる、 落す、 降りる、 加える、 消す、 下がる、
 出す、 断つ、 達する、 立てる、 使う、 作る、 つける、 出る
 ○取る、 上る、 破る、 渡す

 この72のうちから、各カテゴリーごとに、○をつけた一つだけ、もう少し説明します。 イラストは、本書を読んで、ください。

 Map68 考え (名詞)
  ① 思考
   idea (観念) thought (心に浮かぶ考え) concept (概念)
   notion (漠然とした考え、概念) conception (個人が心に抱く考え
   reflection (熟考) thinking (思考、考え方)

  ② 思いつき
   idea (着想) thought (理想的な思いつき)

  ③ 意見
   opinion (意見) view (個人的感情を含む意見)

  ④ 意図
   intention (意図)

  ⑤ 予想
   guess (推測) impression (漠然とした感じ) expectation (期待)
   imagination (想像)

 Map66 立派な (形容詞)
  ① 堂々とした・見事な
    excellent (非常に優秀な) magnificent (壮大で壮麗な)
    fine (立派な) nice (結構な) splendid (光輝ある)
    brilliant (華々しい)

  ② 尊敬に値する
    respectable (社会的にまともな) honorable (尊敬すべき)
    good (道徳的に正しい) fine (立派な) noble (気高い)
    praiseworthy (称賛に値する) reputable (評判の良い) 
    venerable (宗敬すべき) creditable (称賛に値する)

  ③ 正当な・十分な
    good (正当な) enough (必要に足りるだけ十分な)
    sufficient (ある目的のために十分な) adequate (~するに足る)

 Map17 思う (動詞Ⅰ 思考的)
  ① 感じる
    feel (~だと思う)
  ② 考える
    think (考える) believe (信じる)

  ③ 不審に思う
    doubt (~かどうか疑問に思う) suspect (~ではないかと思う)
    wonder (~だろうかと思う)
  ④ 意図する
    intend to do (~するつもりである) think (~しようと思っている)
    expect (~するつもりである) be going to do (~するつもりである)

  ⑤ 願う・望む
    hope (待ち望む) want (~したいと思う) wish (~したいと思う)
  ⑥ 予想する・推測する
    expect (起こることを予測する) imagine (心に思い描く)
    guess (推測する) suppose (推測する)

  ⑦ 回想する
    remember (自然に思い出す) recall (意図的に思い出す)

 Map31 つかむ (動詞Ⅱ 思考と動作)
  ① 握る
    catch (動いているものをつかむ) hold (握っている)
    take (手に取る) seize (ぐいとつかむ) grasp (握りしめる)
    grip (しっかりつかむ) clutch (つかんで離さない) 
    grab (奪い取るようにつかむ)

  ② 手に入れる
    get (手に入れる) catch (機会をとらえる) grasp (機会をつかむ)
  ③ 理解する
    grasp (意味を理解する) get at (真実をつかむ) 
    understand (人の言うことがわかる)

 Map41 取る (動詞Ⅲ 動作的)
   ① 手に持つ
     take (手に取る) reach (手を伸ばして物を取る) 
   ② 得る・捕獲する
     get (手に入れる) capture (獲得する) obtain (獲得する)
     win (賞などを受ける) receive (受け取る)

   ③ 記憶する・写真を撮る
     note (書き留める) write down (書き留める) take (写真を撮る)
   ④ 予約する
     reserve (予約する)

   ⑤ 除去する
     remove (物を取り去る) take off (取り外す)
     get rid of (除去する)
   ⑥ 奪う
     rob (人から物を奪う) take away (取り上げる)
   ⑦ 必要とする
     take (時間を必要とする) occupy (時間をとる)

   』 以上が72の5つのみを紹介しました。 興味のある方は、本書を読んでみてください。

 私の考えでは、英語で言い換えるのは、本来その意味をより的確に表現するためのように思います。 単語(言葉)は、広く応用されるために、多くの意味がありますが、前後の単語や、文脈によって、変奏曲のように言い換えて、自分の考えていることを的確に表現するためと考えます。 (第195回)








ブックハンター「PCRで増幅されるDNAの量」

2020-05-20 08:50:34 | Weblog
195. PCRで増幅されるDNAの量 (文芸春秋5月号 数学の科学45 佐藤健太郎著)

 私がこれを紹介しますのは、コロナウイルスの検査機器であるPCR(polymerase chain reaction)の説明で最も分かりやすかったからです。これは同時にこの原理の開発者キャリー・マリウスの物語でもあります。 では、いっしょに読んでいきましょう。

『 最近のコロナ騒動で、PCRという言葉を連日耳にするようになった。手元にあるDNAの量を大幅に増やす技術だ。 ウイルスというのは、要するに殻の中に入った遺伝子(DNAまたはRNA)だ。
 ある人の喉から採取した遺伝子を解析し、新型コロナウイルスに特有の配列があれば、その人は感染者と判定できる。 問題は、採取できるウイルスの遺伝子は極めて僅かであり、そのままでは解析が難しいことだ。

 そこでPCR法の出番となる。 DNAは、四種のパーツ(A・T・G・Cと略される)が長く連結したものだ。 このうちAとT、GとCは互いに引きつけ合い、二本の鎖をはしご状に結びつけて、二重らせん構造を形作る。 
 これを加熱すると二重らせんがほどけて二本の鎖に分かれるので、そこにポリメラーゼという酵素と、原料となる四種類のパーツを加える。

 すると、一本ずつになった鎖の配列を鋳型にして対になる鎖が合成され、結果として元と同じ配列の二重らせんが二本に増えるのだ。 さらに同じ操作を施せばDNAのコピーは四本、八本と倍々に増えてゆき、三十回も繰り返せば理論上十憶倍以上にも増幅できる。
 実際にはもう少し面倒だが、基本原理はこのようにシンプルなのだ。

 この原理は、キャリー・マリスという奇天烈な科学者が、ドライブ中に思いついたものだ。 この着想が浮かんだ瞬間、彼は車を路肩に停めて大笑いしたという。 このアイデア一発で、ノーベル賞を獲れること間違いなしだったからだ。

 PCRはすぐに科学研究や犯罪捜査、遺伝子鑑定などに欠かせない手法となり、マリスは十年度に目論見通りノーベル賞を勝ち取った。
 DNA以外の物質もPCRで何百倍に増やせたらよいのだが、当然これは不可能だ。 DNAは自らの複製を作るよう特化した構造であり、コピー製造の道具も自然界に揃っている。
 であればこそDNAだけが増幅できるのであり、他の物質ではこうはいかない。
 わずか数ヵ月前に、最初の感染者の体内に入り込んだウイルスは、あっという間に世界を席捲した。 PCRに劣らぬ、この恐るべき速度もまた、遺伝子の持つ増殖能力に他ならない。
 異なるのは、彼らが増幅器として利用しているものが、我々の体だという点だ。 突如現れた、ひたすら増殖する見えない難敵といかに闘うか、人類は試練の時を迎えている。 』
 (第194回)

株式投資と選択肢について

2020-05-07 20:09:10 | Weblog
 194. 株式投資と選択肢について  選択肢研究家 五十嵐玲二談 2020年5月

 前回のアレキサンダー・エルダーの著書に触発されて、株式投資と選択肢について考えてみます。 なぜ、株を買う前に、ストップと目標価格を決めて、事前に決めた計画に従って、実行しなければならないかです。 
 今、手元に二百万の現金を持っている時、二百万であらゆる可能性と選択肢を持っている。
 これを東京株式市場の三千あまりの株式のどれでも買える選択肢を持っている。

 しかし、ある株式を二百株買った時点で、残されている選択肢は、売ることだけである。
 しかしながら、現金の二百万をいつまでも持っていても、その資金が生かされることはない。

