因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

『みんな我が子』

2011-12-08 | 舞台

*アーサー・ミラー作 伊藤美代子翻訳 ダニエル・カトナー演出 公式サイトはこちら 新国立劇場小劇場 18日まで 20~21日大阪・サンケイホールブリーゼ
 アーサー・ミラーの作品でもっとも親しみがあるのは、劇団昴による『セールスマンの死』である。演出はジョン・ディロンで、主人公のウィリー・ローマンを演じる久米明はじめ、劇団の若手から中堅、ベテランまでが自分の持ち場を誠実に作った結果、強固なアンサンブルで説得力のある舞台となった。数十年前のアメリカの物語であることを忘れ、いま生きているわたしたちの身近な父や母、家族の物語だと受けとめられたのである。

 今回の『みんな我が子』は日本での上演が少なく、演出家はハロルド・プリンスの一番弟子で33歳の若さ、本作が日本での初仕事だという。
 一家のあるじジョン・ケラーに長塚京三、妻ケイトに麻実れい、ほかに朝海ひかる、田島優成、柄本佑と話題を集める配役となった。
 しかし観劇の手ごたえは残念ながらあいまいで、客席で身を持て余す印象になった。

 理由はいろいろあるだろう。本作の舞台は第二次世界大戦後のアメリカのある町、ケラー家の庭である。戦争の傷跡が、家族の心に生々しく残る。ふたりの息子のうち、ひとりが戦争で行方不明のまま3年が過ぎようとしている家族・・・という設定に対して、新国立劇場小劇場の空間が適しているのだろうか。町はずれにある二階建ての大きな家だが、高い天井部分が寒々しく、間口も少々広いのか、登場人物(とくにアン)が舞台を走って横切る様子が妙にどたどたと見え、自分の席が最後列のせいもあるだろうが、台詞のテンポが速く、聞き取れないところも少なくなかった。

 戦争に関する話が随所にでてくる物語であるが、それらが俳優のからだ、心の真底から強い台詞として伝わってこなかったことが、舞台に集中できなかった大きな原因のひとつではないだろうか。ケラー家の長男クリスが「自分は戦場でたくさんの部下を死なせた」という台詞が、クリスという人間の深い痛みを伴って聞こえてこないのだ。
 俳優すべてに人間のあらゆる経験があるわけではもちろんなくて、それは戯曲を読み込み、演出家や共演者ともディスカッションをし、さまざまな資料を読んだり実体験者の話を聞いたりして、何とかそれらを人物を演じるみずからの肉体にしみこませ、人物の肉声、血肉として表現するのが俳優の仕事である。
 その努力と同じくらいしているかというとはなはだ心もとないが、みる方としても何とか想像力を働かせ、物語の書かれた背景や劇作家の心情、執筆の経緯なども考えながら、台詞を聴きとり、俳優の表情に目を凝らしてその人の心を感じ取ろうとする。

 俳優と観客、両方の熱意がともに高まれば、いつ書かれたどこの物語であろうと、それは「いま、ここで起こっている、わたしたちの物語」として成立する可能性がありうるのだ。

 題名の「みんな我が子」。これは物語終盤のジョーの台詞にでてくることばだ。
 この日は上演後にトークショーがあり、ジョー役の長塚京三が「この台詞の出方が尋常ではない。反語、疑問形になっている」と実に的確な捉え方をされていた。
 「みんな我が子」何と複雑で皮肉で悲しみに満ちたことばだろうか。それをもっと強く、確かに感じ取りたいのである。
 これから何度も戯曲を読み返そう。そして自分がどんな『みんな我が子』を求めているのかを考えるのだ。

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