和ちゃんのgoodな日々

私の毎日の暮らし

再び兄の思い出を

2014-06-28 13:11:49 | Weblog
兄の様態に一喜一憂し、ゆっくりとブログに向うことなく過ごした1か月、残念な結末になり、覚悟は出来ていたがまだまだ心が揺らぐ毎日だ。姉が常日ごろ逝くのは順番にね・・・と言っていたがこればかりは神様だけしか分からない。姉,兄2人、私と4人兄弟・姉妹、それぞれ伴侶を伴い、東北の穴場に連れて行ってもらおうという計画が皆の心にあったが、まだまだ大丈夫と思っていたが遅すぎてしまったのが悔しい。

兄は私達の中では優等生、スポーツマンであった。修士課程を終え、当時理系の学生の就職先は引く手あまただったが、あえて地方都市の八戸に奉職(教授の推薦もあったが)したのは企業戦士でなく自分に合った生き方を最優先にしたのだと思う。勤務しながら博士号をとる勉強家であり、好きな文学、美術、音楽に囲まれた生活とガーデニングとテニスを楽しみ、退職後は畑作りに(昨年ジャガイモがたくさん取れたと一日送ってくれた)精を出していた。書斎の書棚は文学全集、美術全集がずらりと並び、レコード,CDもびっしり並んでいた。お姉さんが弾くグランドピアノにも耳を傾けたり優雅に暮らしていたのだと。これから晴耕雨読を実践し悠々自適な生活が始まる矢先だったのにと思うと本当に残念だ。まだまだこれから・・・逝くのは10年早かったね。

お棺にルネサンス、ダビンチに関する本を数冊入れたが、イタリアへ行ったのも何か急がせるものがあったのか、そして最後の思い出を遺して行ったのかと。

あっというまに・・・

2014-06-25 15:42:26 | Weblog
川越の兄から4月22日(火)に八戸に住む兄(私のすぐ上の兄)の体調が悪いと知らせがあってから、あっという間の2か月であった。こんなにも短い時間で永遠の別れになるとは思ってもみなかった。

昨年イギリスとパリの旅を楽しみ今年はイタリアへの旅の予定という年賀状をもらってから、3月中旬に旅立ち2週間ほど精力的に旅を楽しんで4月8日に帰国したと聞いていた。旅行前に胃の検査を予約してあったので翌々日に検査したところ、もっと大きな病院で再検査をと言われ、そこで食道がんという診断がされた。腫瘍が出来ている箇所が悪く、手術は出来ないと・・・。

最終結果が出て連休明け5月7日(水)に、今後の治療のため入院、川越の姉と兄が慌てて9日(木)病院へ。その時は一時外出を貰い本人が車を運転し自宅に戻り、今までの検査病状を話合い肝臓や大腸に転移していないので抗がん剤、放射線の治療を受け入れる結論に至った。(その時は運転するなど元気であったと・・・)

翌週12日(月)から1週間ほど抗がん剤、放射線治療をしたところ余りにも苦しく兄は治療はもうしないと意思表示をして、「早く楽になりたい」と言ったそうだ。2年前癌で3度の手術をして、治療したにもかかわらず33歳の若さで逝った長女こともあり、抗がん剤、放射線の治療の副作用(10項目ぐらい書かれていた)を見て、生きる力を失ったかもしれない・・・。

26日(月)に姉が見舞いに行き、大分弱ってしまったと。私は6月5日(木)病院へ、穏やかでスマートだった兄の姿はなく、何も食べられず痩せてしまい、すっかり変わってしまっていた。言葉が出にくくて辛そうだったが、いろいろ思い出話に反応があり嬉しかった。

八戸市は緩和ケア―の体制が整っているそうで、医師と看護婦、ケアーマネージャーとの話し合いがありチームが組まれ、9日(月)自宅へ。丁寧に手入れをした芝一面の庭、今咲き誇る薔薇が眺められるようにと願いを込めた帰宅ではあったが・・・。13日(金)に危篤の連絡を受け、姉は当日、兄と私は翌日駆けつけたが、血圧が上がって落ち着いていたのでほっとした。痛みを抑え、穏やかな終末を待つという治療しかないのが残念ばかり。自宅で家族に見守られ、私もゆっくりとそばにいられたし、兄が残ってくれるので帰宅した。毎晩兄が様子を知らせてくれるので安心していたが、22日(日)に亡くなった知らせが届いた。本人の意思で家族、身内だけのお別れ会をして、兄の68年の人生を振り返り、皆がそれぞれの思いを語った。

納骨は8月に川越のお寺で行う。