因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

モズ企画 韓国新人劇作家シリーズ第一弾

2012-10-31 | 舞台

 公式サイトはこちら 新宿タイニイアリス 11月4日まで アリスフェスティバル2012参加
 韓国の短編戯曲3作品を一挙に上演する試みだ。当日リーフレットによれば、韓国ではいくつかの新聞社が新人作家を対象に文学作品を募集し、毎年お正月に「新春文芸」と冠して小説、詩、戯曲、批評の各部門の優秀作品を発表するのだそうだ。今夜初日を迎えた3つの戯曲は、その戯曲部門でここ数年の優秀作に選ばれたものであり、いずれも「家族」がテーマになっている。

①ジョン・ソジョン作 金世一翻訳・演出『秋雨』
 童謡作家だった男。妻と娘と幸せに暮らしていたが一家は離散し、再会したとき、妻と娘は見知らぬ男にからだを売る身になっていた。
②オ・セヒョク作 金世一翻訳 荒川貴代演出『パパのパパごっこ』
 公園で出会ったふたりの男。ひとりは解雇されたばかり、もうひとりは1年前から同じ身の上だ。大切な家族を心配させたくない。新米失業者はベテラン失業者に平静を装う演技指導を乞う。普通の男、普通のパパでいるためのおかしいけれども、ちょっと悲しいレッスンの様子。
③イ・ナニョン作 李知映翻訳 鈴木アツト(劇団印象/1,2,3,4 5,6,7,8,9,10,11,12,13)演出『一級品人間』
 一流の人間になるために、親がからだの一部を売り、その金で息子の脳をより優れたものと交換する。しかし息子は両親の思いどおりにはならず・・・。
 

 3作品とも作り手の熱意が満席の会場に伝わってくるものであった。しかし作り手の思惑が何であるのか、客席の筆者にはその方向性を受けとめかねるところがある。

 筆者は韓国語をまったく解さず、本公演の上演台本も読んでいない。したがって実際の戯曲がどのようなものであり、韓国語から日本語に翻訳される段階で、また演出によって戯曲がどのように立体化していったのか、どこまでが戯曲でどこからが演出なのかなどということはわからない。しかし俳優の発する台詞やからだの動き、劇の流れが受けとる者にとってしっくりするかしないかということは、本能的に感じるのである。

 何だかぎくしゃくした感じがする、耳や心にすっと入ってこない。
 この違和感が①『秋雨』で強くあったのは、冒頭「今日は給料日だから何でも奢る」という彼女に対して彼がリクエストしたのが、オムレツ、秋刀魚、松茸であった。ここで早くもつまづいたのである。「手料理を作るから、食べたいものを言って」という問いかけの答であるならまだわかるが、給料日だから奢るという状況に対してなら、もう少し違う答になるのではないか。戯曲にはこのとおりの台詞があり、それが韓国ではリアリティのあるものなのだろうか。またふたりの座る公園のベンチと、そこから見えるラブホテルの距離感、5人が死んだという猟奇的事件が起こった場所という空間の作り方と台詞の関係(ああ、これじゃわかりにくいですよね・・・)にも同様の印象をもった。
 物語の流れもそうとうに強引なところがあって、公演チラシには「貧窮して家族は離散」とあるものの、貧窮にいたる場面はなかったと記憶しており、急に離散して一気に妻、娘ともに売春婦になるというのは説得力に欠ける。
 舞台美術や俳優の台詞術、動きなどは抽象度の高いものであった。家族離散の悲惨なできごとを日常生活風とは違うタッチで描くことによって独自の劇世界の構築を試みたのかと思われるが、それが客席にじゅうぶん伝わっていたであろうか。

 ②はふたりの女優が男役とそれぞれの妻役を演じ分ける楽しいものだ。永井愛作・演出の『カズオ』を想起させる。パパもたいへんだが、ママもたいへんなのだ。しかしそれは互いへの思いやりや愛情があってこそ。ドタバタしながらも演じ分けはスムーズにすすむ。無理が生じたり、収集がつかなくなるところをみせる方法もアリだが。

 ③は人が人のからだや心を操作する横暴の末路が描かれる。ダニエル・キイスの『アルジャーノンに花束を』に似たところもあるが、もっと猟奇的で陰惨である。戯曲の構成や完成度、テーマ性は3作品のなかでもっとも明確なものではないだろうか。
 しかしこれはどの舞台にも感じたことなのだが、俳優の演技のテンションが非常に高いのだ。そこに人生の悲哀やコミカルな雰囲気、狂気をみせたかったのかとも思ったが、受けとるがわとしては困惑した。その演技の強度が、この作品のこの役に、この状況のその台詞にどうしても必要なものなのか。
 映像中心の活動であったり、観世榮夫に師事したキャリアがあったり、鈴木忠志、宮城聰演出作品への出演があったり、ベースの異なる俳優たちがひとつの作品を作り上げる過程において、作品ぜんたいのバランスを考えた上での演技の強度、方向性が必要ではないか。

 ①が50分、そこで10分の休憩がはいって②が50分、もう一度5分の休憩があって最後の③が48分だ。初日の今夜は開演が遅れたこともあって、すべての上演が終わったときは22時30分ころであったか。2時間を越える作品を鑑賞するのに、椅子の大きさや空調など、タイニイアリスの観劇環境は正直なところつらい。休憩が2度あるとはいえトイレの数は少なく、とくに2度めの休憩は5分しかないので、ほんのひといき入れることしかできない。このあたりはもう少し何とかならないか。3作品の一挙上演が本公演の目玉ではあるが、50分というのはかなり長尺であり、すべて観劇するには2回足を運ばなければならないにしても、2作品ずつの組み合わせのほうが、観客の体力や集中力からすれば、もう少し楽に観劇できる。

 疑問や不満の多い記事になったが、自分は今夜の公演が実現し、3つの劇世界に出会えたことが嬉しい。領土問題で険悪な情勢になっている日韓が演劇によって交流していることは大きな励ましであり、希望である。これからもねばり強く続くことを願っている。

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