 ここで、どうすべきか! 二百万円の現金を株に投資する前に、リスクコントロールを行なうことです。
 現金を選択した株に投資するまえに、ストップ(それ以下の株価になったら、損切りを実行するストッパーとなる価格、このストパーはその価格で売れるという意味ではありません、下がるときは、大きく窓を開けて下がることもまれでは、ありません。 なりふり構わず損切りするという意味です。)
 
 このストップを実行するには、非常に勇気のいることです。 なぜならば、人は、自分の都合のいいように、考えるものだからです。 そして、自分の都合のいいように、ならない時、他人のせいにしようと考えます。 現実を認識して、自分の考えが誤っていたことを、認めて損切りを実行できる人は、まれです。

 もう一つは、目標値を決めることです。 3週間後あるいは3ヵ月後に予想される価格です。 現在の価格、過去十年間の実績(過去に発展の兆しが見えなければ、見込みはない)、財務状況(単に利益と配当があっても、税金だけ増えて、企業が発展しない場合も)、主力製品と世界シェア、チャート分析(年足、月足、週足、日足、5分足、一分足と順に現在を見る)、十年間の株式分割実績、総資産利益率、MACD(上昇し始めるタイミングを捉える)、本年度、翌年度の成長率、社長の人相人格を含めて、自分で研究して、目標値を決定する。

 この時、他人の口車に乗ったり、利益を出してない新製品の情報、信頼のおけない企業(上場していても存在する、例えば東京電力、福島の廃炉は、一歩も進んでない)、取引額の少ない企業の株は売りたい時に売れないなど、落し穴のリスクを検討して、買う株を決定する。

 アレキサンダー・エルダーは、株を買うことは、流れている川に飛び込むようなものだと書いてます、 それと同時に今まで手元にあった選択肢は、失なわれて、株式市場の荒波にもまれます。 買う時にもスリッページ(予定した価格より、オーバーすること)が発生し、予定通りにいかないものです。 ここで、自分の単なる思い込みでは、目標価格に到達する前に、ストップに引っ掛かてしまいます。 そこで、計画通りに、ストップを実行できない人は、資本を失ってしまいます。

 ここで、言いたいことは、選択肢の豊富なうちに、リスク管理を行い、計画書として、記録に残し、リスクとして事前に検討したことは対応できても、全く考えていないことは、慌てて悪手を打ってしまうものです。

 次の例は、大きめのプランターに春に何を植えるかという選択肢について、考えてみます。 家庭菜園といえども、年に一回のことなので、一本のブルーベリーの苗と、二つのイチゴの苗を二つ植えました。
 家庭菜園といえども、土をどうするかは、重要なことです。 植えた後は、草とりと水やりで、収穫の前に、病害虫で失われるかもしれません。 運のようなものもあります。

 運を良い方向に向けるには、選択肢の多いときに、すぐれた分析力とリスク管理と健康と資本と時間の選択肢を有意義に使いたいものです。 (第193回)


ブックハンター 「利食いと損切りのテクニック」

2020-05-01 14:10:28 | Weblog
 193. 利食いと損切りのテクニック  アレキサンダー・エルダー著 木水康介訳
                              2012年6月発行
 The  New  Sell  &  Sell Short   (How To Take Profits, Cut Losses, And Benefit From  
 Price Declines)   by  Dr.Alexander Elder    Copyright©2011

 本書は株式投資の本です。 コロナウイルスによる株価が暴落している時に、何で株式投資なんだと思いますが、何かを選択して決断する時、その決断をするときの心理とその決断をするための事前の分析と準備について、書かれています。

 内容に入る前に、著者は、ニューヨークで、精神科医で、現役のトレーダーです。何も、株などをやらなくても、精神科医だけで十分ではないかと私は考えますが、投資と心理学の新しい分野を開拓した第一人者です。

 著者の経歴について、見ていきましょう。

 『 医学博士であり、プロのトレーダーであり、またトレード講師である。これまで10冊の本を上梓しており、特に「投資苑」 「投資苑がわかる203問」は、トレードの古典的名著として、世界中のトレーダーに支持されている。

 レニングラード(現サンクトペテルブルク)生まれのエストニア育ち。 16歳でエストニアの医学学校に入学し、船医としてソビエトの船に乗っていた23歳のときに、アフリカで船を飛び下りて米国に政治亡命。ニューヨークで精神科医として働きながら、コロンビア大学で教鞭をとる。

 精神科医としての経験から、トレード心理学に独自の視点を投げかけるなど、著書、寄稿、書評が高い評価を受けるようになり、トレードの専門家として世界的に知られるようになった。 現役のトレーダーであり、本書でも自身のトレードが数多く掲載されている。

 1週間のトレーダー向け合宿研修会「トレーダーズキャンプ」の発起人であり、またプロとセミプロのトレーダー集団「スパイクトレード」の創設者でもある。同会では、各メンバーが最良の選択銘柄を持ち寄り、入賞を目指すコンテストが開かれている。
 ウェブ上でトレーダー向けのセミナーを運営するかたわら、セミナーの講師として世界各国を飛び回っており、来日セミナーの経験もある。 』

 『 成功するトレーダーというものは、3つのMから成り立っている。 それは心理(mind)、手法(method)、資金(money)である。 それぞれが心理学、分析、リスク管理に対応している。 』

 『 私のツールボックスは、移動平均線、エンベローブ、MACD,勢力指数の4つでうまくいっている。
 ( エンベローブ : (envelope)(包む)で、ポリジャーバンドやパラボリックSARを指す。 ) 
 ( MACD : Moving  Average  Convergence(集合)  and  Divergence(分岐・発散) マックデと読む )
 ( 勢力指数 : Force  Index で Roc  (Rate  of Change)など ) 』

 『 トレードには、自信が必要だ。 しかし、逆説的だが謙虚さもまた必要である。 マーケットは巨大すぎて、すべてに通じることはできない。 完全に知り尽すことは不可能だ。
 したがって、トレーダーは自分の「調査とトレード」の分野を選び、そこに特化する必要がある。金融マーケットと医学を比較してみよう。

 現代では、ひとりの医師が外科、精神科、小児科の専門家になることは不可能だ。そのような全網羅的な専門知識は数世紀前なら可能だったかもしれない。だが、現代医学の医師は何かの専門家になる必要がある。 』 


 『 テクニカル分析とファンダメンタル分析
 ファンダメンタル派は、株式なら上場企業の価値を調べる。商品ならその需給関係を調査する。 対照的にテクニカル派は、あらゆる株式や商品に関するあらゆる知識が、すでに価格に織り込まれていると考える。 チャートパターンと指数を調べ、トレードという戦場で強気派と弱気派のどちらが勝ちつつあるかを見極める。
 いうまでもなく、この二つの手法には重なっている部分もある。真剣なファンダメンタル派ならチャートもみるし、真剣なテクニカル派なら自分が売買をしているマーケットのファンダメンタルズに関する考えを喜んで受け入れる。 』


 『 トレードツールとしての心理
 感情、希望、恐怖は、直接かつ即座にトレードに影響する。テクノロジーに左右されるわけではない。頭のなかで起こっていることが成功や失敗を左右するのだ。意思決定のプロセスは明確でなければならず、また先入観を持ってはならない。そうすることで経験から学び、より優れたトレーダーになれる。 トレード心理学のキーポイントを軽く紹介しておこう。
 
 孤独は不可欠
 人はストレスを感じると萎縮して、人のまねをするようになる。 しかし、トレーダーとして成功している人は、自分で決断をしている。 トレード計画をつくったり、トレードを実行したり、トレードを実行したりするときは、ひとりにならなければならない。

 これは隠遁しろという意味ではない。ほかのトレーダーとつながりを持つのはいい。 ただ、トレード中は自分のトレード計画について、人と話すべきではないのだ。
 自分のトレードと向き合い、できるだけ多く学び、自分で決断し、計画を書き出し、だまって実行する。 信頼のおける人たちと自分のトレードについて話し合うのは、トレードが終わってからである。 ポジションに集中するには孤独が必要なのだ。

