大江戸散策徒然噺 Introducing Japanese culture and history

豊かな歴史に彩られた日本の文化と歴史を紹介

上野お山の名刹・輪王寺開山堂両大師

2012年02月01日 12時37分29秒 | 台東区・歴史散策
ご存知のように上野の山一帯は江戸時代は天台宗別格大本山「寛永寺」の敷地で、お山全域に寛永時の根本中堂、本坊をはじめあまたの塔中、子院が連なる大伽藍が並び、江戸の大名所として庶民の遊山地となっていた場所です。

>現在の寛永寺根本中堂

江戸名所図会を見ると常緑樹らしき(松や杉など)木々が全山を覆い、その木々の林が整然と区画されている様子がみてとれます。そして幅の広い参道が根本中堂、本坊へとのびています。

名所図会では左端に御本坊の甍が連なり、その御本坊正門の右手に大師堂が描かれています。現在国立博物館がある場所にこそ御本坊、大噴水がある場所に根本中堂そして御本坊の裏手に徳川将軍家の御霊屋が置かれていました。

寛永寺家綱公勅額門
寛永寺綱吉公勅額門

そんな大伽藍も戊辰戦役の一つである上野彰義隊戦争でことごとく焼失してしまうという憂き目にあうのですが、徳川将軍家の菩提寺としてその寺勢を誇った寛永寺は時代の流れの中で徳川幕府とともにその姿を大きく変えざるを得なかったのです。

幸いにも輪王寺開山堂は上野戦争で焼け残ったのですが、なんと平成元年(1989)に本堂と開山堂が焼失してしまうのです。現在の本堂は平成5年(1993)に再建されたものです。

さてここ輪王寺は一般的に「両大師」と呼ばれているのですが、この通称は江戸時代初期に家康、秀忠そして家光の三代に渡って仕えた南光坊天海(慈眼大師)とこの天海僧正が尊敬していた平安時代の僧である良源こと慈恵大師を祀ることに由来しています。

もともとこの輪王寺は寛永寺の伽藍の一部で開山堂若しくは慈眼堂と呼ばれていたものです。寛永寺はそもそも天海僧正が開山であることから、天海僧正が寛永20年(1640)に死去したのちに輪王寺境内に天海を祀る開山堂が建てられ、その際に天海が尊敬する良源(慈恵大師)を併せ祀ったことから「両大師」と呼ばれるようになったのです。

開山堂の前の道を隔てて建つのが科学博物館、そして開山堂脇の道の向こうは国立博物館が建っているのですが、両博物館にはたくさんの見学者が訪れ賑わいを見せています。ほんの道を隔てて門を構える開山堂は訪れる人もなく静かに佇んでいるのが印象的です。

山門脇には「両大師」と書かれた札が立ち、山門の柱には開山堂と両大師の金文字を記した札が掲げられています。

両大師門前
両大師山門

山門をくぐり右手を見ると白壁の阿弥陀堂が建っています。お堂内には三体の像が安置されています。右に南無虚空蔵菩薩、中央に南無阿弥陀如来、左に南無地蔵大菩薩が配置されています。

阿弥陀堂
阿弥陀堂内三像

そして参道を進むとご本堂である開山堂が構えています。開山堂手前の参道脇左右に立派な銅燈籠が置かれていますが、これは寛永寺の徳川将軍家の御霊屋にあった大猷院(家光公)の霊廟に奉納されていたものです。

銅燈籠と開山堂

開山堂には開山である天海僧正の坐像が安置してあるそうです。家康公とは開幕以前から旧知の間柄であったと言われる天海僧正ですが、その人柄は家康公のためなら、さらに言えば徳川将軍家のためなら命も惜しまない位の一本気の方だったと思います。

開山堂

川越の喜多院の住職を務めていた天海は家康公のご遺骸が日光へ下る途中に喜多院で追善法要を営み、その後仙波東照宮を造営するなど、家康公に対する敬愛の気持ちはただならぬものを感じます。そして日光にあった輪王寺を復興させたのも天海僧正であることを考えると、上野輪王寺に天海僧正を祭る開山堂が開かれたのも納得できます。

尚、開山堂両大師にはかつての寛永寺本坊表門が移築保存されているのですが、現在修復中ということで画像におさめることができませんでした。





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