日々史跡めぐり

日本のあちこちの史跡、神社仏閣を巡っています

御津神社(みとじんじゃ)

2024-03-12 | 神社

大恩寺を見学した後、すぐ隣りの御津神社にも立ち寄ってみました。

御津神社(豊川市御津町)の創建は、西暦以前に遡るといわれ、あまりにも古く記録がないため不詳なのだそうです。 

祭神は大国主命。 

古代穂国の港の地として栄えた御津町に古くから鎮座して、当時は港湾や船舶守護の神社として崇敬されて参拝されていたといわれています。

境内の大楠は、神社のシンボルで、樹齢1,000年を超える老木です。

御霊社

天満社

4月の第3日曜日には、その年の豊漁・安全祈願と鳥賊(いか)の供養のため鳥賊(いか)祭りが行われます。

 

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徳川家康ゆかりの大恩寺(2)

2024-02-29 | 徳川家康

念仏堂跡

 天文22年(1553年)の建立で、国の重要文化財に指定されていましたが、1994年に焼失。

大恩寺念仏堂

歴史

天文22年(1553)牧野保成造立
元禄10年(1697)移築大改修
大正10十年(1921)国宝指定
昭和25年(1950)国重文指定
昭和28年(1953)解体復原
平成6年(1994)焼失

説明

浄土宗御津山大恩寺は松平親忠の中興で徳川家、牛久保牧野家、為当竹本家、大塚岩瀬家等の崇敬が続いた。
念仏堂の構造は桁行五間、梁間五間、一重入母屋造、檜皮葺で一間の逗子があった。
特に内陣の厨子、須弥壇の形式彫刻等に見るべきものが多く、天井、長押等の絵画も見事で室町時代の秀作と言われた。

平成八年八月 御津山 大恩寺

 

本殿に向かって左手の道を墓地に向かう途中、牧野家、清廉夫婦、広忠、亀姫の墓があります。


牧野家のお墓


松平清康夫妻・広忠・亀姫の墓

 

 

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徳川家康ゆかりの大恩寺(1)

2024-02-18 | 徳川家康

JR東海道本線「愛知御津駅」下車 徒歩約15分のところにある大恩寺

豊川市観光協会HPによると、徳川家康が、何度も訪れたことがある場所と知って、昨年訪ねてみました。

当時の住職、成誉上人(じょうよしょうにん)は家康の叔父に当たり、家康はその叔父に会いに訪れていたそうです。

    大恩寺の創建については、推古天皇の時代(593~628)、三論宗の布教のために高句麗から訪れていた僧の恵灌(えかん)が、御津山の約2㌔北東に位置する新宮山に「浄光院」を建立したのが始まりとされています。それから約700年後の1444年、浄土宗を広めるためにこの地を訪れた茨城県の「弘経寺」(ぐぎょうじ)の僧侶、了暁(りょうぎょう)が、当時荒れ果ててしまっていた寺を再興。浄土宗大運寺を開きました。
 1490年、寺は松平家(のちの徳川家)の4代・松平親忠の援助により御津山の現在地に移され、天文年中(1532~55)には徳川家康の父である8代・広忠によって建物の修復が行われるなど、松平家の手厚い支援を受けました。親忠の息子の超誉上人や、広忠の弟の成誉上人などがこの寺で僧になったことから、松平家にとって大恩があるということで、広忠が寺の名前を大恩寺に改めたといわれています。
 1573年の記録では、江戸時代、家康が叔父の成誉上人に会うために、時折大恩寺を参詣していたことが記されています。『広報みと』(1985)などによれば、家康は本尊の宮殿を造り、さらに広石の中で百石を寄進。御津山全山を寺へ贈ったとされています。
 その後、当地の領主となった三河牧野氏が先祖代々墓をおき、菩提寺として寺を庇護。1553年に念仏堂(国重要文化財・1994年消失)を造営するなどしました。山門はこの牧野家の娘を妻(正室)にした大垣藩主の戸田氏信によって、1672年に寄進されました。
(豊川市観光協会HPより)

 