 自分を大切に
 心理がトレーダの一部なら、心を大切にしなければならない。 衝動的なトレーダーが楽しそうでも、そういうふうに見えるだけだ。 敗戦は自分自身に対してきわめて凶暴になり、驚くほど手厳しくなる。 ルールを破って自分を責めることを繰り返す。
 自分を責めても優れたトレーダーになれるわけではない。 部分的にでもうまくいったり、冷静に自分の欠点を評価したりしたら、褒めてやってもいいくらいだ。 私自身も、うまくいったトレードをたたえる報酬システムを持っている。 だが、損失を責めて自分を罰してはいけない。

 失敗する宿命にあるトレーダーたち
 マーケットに限りなく誘惑があるため、衝動をうまくコントロールできない人はトレードでうまくいかない傾向である。 酒飲みや薬物常習者が成功する可能性は低い。 短期的に多少の幸運に恵まれることはあっても、長期的には厳しい。
 アルコールの問題や摂食障害など何か制御がきかないという問題を抱えているなら、その依存症が解決するまでトレードを控えてほうがいい。
 強迫的に細部にこだわったり、病的なまでに強欲にとらわれたりしている人は、小さな損失を見過できず、トレードでもうまくいかない傾向にある。

 トレード成功者は利益よりもゲーム性を愛している
 毎週日曜日には、週末の宿題も終え、翌週の計画も仕上がっている。 こうした状態で月曜日に場が開くのを待つのは悪くない。 翌朝ビーチに繰り出す予定のサーファーも、前の晩はきっとこんな気分なのだろう。 この感覚は、準備ができているからこそ得られるものだ。

 記録をつけること——夢をみるより実際の行動を
 マーケットが開いてない週末に規律について語るのは簡単なことだ。 しかし、実際にコンプータの画面の前に坐って開場の鐘が鳴った5分後には、どうなっているだろうか。
 トレード計画を紙に書き出し、厳格に遂行しなければならない。 記録をつける能力をみれば、その人が今後成功できるかすぐに分かる。
 記録をしっかりつけられる人は、トレードで成功する可能性が高い。 記録をしっかりつけられない人は、トレードで成功する可能性がほぼゼロだ。 』


 『 トレード日誌――成功し続けるための鍵
 間違いを犯そう。 学ぼうとする者なら必ず間違いを犯す。 私が人を雇うときは常に「間違いを期待している」と告げるようにしている。
 間違いを犯すのは、学習と探求の兆候なのだ。 ただし、間違いを繰り返すのは、不注意もしくは心理的な問題の兆候である。
 間違いから学ぶ最良の方法は、トレード日誌をつけ続けることだ。それによって、成功の喜びと敗北の苦しみは蓄積可能な黄金の経験へと変わる。
 トレード日誌では、図を用いてトレードを記録する。 仕掛けたときと手仕舞ったときのチャートを記録し、矢印、補助線、コメントをつける。 』

 『 買い候補を選んだら、いくつか考えなければならないことがある。
 ① 利益目標はどこか。 この銘柄はどの程度上がりそうか。
 ② どこまで下がれば、買いの判断が間違っていたこと、損切りしなければならないと確信できるか。
 ③ その銘柄のリスク・リワード・レシオ、つまり潜在的な収益(リワード)とリスクの比率はいくらか。
 プロのトレーダーは、この3つの問を常に考えている。 ひとつも考えないようではギャンブラーと同じだ。 最初の問題から始めよう。 利益目標はいくらか。
 スイングトレードの目標設定には、移動平均もしくはチャネルを使うとよい。 長期トレードの利益目標を見積もるとき、長期の支持線や抵抗線を検討すると役立つ。

 トレードを仕掛けるのは、流れの速い川に飛び込むようなものだ。 ただし、飛び込む場所を探すのに、川岸を上下に動けばよい。 川岸には、仮想売買に終始して一生を終える人もいるくらいだ。
 川岸にいれば安全だ。 水に濡れることもない。MMF口座で現金が金利を稼いでくれる。
 トレードで完全に自分でコントロールできるのは、飛び込むタイミングくらいだ。 落ち着かない、不安にかられたからといって、適切な場所を見つける前に飛び込んではならない。
 飛び込む位置を探すとき、もうひとつ調べなければならない重要な場所がある。
 下流を見なければならないのだ。

 水が白く濁っているのは、岩があるところだ。流れが急なところは危険なので、そこに至るに、川から出なければならない。 そのために向こう岸をよく見回して適当な場所を探す必要がある。 』

 『 ストップなしの売買システムは、売買システムではない。 ただのジョークだ。 そういうシステムでトレードをするのは、シートベルトなしで自動車レースに臨むようなものだ、 勝こともあるだろう。 だが最初の事故で死ぬこともある。
 ストップがあることで、あなたは現実と繋がっている。 収益に関して人は都合のいい考えを持ってしまう。

 しかし、ストップをどこに置くかを決めることで、どこまでなら下がり得るかを考えるようになる。 そこでは本質的な問が強いられる。
 「潜在的な収益は、リスクに見合っているか?」 保護的ストップは、いかなるトレードにも必要だ。 次の簡単なルールを守ってほしい。
 「ストップをどこに置くかはっきりさせずに、トレードをはじめないこと」
 これはトレードに入る前に決めなければならない。 リスク・リワード・レシオを測るためには、ストップと利益目標を決める必要がある。 目標のないトレードは、ギャンブルのようなものだ。 』   (第192回)


ブックハンター「コロナウイルスで考えたこと」

2020-03-13 13:19:21 | Weblog
 192. コロナウイルスで考えたこと  塩野七生著 (文藝春秋2020年4月号)

 私が今回この文章を紹介しますのは、人類の歴史は、幾多の疫病との闘いの歴史であり、株式相場は、暴落との歴史であったとあらためて感じたためです。

 本文で15世紀のヴェネチアですでに、交易と疫病の問題をより深く考察して、解決への道筋を実践していたことを今回知って、歴史とはこのように、学び実践すべきことを知りました。

 塩野七生の文を読む前に、「福岡伸一著 生物と無生物のあいだ」から細菌とウイルスついて、確認していきます。細菌は、0.1~30㎛(10⁶分のm)(0.1~30x10³分のmm)の窮状・棹状・螺旋(らせん)状などの単細胞の微生物です。

 微生物を大きく分けると、無機塩の酸化によりエネルギーを得る化学独立栄養菌と有機物を栄養源とする化学従属栄養菌とがある。微生物は、代謝を行ない、細胞分裂によって、増殖する。

 『 ウイルスは、20~300㎚(10⁹分のm)(2~30x10⁵分のmm)の大きさです。ウイルスは単細胞生物よりずーと小さく、大腸菌をラクビーボールとすれば、ウイルスは、ピンポン玉かパチンコ玉程度のサイズとなる。

 従って、細菌は光学顕微鏡で見ることができるが、ウイルスを見れたのは、光学顕微鏡より十倍から百倍もの倍率を実現する電子顕微鏡が開発された1930年代以降のことである。

 野口英世が黄熱病に斃れたのは、1928年である。まだ世界はウイルスの存在を知らなかった。彼が生涯をかけて追った黄熱病も狂犬病もその病原体は、ウイルスによるものだった。

 ウイルスを電子顕微鏡下で捉えた科学者は不思議な感慨に包まれたに違いない。細菌はウェットで柔らかな形状であるが、ウイルスはエッシャーの描く造形のように幾何学的な美しさをもっていた。ウイルスは一切の代謝を行なわない、物質に限りなく近い存在だった。

 ウイルスを混じり物がない純粋な状態にまで精製し、濃縮すると、「結晶化」することができる。これはウエットで不定形の細胞ではまったく考えられないことである。結晶は同じ構造を持つ単位が規則正しく充填されて初めて生成する。

