皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

河原神社と水の神

2021-01-18 21:07:00 | 神社と歴史 忍領行田

 星宮地区下池守を北上し、行田市内北部を横断する星川を渡って進むと馬見塚、中江袋といった田園地帯が広がり、さらに進むと旧南河原村の中心よりやや西側に河原神社が鎮座する。利根川が運ぶ肥沃な土壌を背景に早くから開けた土地で、私市党(きさいとう)河原氏が兄弟で領有し、兄の領地を南河原、弟の方を北河原と呼ぶ。

 社記によれば応保元年(1161)平賀冠者義信が武蔵守に任じられ、関東へ下向し河原郷に城郭を築いて居住した際、先祖以来信仰していた住吉の神を祀るために、入間郡勝呂郷の住吉神社(坂戸市塚越)の分霊を勧請し、勝呂神社と称したことを由緒とする。ところで坂戸塚越の大宮住吉神社は文治三年(1187)頼朝の命によって北武蔵十二郡の総社に選ばれ、神職勝呂家はその当主としての役割を果たした。北武蔵十二郡とは入間・高麗・比企・男衾・大里・秩父・幡羅・榛沢・賀美・児玉・埼玉(さきたま)を指し、時代が下った江戸期には神祇官吉田家の出先機関としての仕事も行ったという。貞享三年(1686)の「北武蔵十二郡社家衆判形改帳」には六十社家の姓名と奉仕神社が列記され、当時の支配関係が読み取れる。尚、当家もそのうちの一つに当たる(青木家)。

棟札によれば本殿は延宝二年の再建、拝殿は宝暦十年の建立という。

当社は勝呂様の名で親しまれ、水の神として信仰が厚い。社殿裏には弁天池と呼ぶ池があり渇水期にはこの池の水を入れ、社蔵の獅子頭を被ったものが池に入ると雨がふると伝わる。あ現在では水は枯れ果て葦の藪となってしまっている。例大祭は八月一九、二十日の二日間であるが、お盆明けの土曜にササラが奉納されるようである。かつては神輿とともに獅子が村中を練り歩いたと伝わるが、あばれ太鼓とともに境内での盛大な夏祭りへと変化している。境内に立つ板碑は鎌倉時代のもので建長二年銘板碑として知られる。石材は荒川上流長瀞周辺の緑泥石であるが、これは古墳時代に使われた石棺石材の転用のもので歴史的価値が高い。

摂社の一つに多度社一目蓮社がある。多度社は三重県桑名市にある大社で天津彦根命を祀る。天照大御神の第三子。伊勢神宮との関係が深く、「お伊勢参らばお多度もかけよ、お多度かけねば片参り」と詠まれた。天津彦根命は天照大神と素戔嗚尊の誓約神話で生また男神五柱の一柱で多くの氏族の祖先として祀られている。

 また一目連社はその天津彦根命の子である天目一箇命(あめのまひとつのかみ)を祀る末社で本来は片目のつぶれた竜神である。天の岩戸神話においては刀斧を作ったとされる。また大物主神を祀るときには鍛冶として料物を作ったとされる。鍛冶師が仕事柄片目をつぶすという伝承は全国に残っている。(お先沼等)

一目連は竜神としての性格から風をつかさどる神として知られる。伊勢湾においても雨乞いのと海難防止の祈祷がなされたという。水神との性格が近い。

さらに末社として青麻三光社を祀る(あおそさんこうしゃ)。青麻神社は宮城県仙台市に鎮座する青麻社・三光社の総本社で穂積保昌が山城国からみちのくへ下向した際一族が崇拝した日星月の三光を祀ったのが始まりという。日は天照大御神、星は天御中主神、月は月読命である。穂積保昌が土地土地に麻の栽培を広げたことにより「青麻」が社名となったという。氏子区域は明治初めに村社となってから南河原全域の鎮守となる。維新後もこの地の生活基盤は米麦大豆といった農業中心であったが、大正末期より麻裏草履の生産技術を生かしたスリッパの製造が村の主要産業となっていった。現在でも行田の足袋と並ぶ地場名産品の一つとなっている。

昨年秋に亡くなられた神社総代の御ひとかたと約四年間のお付き合いをいただいた。2年前の例大祭でお会いした時の優しい笑顔が忘れられない。故人のおかげでこの河原神社を始め世良田東照宮、など多くの御縁をいただいた。生前の御恩に深く感謝し哀悼の誠を捧げたい。