山門


大恩寺の山門は三間一戸の造りで、幅約7.6m、奥行き4.4m、2階建ての重層門で、県指定文化財となっています。

大恩寺

 大恩寺は、もと三論宗浄光院といい、高麗(一説に百済)の僧恵灌が新宮山に開基し、のちに下総国(現在に千葉県)飯沼の弘径寺第二世了暁上人が新宮山大運寺として再興したとされます。
 了暁上人の後を継いだ肇誉上人は、御津山の現在地に移りましたが、この時徳川松平家の四代親忠が中興に尽くしました。また松平広忠(家康の父)は寺の伽藍藍を修理したほか、寺の名前を浄土真院
御津山大恩寺と改めました。浄土真院は松平清康(家康の祖父)の内室の法号です。境内には、清康夫妻、広忠、亀姫の四つの墓があります。
 また、牛久保の豪族牧野氏は、大恩寺の大檀那として念仏堂を寄進したほか、一族の墓を祀り、越後長岡城主となって以降も、明治に至るまで大恩寺を大切にしました。

「国指定重要文化財」
絹本著色王宮曼荼羅図(大正七年四月八日指定)
親忠が寄進した一軸で、我が国に伝わる高麗仏画の名品といわれ、皇慶元年(1332)の年号と作者名がわかります。

「県指定文化財」
建造物 大恩寺山門(昭和二十九年二月五日指定)
牛久保牧野家の娘の嫁ぎ先である大垣城主戸田釆女正が寛文十二年(1672)に寄進しました。禅宗様式ですが、垂木は平行になっており重厚な造りです。

  絵画  蓮の図(昭和三十三年六月二十一日指定)
  阿弥陀廿五菩薩来迎図(昭和三十三年六月二十一日指定) 
  彫刻  木造阿弥陀如来坐像昭和(三十三年三月二十九日指定)

「市指定文化財」
  古文書  大恩寺文書(平成七年一月二十四日指定)

  豊川市教育委員会

 

本堂

大恩寺会館

鐘楼

 
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蒲郡の竹島 八百富神社(2)

2024-02-09 | 徳川家康

八百富神社と徳川家との関係は深く、慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いの前には徳川家康が参拝し、その後朱印4石8斗を寄進したといわれています。

また、家康が会津の上杉征伐に向かう途中、船で竹島に着き、郷土である内田弥右衛門義隆が蜻蛉貝や鯛二匹を献上したという記録があり、その際縁起が良いと喜んだそうです。

八百富神社


八安徳天皇の養和元年(1181年)に、藤原俊成によって創建されたと伝えられています。
ご祭神は天照大神が剣を折って霧を出した時に現われたと言われている市杵島姫命で、
開運・安産・縁結の神として知られ、江の島・竹生島・厳島と共に、日本七弁天の中に挙げられています。





八大龍神社 / 祭神 豊玉彦命

藤原俊成の夢に、「永く竹島に遷りて諸人に幸福を与えん」(竹島に長く留まり、全ての人々に幸福を与えなさい)という宣託があり、海底に綱があって引き上げて、ここに祭ったという言い伝えがあり、雨乞いに霊験著しい神様として知られています。
 



帰りの階段の途中で見た景色は・・・



なかなかの絶景でした。





そして対岸の遥拝所へ



ここから竹島を臨むことができます。





八百富神社公式HP参照

 
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蒲郡の竹島 八百富神社(1)

2024-01-30 | 神社

数年前のこと、愛知県蒲郡の八百富神社を参拝しました。

1181年(養和元年)  三河国国司である藤原俊成が、竹生島より勧請し創建したといいます。

「竹島弁天」ともいい、日本七弁天の一つとされています。

蒲郡市沖の三河湾にある竹島に鎮座し、竹島全域が八百富神社の境内です。

潮干狩りをする人たちの姿も見られました。

さあ、この急な階段をのぼって行きます。

宇賀神社 / 祭神 宇迦之御魂神

宇迦之御魂神は食物を主宰する神様です。当社は昔三河守源範頼の信仰が厚い神社でした。
一時は、国府村に遷座されていましたが、享保10年(1725)国府村や竹島の神主が「竹島に帰りたい」という霊夢を見たことにより、宇賀神社は竹島に戻されることになり、国府の人々は八尾登美神社の崇敬者となりました。

大黒神社 / 祭神 大国主命

大国主神は国土を平定し、土地を開拓し、庶民に農耕の道を教え、医薬や禁厭(まじない)の法を授けるなど多くの功績をお持ちの神様です。また七福神の一柱である大黒天と習合し、福の神としても広く仰がれています。

千歳神社 / 祭神 藤原俊成

藤原俊成は、後白河法皇の名で千載和歌集を撰じました。
近衛天皇の時代1145年から、三河守となり、江州竹生島より弁財天を竹島に勧請しました。

八百富神社公式HP参照

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