 つまり、この点でもウイルスは、鉱物に似たまぎれもない物質である。しかし、ウイルスをして単なる物質から一線を画しているのは、ウイルスが自らを増やせることだ。

 ウイルスは単独では何もできない。ウイルスはまず、惑星の不時着ように、細胞の表面に付着させ、その接着点から細胞の内部に向かって自身のDNAを注入する。宿主細胞は、自分の一部だと勘違いして、複製をおこなう。
 それら新たに作り出されたウイルスは、まもなく細胞膜を破壊して一斉に外に飛び出す。
 』 (福岡伸一著「生物と無生物のあいだ」より)
 
 前置きが長くなりましたが、一緒にヴェネツィアの実践を読んでいきましょう。

 『 コロナウイルスの流行はいまだに先が見えていないが、いずれは終息するだろう。人類の歴史は流行病の歴史と言ってよく、いくらかの期間は置くにしろ、発生と終息の繰り返しったのだから。

 とは言え歴史上では、発生するのは後進国でそれが先進国に伝染して終息する、が常であったので、前回のSARSも今回も発生地が世界第二の強国というのは、伝染病の歴史では異例になるかも。

 現代では「検疫」の意味の世界共通語になっている「Quarantine」とは、もともとは中世ヴェネツィアの言葉で「四十日間」を意味する「Quarantana」に由来する。
 ヨーロッパとオリエントを結ぶ交易で成り立っていたヴェネツィア共和国は、オリエントで疫病が発生したからといって国境を閉じるわけにはいかない。

 また、中近東への聖地巡礼をパック旅行化するほどの観光立国であったので、オリエントから戻ってくる船には、オリエント産の物産だけでなくヨーロッパ人の巡礼客も乗っている。
 だがこの状態を放置しておくと、ヨーロッパの人口の四分の一は確実に死んだと言われるペストの大流行のくり返しになってしまう。

 人道上の問題だけでなく、経済的にも政治的にも大打撃をこうむりかねない。それで正確に言えば一四二三年、世界で最初の恒久的な疫病対策に着手した。疫病発生地から来た船や一か月もの長い船旅の間に原因不明の病因で病人が出た船は、ヴェネチツィアに帰りついても都心部への着岸は許されない。

 リドの運河は通って湾内に入れても、ヴェネツィアを象徴する陽光を浴びてバラ色に輝く元首官邸も遠く眺めるだけ。船はただちに右に導かれ、湾内に数多くある島の一つに強制的に下船させられる。ラヅァレットだが、この名を聞いただけでだれでも、「隔離のための島」とわかるのだった。

 船着場以外は高い石塀で囲まれているが、広さはあり緑にも恵まれているので、居心地は悪くはなかったろう。だがここで「四十日間」を過ごすのだ。ようやく帰国できたというのに四十日間もの隔離。居心地の良さにも配慮していたのは、この種のプレッシャーも無視しなかったということだろう。

 隔離中も、ヴェネツィアの病院からの医師の監視はつづく。もちろん、隔離される前に病状があらわれた人は別の、同じくラヅァレットという名の島に移されて病因の解明が行われる。

 その結果、疫病患者と判明した人はその島で治療され、他の病気の患者はそれぞれ専門の病院に送られて治療がほどこされる。今ならば波打ちぎわでの対策というだろうが、人や物産の出入りを全面的に閉鎖することは許されないヴェネツィアのそれは、この面で先進国に恥じない完璧さだった。 』

 『 人道上の精神が高かった、からではない。都市国家として生まれたヴェネツィアは常に人口が少なく、塩田から採れる塩以外は天然資源に恵まれていないので、人間一人一人を「資源」と考えていたからにすぎない。

 近くにあるパドヴァにはイタリアでは二番目に古い大学があり、この大学の医学部とヴェネツィア内の病院は密接な協力体制にあったから、ヴェネツィアが長期にわたって医療水準では先進国であり続けのも当然だろう。

 ザヴィエルとその同志の若き修道士たちも、日本に布教に向かう前にヴェネチアの病院でインターンをしたのだった。しかし、これほどまでしてもヴェネツィアが、疫病に無縁でいられたわけではない。

 昔は色彩豊かだったのが、今では黒一色のゴンドラも、ある年のペスト流行で大量の死者を出したことを忘れないために、喪の色に変えたのが今に続いているだけである。
 また、聖ロッコの広い会堂全体は、天井も壁面もすべて、ペスト流行の恐ろしさを描いたティントレッドの傑作で埋めつくされている。

 それでもなお、海洋都市であり交易立国であったヴェネツィアは、国境を閉鎖するよりも疫病対策を確立するほうを選んだのであった。
 結果は? 「地中海の女王」と言われるようになった高度成長期から数えただけでも五百年に及ぶ経済力の維持、建築、絵画、音楽、演劇と、多方面にわたる文化のリーダーとなって結実する。

 これもすべて、同時代のイタリアの都市国家の中では唯一、人材は流出するより流入していた、ヴェネツィアならでは、だからであった。イノベーションと呼ぶか呼ばないかに拘らず、新しいことへの挑戦は、異分子との接触のないところには生まれないからである。

 コロナウイルスは、イタリア人の間でも心配の種になっている。観光客の中の無視できない数はもはや中国からの人だし、ミラノで開かれるファッションウィークに来るバイヤーの二割までもが中国人で占められているという。

 それで、心配になった彼らは、私にも問いかける。日本で開かれるオリンピックはやれるの、やらないの、と。 私は、予定どおりやったらよいと思っている。

 ただし、日本の医療関係者を総動員してでも、完璧な予防対策、また不幸にもかかった人には、これまた完璧な治療をほどこす体制を完備してのぞむのだ。

 1964年の東京オリンピックは、敗戦からの復活と以後の高度成長の始まりを、世界中に宣言したではないですか。 
 それが今では経済力は低下の一方、軍事力はあっても対外的には無に等しく、あらゆる面で半世紀前の面影はない。

 ならばいそのこと、今年のオリンピックは、日本では国を閉じなくても人的物的交流は可能だということを宣言するものにしてはどうか。
 文明国であることの条件は、資本力や軍事力だけではない。人命と衛生に対するセンシビリティ(鋭敏な意識)、にもあるのです。(2月19日記) (第191回)


ブックハンター「良い句をつくるための川柳文法」

2019-11-14 10:15:22 | Weblog
 190. 良い句をつくるための川柳文法 (江端哲男著 2017年2月)

 本書を読むための前振りとして、俳句と川柳の違いについて、おさらいしておきます。 俳句とは、五・七・五で、季語を含むことを原則とする短詩。
 川柳とは、十七文字の短詩で、季語、切れ字などの制約のない世相を風刺し、軽みをもって滑稽(こっけい)に描くことです。
 川柳は、なぜ”かわやなぎ”と書くのかですが、 江戸中期の柄井川柳(からいせんりゅう)が選んだ句「俳風柳多留」(はいふうやなぎたる)が江戸でベストセラーになったことによって、川柳と書いて川柳と読み、現在の川柳の道を開いたとあります。

 私の好きな俳句を二つ紹介いたします。 荒海や 佐渡に横たう 天の川 (芭蕉) 季語は、秋で、天の川です。
 菜の花や 月は東に 日は西に (蕪村) 季語は、春で、菜の花です。
 次に、川柳を一句紹介します。 本降りに なって出て行く 雨宿り (江戸川柳)
 このように川柳は、世相を描きます。一方俳句は、風景(宇宙)を描きます。
 では、読んでいきましょう。

 『 文法は難しい、という先入観がある。川柳に関わる以上欠かせなものなのに、何となく敬遠されがちなのが文法だ。基本さえ理解できれば、文法は本来、そんなに難しいものではない。文法の力、つまり文法力を身につけることで、作句技術のバリエーションが広がり、飛躍的に表現力がアップする。
 知らないなんてモッタイナイ! そんな思いから筆を執った。川柳と文法。一番対局に位置するもの。そう考えになっている方が大勢おられるに違いない。  川柳=自由闊達 VS 文法=杓子定規 という図式が、固定観念としてすでに摺り込まれているのであろう。だとしたら、それはマチガイ! 本来は、そうではない証明を、本書でしていく。国語教師約四十年のメンツ(笑)にかけても、興味深く分かりやすい講義を展開してゆくつもりである。 』