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熊谷市 大塚古墳と熊野神社

2021-01-18 16:22:42 | 神社と歴史

ラグビータウン熊谷のスポーツ文化公園、彩の国熊谷ドームの東側に小さな塚がある。地名も熊谷市大塚とあり、古くからその地内に古墳があったことに由来する。7世紀初頭に作られた古墳は出土品からこの地を支配した豪族の墓と推定されている。墳丘全体としては直径約60m高さ1.2mの基盤に4m上の円丘が乗った形であるという。現存する墳丘はそのうちの僅か四分の一程度。

 昭和57年の古墳の天井石が落ちかける状態となって、天井石を外し石室の調査が行われた。3トンを超える天井石を外すと内部の石室は非常に精巧で1400年もの間地元の協力によって保護されてきたという。

境内に残る石室の天井石がこちら。

墳丘に社殿が建っている。ご祭神は熊野三神(熊野夫須美命・速玉男命・家都御子神)。新編武蔵風土記稿によれば江戸期には大塚の鎮守として祭られていたことが記されているが、風土記稿においても古墳の被葬者については不明である。

墳丘上には榛名社と三峰社が祭られており、近年まで講社があったことを窺わせる。埼玉の神社の記述には年間祭祀として三月末の雹祭り、八月末の風祭りがあるという。これはいずれも作物を害する悪天候を避けるために祈願する祭事であり、この地が農耕祭祀に一環であることがわかる。古くは年番が氏子家々を回って集めた米で赤飯を炊きおむすびにして子供らに振舞ったという。農・食・祭とは現代社会になるまでは一体のものだったのだろう。赤飯を子供が欲しがらなくなって久しいというが今の世であるらしい。

二の木製鳥居はいつの時代のものか記されていないが、非常に古く時代を感じさせる。近くの上之神社の鳥居は大きいもので江戸期から伝わり市の文化財になっているが、この鳥居も明神鳥居で笠木がそっている分、保存が難しいと思われるが、非常に美しいたたずまいであった。神社東側敷地には旧別当の龍昌寺が建っている。現在寺の管理がどうされているのか不明であるが、明治5年より神仏分離によって村社となっている。寺の入り口には月待講である二十二夜塔如意輪観音も立つ。全国的には二十三夜塔が多いそうだが熊谷など埼玉北西部、群馬の一部においては二十二夜塔が多く分布している。如意輪観音は富を施し六道に迷う人々を救い願いを叶える観音様として江戸期以降民間信仰として広がった。特に女性の信仰が厚かったという。

鳥居脇に立つ松の大木に見守られながら、大塚古墳と熊野神社は氏子や参拝者を静かに迎えている。

 

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日はまた昇る

2021-01-16 21:00:16 | 日記

 年末年始の仕事を終え、ひと段落した先日の早朝、加須市大利根と北川辺を結ぶ埼玉大橋の日の出を見に行きました。

見に行ったといっても日々の通勤で渡る橋です。童謡のふるさと大利根の道の駅に車を停めて、極寒の橋の上を目指して一人歩きます。

毎日通る見慣れた風景も歩くとまた違った景色が見えるものです。まず何よりその寒さ。季節はまさに寒中の候ですので、手も足も凍えます。また普段車から降りて歩くことも少ないため、手袋やマフラーといった防寒具を持ち合わせていませんでした。『「富士と筑波の峰清く」高校の校歌の歌いだしは、富士とともに東に見える紫峰筑波山でした。忍領より東に来ると筑波山の雄姿がはっきりと見えます。マジックアワーと呼ばれる日の出前の時刻にはより一層その光は幻想的なものです。

日の出のスポットということもあって本格的なカメラを持った人も見受けられます。元日の初日の出の時には橋の欄干は人だかりができたそうです。日の出を待つ間にいろいろと教えてもらいました。日の出は6時53分。ちょうど利根川の川幅の真ん中から上がるとのことで、凍えながら約20分ほど待ちました。おそらく一人では日の出前の景色を目にしただけで、太陽を拝むことはできなかったと思います。

わずかな時間の差で光を映す川面の様子が違って見えます。

川も空も景色も皆生きている。しかも刻一刻とその姿を変えてゆく。そう無常の世界。ゆえに哀れと感じてしまうのでしょう。哀れとは同情を引くことに限らず、人の心を強く打つ感情。生きてしか感じることのない深い感情のことです。

