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おもしろ山口学(土井)

2008年01月11日 17時26分09秒 | Weblog
以前にも記したことがあるので、お馴染みの方もあると思いますが、山口県庁の発行する「山口きらめーる」の本日分に「やまぐちと連歌」と題し、その「第一回・大内文化と連歌」という興味深い記述がありましたので、コピーしてそのまま紹介します。

西国一の守護大名とうたわれた大内(おおうち)氏がひらいた山口には、京都の人々との交渉を通して中央の文化が摂取されるとともに、朝鮮や中国・明との交易によって大陸文化が招来し、いわゆる「大内文化」が育まれました。
 源氏物語、和歌や連歌といった王朝文芸に深く通じていた第29代・政弘(まさひろ)(1446~1495)は、応仁・文明の乱(1467~1477)で10年余り滞在した京都で、公家や文化人との交流を深め、後に、荒廃していた京から山口へ彼らを招き、大内文化の興隆(こうりゅう)に尽力しました。その中に、連歌師・宗祇(そうぎ)がいました。
 連歌は、五・七・五の17音からなる長句と七・七の14音からなる短句とを、交互に、複数人で詠みつないでゆく文芸です。相手の表現の趣旨を理解した上で、自分の表現をそれに沿わせるもので、深いコミュニケーション能力が必要とされますが、一人で詠む和歌に比べて、一座の人々と感動を共有することができる点に面白みがあります。また、句数や句の優劣を競って、勝者には景品や褒美が贈られることもありました。
 連歌は、平安時代後期には長句と短句の二句一章31音のみからなる短連歌が主流でしたが、次第に長く詠みつがれるようになり、鎌倉時代には100句で終結する百韻(ひゃくいん)の形式が確立されます。百韻の第一句は発句(ほっく=五・七・五)と呼ばれ、これに脇(七・七)を付けて場面を作り、次に第三(五・七・五)を付けて場面を変化させ、100句目の挙句(あげく=七・七)で終わります。南北朝期には、句の展開を図るために、さまざまなルールも定められました。優れた連歌師が登場し始めるのもこの頃です。
 そして、室町時代になると、連歌は「座」の精神※の発達と相まって能楽や茶の湯と並ぶ代表的な遊びとなり、貴族の邸宅や神社の境内などで連歌会が盛んに催されるようになりました。
 山口でも、高名な連歌師・宗祇を迎えるなどして、連歌会が盛んに催されました。 [宗祇の連歌発句]

世にふるもさらに時雨の宿り哉

※「座」の精神
「座」とは、多くの人が集まっている集会の席を意味します。
「座」の精神とは、この席に集まった主客同士が交友関係を深め、誠心誠意思いをこめて真剣に人と人との関係を再確認すること。茶の湯でいう「一期一会」と似通うことでもあります。

取材協力/山口大学人文学部言語文化学科 准教授 尾崎千佳(おざき ちか)氏


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