 『 煙草酒塩と医者から 削られる (今川乱魚) 筆者の師である今川乱魚氏四十代の作品。 「煙草酒塩を」ではない。 「―と」になっている。従って「煙草」「酒」「塩」は並列ではない。つまり、病状が進につれて、医者からの「煙草」「酒」「塩」の順に、指示がきつくなってきたという意味だ。
 一億の 動悸未だに 収まらぬ (植竹団扇) 東日本大震災の年。筆者が代表を務める東葛川柳会の課題「あれから一年」の秀句作品。 「収まらぬ」という下五が秀逸である。
 「収まらぬ」の「ぬ」は、打消の助動詞「ず」の連体形。終止形でない止め方(連体止め)に、「あれから一年」の余韻・余情が深くなる。 』

 『 「昔昔あるところに、おじいさんとおばあさんがいました。おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川へ洗濯に‥‥。 ここで「おじいさんとおばあさん ”が” いました。」 で二行目の「おじいさん ”は” 山へ芝刈りに、おばあさん ”は” 川に洗濯に‥‥」の違いです。
 なぜ、一行目は、「が」で、二行目は、「は」なのか。 一行目は「未知の格動詞」 ”が” で、二行目は「既知の副助詞」 ”は” だからです。 』

 私がこの本を是非紹介したいと思いましたのは、最後の「昔昔おじいさんとおばあさんがいました。おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川へ洗濯に‥‥。」の話です。
 このフレーズは、いくら国語劣等生の私でも、子供の頃から暗記していました。でも「が」、「は」の違いは、七十二歳のこの年になるまで知りませんでした。もう六十年ほど前に教えてほしかった。(笑)
 余談ですが俳句プレバトの夏井いつき先生も元国語教師だそうです。このような優れた国語教師に習いたいものです。英語の本も読めない(勉強しない)英語教師、実用的文法を知らない(勉強しない)国語教師が多すぎるように感じるのは、私のひがみでしょうか。
(第189回)



ブックハンター「京都の企業なぜ独創的で業績がいいのか」

2019-11-09 15:10:07 | Weblog
 189. 京都の企業はなぜ独創的で業績がいいのか (堀場厚著 2011年10月)
 
 この本を紹介し始めたのですが、文字数が多すぎると、入力出来なくなりましたので、削除して、私(ブログの作成者)の意見だけを書きます。
 京都は室町時代から優れた工芸品(清水焼、西陣織、京仏壇、京扇子、友禅染など)を制作してきました。一つの工芸品を制作するとき、この工芸品を工程(パーツ)に分解し、これを技術集団である家が担当し、問屋は、顧客と絵師(デザイナー)と技術者集団である(家)に、中間製品(工程)分配して、顧客から回収した資本を家に分配します。

 家である技術者集団は、親方と弟子で構成され、高度の技術を継承します。狭い京都の盆地の中に、高度な技術集団が密集しているために、効率よく高度の技術と優れた工芸品を生み出しました。すなわち、工程の分解と技術と資本(商売)を分離し、技術を尊重することによって、京都文化と商業都市京都を支えてきました。

 現在、京都に本社を置く企業は、任天堂、京セラ、島津製作所、ローム、村田製作所、オムロン、日本電産、ワコール、堀場製作所などです。現在これらの企業は、世界的企業として、製品の販売だけではなく、全世界に関連企業を展開しています。

 堀場製作所は、フランスやドイツに関連会社を持ち、その自主性を尊重しながら、堀場製作所としてのポリシーを守っています。役員も日本人だけではなく、人種も多様です。
 
 私が本書で一番うらやましく感じたのは、滋賀県高島市朽木(くつき)にある研修所です。日本の四季を感じながら、京都の一流料理人による料理、日本の一級の木造建築による日本文化を体験しながら、世界の堀場社員が目的のために、人種を超えて、国を超えて集う研修所です。

 最後に私が、本書を勧めるのは、株式投資の入門書として、本書を読むことです。ここで紹介されている京都の企業は、任天堂、京セラ、島津製作所、ローム、村田製作所、オムロン、日本電産、ワコール、堀場製作所などです。
 これらの株を10年前にこれらの株を保有していれば、ほぼ数倍以上になっています。今これらの株を買っても、十年後には、ほぼ数倍近くになる確率は高いと思います。なぜなら、これらの企業は基盤技術と世界シェアをもって、百年単位で生き抜く企業だからだと考えます。 (第188回)




ブックハンター「つながりのコミュニティー」

2019-07-08 09:43:24 | Weblog
 188. つながりのコミュニティー  (平塚伸治他著 2011年8月)
    人と地域が「生きる」かたち

 今回は、本書の第1章 活動の現場から 第1節 地域の暮らしをつなぎ支える 、より 1. ゆるやかな地域自給圏ネットワーク構想「食の杜」 について読んでしょうか。いきます。

 『 新しい地平を切り拓く画期的な試みは中心的なところからは起こらない。むしろ周縁から起こる。これからお話しようとする佐藤忠吉(九一歳、木次乳業有限会社創業者)が実践する新しい規範づくり―—「自給自足の暮らし」もこの典型となろう。

 今、なぜ佐藤さんの「自給自足の暮らし」という生き様に興味を持つのか。「自給自足の暮らし」が次の時代を切り拓く規範となると考えるのか。それは私たちの暮らし・生活自体があまりにも高度に専門化され、細分化されてグローバルネットワークによる市場経済社会に深く組み込まれてしまっているからだ。

 私たちが日々生きていくために必要な食料の日本の自給率が四〇パーセントを切ってしまっている。近くのコンビニで買う五〇〇円の幕の内弁当をつくるために必要な食材のフードマイレージフードはなんと、地球四周分に及ぶとの試算もあるようだ。

 私たちが生きていくうえで、最も基本となる食生活がきわめて危うい状況にある。こうした状況に直面している私たちは、食料を安定的に確保して安心して生きていくための新しい規範をつくることが急務となっている。

 自給自足の暮らしを実践されている佐藤忠吉さんの生き様にこそきっと手本があるにちがいない。この直観的な思いから、島根県雲南市木次町の現場、木次乳業に出向いた。

 佐藤さんは自給自足を目指して、様々な農作物を育てる一方、乳牛の飼育にたずさわり、安心して飲めるバスチャライズ牛乳(低温殺菌牛乳)の開発に力を注いでいる。開発にあたっては次の二点を基本的な方針(規範)として掲げている。

 木次乳業のものづくりの規範は、佐藤忠吉さんの持論「まず、作る人が健康でなければならない。その上で私たちが食べているのと同じ安全な責任のもてる食べ物を消費者に届けよう」(森まゆみ著「自主独立農民という仕事」)である。

 さらに、「商品としての農作物や牛乳を作るのではなく、まず自分が食べたり飲んだりするものを作る。欲しい人があって余っていれば分ける。欲はかかない」ことだともいう。

 もしこうした規範を破るようなことになれば、結果的に農産物や牛乳を「商品とするためつい消費者にこびて味を作り変え」してしまうことになりかねない。佐藤さんによれば、「素材の生産だけだったら我々は都市の奴隷にすぎない」ことになってしまう。

 これらの規範に従って、佐藤さんたちは、ブラウンスイス牛を飼って乳をとり、究極の牛乳であるパスチャライズ牛乳をつくる夢に挑んでいる。

 こうした夢の実現へ向けた挑戦は命がけといえる。 「まずは三年間、自分の体で生体実験をした。とった牛乳を原料に、六三℃三十分でバスチャリゼーション処理したものを孵卵器で四十八時間腐敗試験をやって、それを毎日飲んで味をみた。