一説に感動して発する「あ、はれ」から出た言葉ともされます。

見たい聴きたい話したい。そう言った気持ちを抑えなければならない今だからこそ、できうることを今しよう。そんな年頭の願いをかなえてくれた景色でした。

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忙しくせわしない

2021-01-14 20:43:45 | 心は言葉に包まれて

 師走の半ば過ぎから鏡開きまでのひと月はまさに日々忙しない。小売業と神職のハイブリッド生活の道を進むこ早15年。一時期師走になるとやや鬱に入ってしまうような年もあったが、慣れとは怖いものでひと月の行事を心なしか穏やかに受け入れられるようになった。

 主だったところでは、冬至、クリスマス、年末前の大掃除、御節、年越しそば、大祓、棚替え、歳旦祭、年始商戦、棚卸、成人式、そして鏡開きとなる。

 忙しないに尽きる。りっしんベンはは心を表し、亡くなると書いて忙しい。そういった様を忙しないという。

ところで『忙しい』と『忙しない』は同義語で、忙しないの『ない』は否定打消しの『無い』ではなく、強調する接尾語。『せつ(切)ない』『はした(端)ない』といった形容の接尾語。

一方打消しのないの使い方では「そっけない」「あじけない」など『名詞+ない』=形容詞を形成する。

見分け方の一つにないをなしに置き換えて意味がつながるかどうか考えるとよい。

味気なし、素気なしとはなるが、忙しなし、はしたなしとはなりにくい。

忙しく忙しないとは言わないが、忙しい忙しいとは口にはしている。

立春に向け、心新たに日々過ごしたいと願う。今年の節分は2月2日です。

 

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スマートメーターの未来

2021-01-12 20:53:16 | 物と人の流れ

 2016年から始まった電力自由化以降、通信機能を備えた新しい電力メーター「スマートメーター」の普及が進んでいます。進んでいますといってもこの3月までにほぼ100%近い区域で切替工事は完了するとのことでした。

「エネルギーもサービスで選ばれる時代」こんなフレーズが叫ばれて暫く経ちます。大好きなラジオのスポンサーに【○○産業の〇〇くるがー来る~~~】というのがありますね。

 そもそも電気使用量を測るメーターに求められるのは安心、安全、公平性といった旧来の普遍的価値観であったと思いますが、通信機能を備えることで、また新たな利便性が図られると謳っています。

まず何よりも人による検針が不要になること。これまでは毎月検針員の方が回ってきましたが、自動検針と電気使用量のデータが通信可能となり、人の訪問がなくなります。デジタル化は省力化、即ち人による作業をなくしていく。これはどの業界にいても共通することだと思います。

交換にきていただいた電気技能作業員の方にお茶を出しながら、色々と話をきくことができました。

利点の一つにメーターそのものがブレーカー機能を有し、アンペア数以上の供給を止めるため、屋内のブレーカーが不要となるとのことでした。電気の使い過ぎでブレーカーが落ちても、デジタル計測器が自然復旧させるそうです。

 作業員の方は社名は似ていても東京電力の社員でなければ、関係子会社でもないそうです。こうした各家庭の検針機の交換工事を東京電力では入札によって決めるそうで、以前は都内の多くの区域を担当していたそうです。

 ところが今年度の入札で務めている会社が都内での仕事が取れず、変わって北埼玉中心に動いているとのことでした。

お茶飲みながら(屋外での距離をとって)話は仕事の苦労も聞こえてきます。都内ではスマートメーターに対する拒否事例も多く、交換中にパトカーを呼ばれることもあったそうです。(電磁波による影響を指摘する人もいます)。また工事設備機器と積んだ車両を停めるのにも苦労し、パーキング代と仕事の報酬が合わなくなることもあるそうです。

 そもそも電気工事技術者として会社との雇用形態を歩合制を選んでいるとのことでした。私も営業職を数年やりましたが、歩合制ではありませんでした。個人事業主的な立場で仕事をするほうがやる気が出るそうです。こういう気概のある人は何をやっても生き抜く力があるように感じます。

だからここ北埼玉での仕事は人柄も温かく、敷地も余裕があることから電気工事技師にとってとっデータはとてもやりやすいと話してくれました。

デジタル化がどんなに進んでも取り扱う人の心までは変わらない。

そういう世の中であってほしいと思います。

 

 

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