大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

お江戸府内の結界の一つ・目青不動を訪ねて~竹園山最勝寺教学院~

2011年10月06日 10時14分29秒 | 世田谷区・歴史散策
当ブログの中ではこれまでお江戸の結界を結ぶ「お江戸五色不動」のうち、目黒と目赤の2ヶ所を取り上げました。この五色不動はお江戸の府内を取り囲むように配置されたため、一日ですべての不動様を巡るのは物理的に無理なのです。いずれはすべての不動様に詣でようと考えていたところ、世田谷の豪徳寺や松陰神社に訪問後、世田谷線で三軒茶屋へ向かう車窓から線路脇に目青不動を祀る「教学院」の門柱が目に入ったのです。これは是非お参りせねばと三軒茶屋駅からほんのわずかな距離を足早に向かった次第です。

目青不動の門柱

お江戸の五色不動は寛永年間の頃、三代将軍家光公があの寛永時造営を行った天界僧正からの具申を受けて、江戸の鎮護と天下泰平を祈願するため、江戸市中を囲む5つの方角に不動尊を配置したことに始まります。この五色は密教の陰陽五行説に由来しており、それぞれに青、白、赤、黒、黄を割り振り、併せて東、西、南、北、中央を表しています。更にはこの方角には風水学による青龍、白虎、朱雀、玄武を当てはめていることはよく知られていることです。我が国の相撲の土俵の上から垂れ下がる4つの房も青、白、赤、黒の4色であることはご存知でしたか? 尚、相撲の場合は黄色は中央を表すということで、土俵上を意味しています。

世田谷線の三軒茶屋駅から直線で僅か100mほどの線路脇に目青不動の山門が構えています。ところでこの目青不動の正式名は「竹園山最勝寺教学院」で通称「教学院」と呼ばれています。
実は最勝寺という寺名はお江戸の五色不動の中の目黄不動尊を祀っている江戸川区内平井にある最勝寺と同名です。

線路脇の寺名石柱

さてこの教学院ですが、開基は鎌倉時代に遡りますが、実際のところは異説があり江戸時代の慶長9年(1604)とも言われています。慶長の頃から江戸時代を通じて青山に土地を与えられていたのですが、明治末期に現在地に移転しています。

ご本尊の不動明王像(秘仏)とお前立の不動明王像はもともとこの教学院にあったものではなく、明治15年に麻布にあった観行寺が廃寺になったことで教学院に移されたものです。

山門から参道が延び、その正面に不動明王を祭る不動堂が構えています。秘仏である不動明王像は公開されていませんが、お前立像は堂内に鎮座しています。

教学院山門
不動堂
不動堂

お前立不動明王像

不動堂から左手奥には教学院のご本堂が木々に囲まれるように静かに佇んでいます。それほど広い境内ではないのですが、ほんの僅かな距離に高層ビルが建つ三軒茶屋の喧騒とは隔絶されたように静かな雰囲気を漂わせています。

教学院ご本堂
教学院ご本堂

境内の隅に一つの石碑が置かれています。近づいて見ると石面には「夜叉塚」と刻まれています。私にとって初めてみる石碑です。夜叉塚を調べてみると、この世で悪鬼、夜叉となって死んだ人々を慰めるために建てられたものだそうです。夜叉は仏教では天界にいて仏界の守護を司る八部衆の一つです。インド神話の悪鬼は大日如来によって、夜叉、天、龍、阿修羅、乾闥婆、緊那羅、迦楼羅、摩�路羅伽の八部衆に分けられ、仏の道へと導かれたと伝えられます。

教学院境内の夜叉塚

お江戸を鎮護するために配置された五色不動ですが、時代の変遷の中でもともと鎮座した寺が廃寺になったり、寺が移動したりと、そもそもの結界をなした場所が変わってしまっています。天界僧正が力を込めて構築したお江戸の結界はすでに崩れ去ってしまった現代の世、首都東京を守る絶対的な力を持つ守護神はいったいどこにいるのでしょうか?

もう一つの目黄不動~江戸川・平井「最勝寺」~
お江戸府内の結界を守る名刹・目黒不動尊(龍泉寺)
お江戸の鎮護不動尊「府内五色不動」の一つ「目赤不動」の佇まい【本郷本駒込】




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