 その結果、エサの問題、牛舎の衛生、飼い主の心の動きまで乳質に現れてくるほど、微妙な問題だとわかったわけです」。 生体実験をやる過程で得られた貴重なデータから、飼い主が夫婦喧嘩をしてもその影響が牛の乳質に現れるほど繊細なものであることがわかった。
 このような製品は画一的な大量生産にはなじまない。牛乳は少量生産に適している。 』

 『 牛を育てるにあたって、まず、木次の地理的条件を活かし、牧場の草の植生、山の傾斜や平地などの地形をうまく活用して放牧をおこなう。第二には、牛は感性豊かな動物であるため、飲み水、通気、温度、湿度をはじめとする牛舎の環境に十二分配慮して飼育することが求められる。

 第三は、木次の太陽と空気と雨で育った山野草を中心とした餌が消化が良く、牛にとって好ましい。農水省が薦める濃厚飼料よりも、自然にできた粗飼料のほうが木次の牛にとっては好都合であるようだ。

 こうした牛の飼育方法は佐藤忠吉さんが新しく生み出したものではない。「私がそのとき素直に考えたことですね。そのもとは出雲の農学の中の伝統的にあった。放牧することをわが地方では「山をする」といった、いわゆる「山地酪農」に倣ってやってみる。」

 そうすると「牛も感情豊かな動物ですから、こころの問題が大きいでしょう。狭いところから解放される。そうすると体の中のCLA(共役リノール酸)やビタミンAやEも多くなるようですね」。

 佐藤忠吉さんは木次という地域の環境を総動員して身土不二(しんどふに)を実現しなければならないとする。身土不二とは、人間の身体は住み暮らしている地域の水と土などの自然環境でつくられているため、人間が食べたり飲んだりする食物もその地域で栽培されたり、採取されたものを食べること、いわゆる、地産地消が望ましい、とする考え方である。
 このような環境順化を体現した「雲南の風土にふさわしい」牛乳づくりをして初めて、パスチャライズ牛乳は誕生したのである。 』

 『 このような佐藤さんのユニークな生活および仕事作法(静かで簡素な自給自足の暮らし)はどのように育まれ、確立してきたのだろうか。

 第一点目は、戦争体験である。
 佐藤さんは、「体で覚えたことしか実現しない」とよく言う。日々の暮らしのなかで実際に経験したことこそが知恵となり、新しい規範づくりの源泉となっていく。
 それが、過酷な体験であればあるほど、その人の暮らしを左右するバックボーンに深く刻まれ、新しい規範形成に決定的な影響を与えることになるという。

 佐藤さんの戦争体験がまさにそうである。「食べ物への執着はないが、食べ物を作るという仕事を大事に思う気持ちは、この時の怨念のようなもんがありますね」 活き活きとした体を養う食べ物をつくり、自給自足の暮らしをすることの重要性を戦争体験で会得したことを物語っている。

 第二点目は、森羅万象を皮膚で感じ取ることです。
 佐藤さんは第二次世界大戦敗戦後、中国から復員してから体調すぐれず、四年間も闘病生活を送っている。佐藤さんはこの時期、森羅万象が人間に話しかけてくるあらゆる声を皮膚で聞きとっていた。

 例えばこうである。 「牛なんかの場合でも、牧草に化学肥料を施肥するよう県の指導もあって、それに抵抗を感じていたんですが、鶏糞ならまあまあ良いだろうと思ってパアッと散布したところに青々とした草が育つ。

 そうすると、そういうところの草は牛は食べんですね。いわゆる我々が見た目で緑したたるうまそうな草なんて食べんですわ。黄ばんだ、まずそうな草ばっかり食べていくんですね。それに、北斜面の草は一番後まわしにして南斜面の草から食べる」。

 佐藤さんはさらに一歩踏み込んで、牛が生きる環境としての空気・温度・湿度の重要性を皮膚で感じとり、牛の放牧、牛舎の設えをし、世話をしている。 「食べ物が本来口からだけだったらいいけれども、牛なんか飼ってみますと、通風が悪かったらもう絶対に上作(病気などを出さずに豊作であること)せんですね。

 いわゆる空気とか温度というような皮膚から食べる、その影響で鶏の産卵や牛の発情期が正常になったり、そういうものを案外無視しておるんじゃないかと思いますね。それは私の学問のない百姓根性で観察したものなのでそうなのだろう」
 自然の発する様々な声に耳を傾け、皮膚で聞き分けながら、自然と共生して生きることが最善の生活、仕事作法であることに気付いたのだ。

 第三点目は、百姓であることです。
 佐藤忠吉さんの名刺の肩書は百姓である。 「私はいまでも百姓ですよ。乳の加工も、野菜や農産物の加工も、百姓仕事のうちだとの考えは当初からありましたし、それが独立農民条件であるはず。家の農業規模は変わっとらんし、いまだに自分で稲の苗も植えれば、茶も摘みますよ。そばもまく」

 これからも分かるように、百姓という仕事は自給自足の暮らしをするために、まさに自然と共に生きるための知恵を総動員して暮らすことを意味している。そのために、自然に対して常に創意工夫と革新性をもって働きかけていかなければならない。

 その際、化学肥料や農薬などを使用する近代化農法は取らない。むしろ、自然との対話のなかで、内発的な営みで培われてきた伝統的な農業経営(小規模多品種少量生産農業で有畜複合経営)、いわゆる百姓こそが佐藤さんの規範になっている。 』

 『 佐藤さんは木次乳業の社員への実践教育の手始めとして、一九八三年に社員による水田耕作や味噌づくりを開始した。この試みは、たんに、自分たちの生活する地域で自給自足の暮らしをするということを実践するだけではない。
 安全で安心できる食物をつくるということはどういうことか、何をしなければならないのか、何をしてはいけないのかを学ぶ場なのである。

 また、食物をつくる人は健康体でなければならないという前提のもと、社員全員が健康な体づくりを実現していくプロセスでもあった。社員による水田耕作や味噌づくりという実践教育を、さらにもう一歩進めたものが、まかない社員食堂 「手がわり村」(一九八九年)の開設である。

 「手がわり村」の名前の由来は、「奥出雲の古い風習で、だれか手のあいた人が無償で他者の労働を助けること」で、ゆるやかな共同で仕事をしていくための相互扶助の仕組みに因んでいる。 「手がわり村」で木次乳業という小規模な閉じた世界における自給自足の仕組みをつくりあげた佐藤さんは、それをさらに発展させて理想郷 「食の杜」づくりへと進んでいく。 』

 『 「食の杜」(木次町寺領地区宇山、面積約六・七ヘクタール)は、地域自給圏ネット―ワーク構想の一環で、小規模な農工商の事業体が複数集まって構成されている。 「食の杜」はそれらの活動の総称である。

 「食の杜」について、佐藤さんはワインづくりを例にとりながら、こう説明する。品質の良いワインをつくるには信用力・資金力・販売力・技術力・品質の良い葡萄(素材)・それを醸造する施設がバランスよく揃わないといけない。

 けれども、これらの要件をすべて一人で揃えることはなかなか難しい。そこで、ワインづくりというロマンに共鳴する人々に呼びかけ、その呼びかけに応じて手を上げてくれた六人から出資を募り、事業を興すことになった。

 そこで、ワインづくりというロマンに共鳴する人々に呼びかけ、その呼びかけに応じて手を上げた六人から出資を募り、事業を興すことになった。こうして「日本でいちばん小さ」くて画期的な奥出雲ワイン製造のワイナリーである有限会社奥出雲葡萄園が生まれた。

 このワイナリーがどうして画期的なのか。それは事業出資者の目的が利益の追求という経済的なものではなくて、人生の夢の実現を目指していることにある。出資者が自分の得意分野の経営資源を持ち寄り、調達することでワイナリー事業を営む。

 個の確立をはかりながら自立した個人のゆるやかな共同によるきわめて小規模な地域自給圏ネットワークによるワイナリー経営であるところが画期的なのである。「食の杜」についてもう少し具体的に見てみよう。

 「食の杜」を構成する事業体のシンボルとなってゐる室山農園有限会社は、「百姓、研究者、医者、芸術家、職農希望者、福祉実践者が集まり、それぞれ提供可能なものを持ちよって農場に関わり支える」という目的で作られている。

 これに加えて、 「自分で育てた野菜を料理し、囲炉裏を囲んでワイワイと 「健康農業」 の夢を語り合う」 素敵な仲間が集うゲストハウス——土間や囲炉裏が郷愁を誘う 「茅葺きの家」 の二軒持っている。

 これ以外にも、豆腐工房しろうさぎ、大石葡萄園、杜のパン屋などが 「食の杜」 に参加している。この「食の杜」は、単なる事業体の集合ではない。この共同体に参画する事業者は、すべて安全で安心できる食物づくりを目指すという価値観を共有している。 そして、質の高い食の素材を生産し、加工し、流通させるという機能を有している。

 「食の素材生産をする農業(例えば、有機栽培による品質の高い葡萄の栽培)」 と 「この素材を活用して加工品生産をする工業(例えば、ワインの醸造)」 と 「それらの流通を図る商業(例えば、ワインの販売)」 という三つの機能が一体となることで、個の確立した、いわば自主独立農民によるゆるやかな共同体である地域自給圏ネットワークが十全に機能しているのである。

 「食の杜」は地域固有の環境条件を勘案しながら、それに合わせた(いわば身土不二という環境順化による)小規模多品種有畜農業複合経営(いわゆる昔ながらの百姓がしていた自給自足の暮らし)をするゆるやかな共同体であり、地域自給圏であり、理想郷なのである。

 私たちが成熟社会を輝いて生きるための最も基本的な条件は、食の地域自給に基づいたゆるやかな共同、つまり、「食の杜」のような地域自給圏を確立しておくことにほかならない。

 それはすなわち、人として生きていくための最低限必要な再生産可能な循環型農業を営むことである。これは、人が輝いて生きていく地域を再生産していくことを意味していよう。したがって、佐藤忠吉さんが提唱する「食の杜」は、「理想郷」にとどまらず、成熟社会を生き抜くうえでの新しい社会的な「規範」になるのではないだろうか。 (第187回)




 



 




ブックハンター「食と健康の一億年史」

2018-09-16 15:00:01 | Weblog

 172. 食と健康の一億年史  (スティーブン・レ著 2017年10月)

    100Million Years of Food  by Stephen Le  Copyright©2016

 この本の全体像をつかむために、「おわりに」(食べ方と生き方のルール)から、読んでいきましょう。

 『 本書「食と健康の一億年史」のおもな目的は、人の健康の科学的研究に進化生物学の視点を付与し、さらに過去の人々や現代の人々がどのように食べ、暮らしているかについての調査を加えて、我々人類は何を食べ、どう生きるべきかをのべることにある。

 執筆にあたっては、さまざまなライフスタイルや食べ物についての大量の資料を、科学的なものも裏付けの乏しいものも含めてじっくり読み込んだ。

 多くの人々は、遺伝子や住んでいる場所が決定する異なる特性をもっているが、それでもほとんどすべての人にあてはまる、食と健康に関する次のようないくつかの普遍的な真理がある。

 1.よく歩く

 肥満や糖尿病など食物に関連する疾病を防ぐもっとも効果的な方法として一般に推奨されているのは、毎日の運動と自分で食事を制限することだが、この忠告を裏付ける科学的研究も歴史的事実も存在しない。

 激しい運動は空腹感を増し、怪我につながることもある。それに自分でカロリー制限するには超人的な克己力が必要で、おそらく自然なことではない。

 むしろ一番大切なことは、最後の章で紹介したアーミッシュがしているように、祖先のように歩くことを心がけ、毎日2時間、それが無理なら可能な範囲で歩き、座るのは最長でも一日三時間にすることだ。

 歩くのにお金がかからず、特別な器具も不要で、夏の日差しのある時間帯なら日光/ビタミンDを浴びる効果がある。やる気を持続させるために、一緒に歩く仲間を見つけたり万歩計を買うのもいい。

 スマートフォンに無料アプリダウンロードして、一日に何歩歩いたかを記録することもできる。わたしの場合は、二時間歩くとおおよそ1万四千歩となり、現代人に推奨されている一万歩をやや上回る。

 また、毎日二時間歩くのが習慣になってくると、気分も上がってくるのがわかるだろう。ここで一言。一日二時間の目標ゆっくり達成すればいい。最初の数ヵ月はあせらず、必要な持久力がついてくるまでは、短い距離を歩くのがいいだろう。

 水のボトルや買い物袋などのちょっとした重りを両手に持つことによって、上半身にはほどよく適度な負荷をかけることもできる。

 時間がなくて一日2時間も歩けないという人は、できる範囲で徒歩や自転車での移動、適度な運動を行ない、テレビの前でじっとしている時間を減らすことが、賢いやり方だ。最新のデスク・トレッドミルを使えば、オフイスや図書館で歩きながら本を読んだり、タイプを打ったりできる。

 2. アルコールは適量を

 医療の専門家の間では、一般に飲酒のメリットを否定する意見が多い。大量の飲酒は肝臓を損傷し、メタボリックシンドロームのリスクを高め、非業の死を遂げる確率を高める可能性があるからだ。

 しかし、適量であれば—ー男性は一日コップ二杯、女性はコップ一杯ーーアルコールは野菜、果物、魚を含む他のどの食物よりも心臓疾患を緩和し全般的な致死率を下げる効果は高い。

 とは言え、飲酒効果がもたらされるのはおもに先進国で暮らす四十歳以上の人々で、というのも発展途上国では心臓疾患よりも感染症が主な死因になりがちで、また四十歳以下の人々にとって心臓疾患は問題ではなく、アルコールはむしろ、事故や殺人、自殺などの若者にありがちなリスクを高める可能性がある。

 3. 若いときは肉乳製品は控えめに

 肉についての現代の栄養学の主流のアドバイスは、控えめに、だ。一方、低炭水化物ダイエットの提唱者たちは、肉を控えるという考え方に異論を唱え、でんぷん食品は人を太らせ心臓の健康を脅かす者であり、したがってよりよい体重管理と全身的な健康のためには肉をたっぷり食べるべきだと主張する。

 どちらの考え方もある意味真実だ。若い人に関しては、肉や乳製品はインスリン様成長因子ー1などのホルモンの働きで早期の全身的な成長を促進し、ある種のガンのリスクファクターとなるため、摂取を控えめにすべきだ。

 一方、六十五歳以上にとっては、肉を多く食べることはおそらくよいことだ。肉ががんの形成を促すには長い時間がかかり、先進国の高齢者にとっての本当のリスクファクターは体調不良や消耗を原因とするもので、肉を食べることによってそれを緩和できる可能性があるからだ。

 若者には、よく食べ、よく運動させ、年をとったらどちらも控えめにするのがいい、とよく言われるが、まったく間違いだ。むしろ若者には肉や乳製品は控えめにするよう教え、六十五歳以上の人たちは肉を存分に楽しめばいいと伝えるべきだ。

 4. 伝統食(祖先が食べていたものを)食べる

 マイケル・ポーラン、ダフネ・ミラー博士、サリー・ファロン・モレルなどのフードライターが推奨しているのはどれも一種の伝統食だが、主要な栄養学者のほとんどが、脂肪やコレステロール、および塩分を適度の含むことの多い伝統食には懐疑的だ。

 しかし何を食べ、何を避けるべきかとくよくよ考えるよりも、一番確実な伝統食を食べさせることだ。伝統食は何世紀もかけて形作られたもので、健康によい食物の組み合わせや美味しく感じられる食材の取り合わせが考慮されていて無理なく続けられる。

 わたしたちの先祖は肉の蓄えが底をつく事態に直面して、栄養バランスのいい、美味しくて健康的な料理法の数々を考え出した。それに、何百年、何千年のその地域特性の食事を続けることを通して、そこで暮らす人々の身体は徐々にその食事に適応してきた。

 たとえばヨーロッパや東アジアの場合はでんぷんを分解する酵素を、日本では海藻を分解する酵素を、そして北欧、アフリカや中東、遊牧民族やインド北部では乳を分解する酵素を獲得してきた。

 乳製品にあまり縁のない地域の人々にとっては、高濃度のカルシウムは前立線がんのリスクファクターとなりうる。あなたの祖先がでんぷんや乳製品を大量に摂っていなかったなら、あなたもとるべきではない。祖先が食べていたものを食べる。それだけはぜひ覚えておいてほしい。

 5. 持続可能なやり方で食べる

 残念なことに、安い魚や肉を食べることによって、わたしたちは環境汚染や植皮の荒廃などの環境的代償を結果的に将来の世代に支払わせている。

 この困った状況を回避する最善の方法は、自分たちが暮らす環境に適応した植物や動物をもっと食べるようにし、自国の環境に適さない外国産の植物や動物への依存を減らすことだ。

 世界中の多くの地域に、かっては食べられていたが後の世代が食べるのを厭(いと)うようになった植物や動物が豊富に残っている。

 北米では、ドングリやシカ、クマ、ヘラジカ、ビーバー、魚、水鳥、そして昆虫が価値ある栄養源となってきたが、ヨーロッパから移住してきた人々がそれらの食品を嫌ったりその存在を忘れたりした。

 オーストラリアでも、移民の子孫たちがカンガルーに同様のジレンマを感じている。また昆虫はほとんどの先進国で、またいくつかの発展途上の地域でも嫌悪されている。残念なことだ。

 野生の植物や動物は一般に栄養的によりよい選択肢であり——たとえば、自然の食物はオメガ6脂肪酸に比べてオメガ3脂肪酸を多く含んでいるーー環境保護的にもより持続可能な食物だから。

 さらに、野生の動物は、農場で飼育されているライバルに比べて間違いなくずっと幸福で、自然体の生き物だ。

 6. 自分の肌のタイプが必要とするだけの日光を浴びる

 人類の先祖は長年にわたって日光を浴びてきた。そのことを何よりも明らかに示す証拠は、人の身体が日光を肌に浴びることによって、適量のビタミンDを合成するようにできていることだ。もちろん日を浴びることは皮膚がんを誘発するリスクもある。

 だから週末だけ外で日焼けしたり、日焼けブースに行ったりするのではなく、一年を通して、あるいは一週間を通して、偏りなく日を浴びるようにするのが最善の方法で、そうすると日焼けしやすい肌タイプの人は、保護効果のある自然な日焼けをすることができる。

 また肌の色が白い人は強い日差しを浴びることに十分注意すべきである(北欧の人々が良い例だ)、一方黒い肌の人は必要なだけ日光を浴びるべきだ。

 日差しを浴びることには、乳がんをはじめとするさまざまな種類のがんのリスクを引き下げる効果があるとおもわれる。ビタミンDの錠剤を飲んだりビタミンDを多く含む食物を食べたりしても、大きな効果は望めない。

 人間の身体がどのくらいの量のビタミンDを必要とするのか、さらにはビタミンDが日光浴がもたらしす主な利益であるのかどうかさえも、科学的に明らかになっていないからだ。さらに、ビタミンDを摂取しすぎることによって、前立線がんや結腸がんなどのリスクを高める可能性もある。

 7. 安全な菌や寄生虫に感染する

 花粉症や食物アレルギー、その他のよくある免疫系疾患に罹っている人は、あまり日差しを浴びてないことと、およそ百年前に始まった大掛かりな衛生キャンペーンが原因だと考えていい。

 人類の祖先は細菌やウィルス、そしてたくさんの小さな無脊椎動物に常にさらされながら進化してきたため、ヒトの免疫システムは寄生生物に感染することによって適切な反応を調整できるようになった。

 美しい歯並びには硬い食べ物が、足には地面を連続的に踏み続けることが、目の発達には豊富な自然光が必要なのと同じだ。しかし寄生生物を甘くみてはいけない。

 多くの寄生生物がわたしたちの命を終わらせることができ、喜んでそうしようとするからだ。例えば、マラリアは年間六十六万人の人々の命を奪っていて、これは近年のエボラ出血熱の大流行による死者数をはるかに上回る。

 わたしたちがやるべきことは、寄生生物にさらされる機会を十分もって免疫システムの適正な発達を促し、一方で予防接種を受けてない大人や子どもが原因の疾病の大流行を避けることだ。

 8. 料理は低温で

 牛の肋肉が焼かれて、厚切りのサケがローストされ、一切れのベーコンが火であぶられ、豆腐が、ソテーされるとき、メイラード反応と呼ばれる化学過程が生じて料理には美味しい焦げ目ができる。

 けれども、脂肪分の多い、あるいは高タンパク質の食物を高温で調理するとAGEs(終末糖化産物)が生成される。AGEsは体内でも自然に生成されているが、体内を循環するAGEsの濃度は加工食品を食べることによって上昇する可能性がある。

 AGEsはいたずら者のティーンエイジャーのように、細胞受容体と架橋結合によって結びつき、体のタンパク質の形態や機能を変化させ、酸化損傷や炎症を引き起こして大混乱を巻き起こすことが多い。

 AGEsの考えられる健康への有害な影響としては、動脈硬化、貧血症、アルツハイマー病、白内障、肝硬変、骨粗鬆症、筋肉硬直、握力低下、歩くスピードの低下、肝臓病、1型、2型糖尿病、そして期待余命の短さなどがある。

 AGEsの濃度は調理法によって大きく変わる。生の食物は、AGEsがもっとも少ない。昔ながらの低温調理法(茹でる、蒸す、炊く)はAGEs濃度をわずかに上昇させる。

 高温による水を使わない調理法(直火焼き、オーブンで焼く、揚げる、グリルで焼く)と食品加工によって、AGEsの生成量は最大限に高まる。

 有害なAGEsはハンバーガーやソフトドリンク、クラッカー、クッキー、プレッツェル、ドーナツ、パイ、パルメザンチーズ、パンケーキ、ワッフル、その他の加工食品にも非常に多く含まれる。

 9. 忘れないで:流行のダイエットは効果がない

 食は、わたしたちの生活様式の中で簡単に変えられる数少ないものの一つであり、食が健康の基礎を作ると一般に考えられている——つまり「あなたは食べたものでできている」と。

 だから、肥満や糖尿病、ガンなどの健康問題への応急処置として、多種多様な奇跡のダイエット法や「スーパーフード」にみなが惹きつけられるのも無理はない。

 しかし、肉をたくさん食べても、乳製品を増やしても、野菜や果物中心にしても、生で食べることを心がけても、脂肪を減らしても、その他のどんな食事法に従っても、慢性病から解放された例はほとんどない。

 応急的な食事法が存在しない理由は二つある。① 人の身体はさまざまな種類の食べもを食べることによって成長するようにできてる。時の試練を経た伝統食がまさにそれだ。

 ② 慢性病おもな原因は身体的な生活様式の崩壊で、とくに運動不足が問題だ。だから運動不足を補おうとして食事法を変えても望む結果が得られることはほとんどない。

 最後に一言。適切な食べ物を食べ、よく歩き、あとのことは自分の身体にまかせておけばいい。 』(「おわりに」より

 目次を見ていきます。

 (1)昆虫を食べないなんて (2)ドリアンが落ちる季節(ドングリやドリアンを食べてきた) (3)肉は性欲を高める (4)魚は健康にいいけれど (5)でんぷんの帝国 (6)万能薬—―水・アルコール/乳製品 (7)盗人の真実—―感染症・寄生虫 (8)二度沖縄戦(加工食品などの文化のせめぎ合い) (9)食物の未来

 以上です。(第171回)