皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

プレミアム・アウトレト!

2019-05-30 21:45:08 | 物と人の流れ

6月の第三日曜日は父の日。そろそろ感謝の気持ちを伝えるための品物を用意しなければと、夫婦二人そろって休みの今日、佐野プレミアム・アウトレット(Sano Premium Outtets)へ出かけてみた。道のりで自宅から25kmほど。ほどなく近い。というよりも現在の勤務地と変わらない距離だった。なんとなく栃木県というと遥か彼方という印象だが、どうやら埼玉県民から見ると栃木は河を2つ超えた(利根川、渡良瀬川)異国の地というイメージで、それはもとより東京都民から見た埼玉と同じ感覚であるのだろう。「埼玉県人には草でも食わせておけ」で盛り上がった「飛んで埼玉」の根底と同じものを感じてしまう。話がそれるが、はなわの「咲き誇れ埼玉」の歌は埼玉県民には本当にうれしい歌詞だ。そのままの埼玉が好き、居心地がいいからあえて人には知らせなくてもいい、そんな控えめな埼玉県人の思いが溢れている。栃木には栃木の良さがあるのだろう。ちなみに那須高原は自分にとって第二の故郷と思っている。

日本の流通業は大きく11の業態に分類されるという。①デパート・百貨店(DEPT)②総合小売店(GMS)③大型スーパー(SSM)④スーパーマーケット(SM)⑤コンビニ(CVS)⑥ショッピングセンター(SC)⑦スーパーセンター(SUC)⑧ホームセンター(HC)⑨ディスカウントストアー(DS)⑩ドラックストアー(DGS)⑪スペシャリティーストア(SS)

これに付け加える形で表せば⑫アウトレットモール(OM)となるのだろう1980年代にアメリカで誕生した新しい業態で、主にメーカー品(ブランド品)を低価格で販売する特別なショッピングセンターのことになる。

アウトレット(outlet)は英語ではコンセントの意味で水や煙の排出口を表している。商業施設として工場から直接出てきたものを意味している。古くはアメリカにおいてブランド品やメーカーの衣料品などの欠陥品、流行遅れなどを処分する店舗(アウトレットストアー)が倉庫の近くにあったという。こうした複数メーカーの在庫処分店を集めた(モール化)ものをアウトレットモールと呼ぶ。流通上正規品の処分販売であり、問屋が非公式のルートで集めた在庫品(バッタもん)と区別するという。

正規品の別ルートであるから、販売店も直営で店内もブランドイメージを損なわない構えである。ある高級ブランドの店舗はほとんどの商品がショーケースに入っており、値札は伏せられていて価格を知るのには店員とやりとりしなければ見られない。客が商品を選ぶと同時に商品も顧客を選別しているようだ。所謂分相応を感じてしまう。やはりブランドイメージというのは絶大だ。

路地で移動式の仮設店舗で売っている靴屋さんを見て、店員と会話したが、こちらは仕入れを自分でやっているという。売れ筋の商品のサイズを集めるのが難しいという。どんなにいいものでもアウトレット品で売れ筋のサイズをそろえるのは難しい。そもそも売れない筋がアウトレットであるわけだから、これがいいと思ったものがサイズがないというのはもっともなところだ。

結局父の日の感謝の贈り物は納得のいくものが見つからず、もう少し持ち越すことにした。往復50km以上は無駄足になってしまったが、「品物を選ぶ」という行為は誰にとっても楽しいもので、30度を超える日差しも爽やかな風に吹かれながら、程よい疲労感の栃木の旅路となった。

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シベリアの思い出

2019-05-30 21:02:04 | 食べることは生きること

シベリアとは羊羹または小豆のあんこをカステラに挟み込んだ洋菓子の事で私の勤めるスーパーでも毎日品揃えしている。写真はヤマザキパンの商品で三角シベリア。常温販売だが冷やすと一層美味しく食べられる。

 全国的な商品と思っていたが主に関東中部地方の商品で近畿より先ではあまりなじみがないという。四角く切ったものもれば、サンドウィッチ状に三角のものもある。

 昭和初期に生まれたとされているが発祥については不明確のようだ。羊羹をシベリアの永久凍土に見立てた説、日露戦争に従事していた菓子職人が考案した説など、さまざまあるという。冷蔵庫の無い時代、冷たい食感と涼しげな名前が好まれて、子供の食べたい菓子一位であったという。明治から大正にかけてどこのパン屋でも製造していたようである。

2013年宮崎駿作品映画「風立ちぬ」の中でシベリアが登場し「懐かしい菓子」として再度注目を集めたことがある。

私にとってこのシベリアの菓子は父との思い出の一つ。六十代後半に病気を患い、闘病していたころ好んでこのシベリアを食べていた。昔気質で気難しい父が、病に押され気弱になったことをよく覚えている。私の仕事に対してもいつまでそんなことを続けるのか苦言を呈していたのがこのころからは何も言わなくなっていた。恐らく自分の先を見越していたのだろう。食も細くなり煙草も控え、こうした甘いものを食べるようになった。病院の見舞いに母がいつも用意していたことを鮮明に覚えている。

 先日父の十回忌を迎えた。神道で言えば十年祭。日々忙しく姉に連絡した以外に花を手向けただけであった。

不義理をわびながら父の好んだ洋菓子を遺影の前に供え、ささやかに在りし日のことを偲んだ。

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幸宮神社 忠霊塔

2019-05-21 23:21:16 | 史跡をめぐり

幸手総鎮守 幸宮神社境内地 忠霊塔 (昭和三十年建立)

 記

 戦雲収りてここに平和の山河を迎う当時を回想すれば追憶の情胸に迫りて無量の感亦新なり

厳冬の北野に酷熱の南海に国家興光を賭して奮戦敢斗武運拙たなく遂に護国の華と散りたる忠勇義烈の英魂は誠に武人亀鑑にしてその勲績は炳(あきらか)として永に燦たり

ここに戦没者の武功を顕彰し儘(ことごとく)忠報国の誠を後世に伝えん為同志相寄りてこの塔を建つ

衆よく敬せられんことを

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幸手総鎮守 幸宮神社

2019-05-21 21:52:31 | 神社と歴史

埼玉県幸手市は日光街道の宿場町として栄えた、人口五万人の中規模都市だが、県下一の桜の名所現権現堂を有し、桜の季節には多くの見物客が押し寄せる。幸手の地名は古く日本武尊東征の際、「薩手が島」に上陸し田宮の雷電神社に農耕神を祀ったという言い伝えから来たとされている。また一説にアイヌ語の乾いた原野を意味するという。

 幸手宿は江戸中期に本陣が置かれ人口四千、旅宿二十七を数えるまで開け日光街道、御成街道の要所として栄えた。また権現堂の水運とにも恵まれ近郷の中心であったという。幸手駅前近くに一色稲荷社がありかつての幸手城址と伝わる。幸手城は下総古河公方の足利成氏の出城で上杉勢にに対する備えとして配下の一色氏に守らせたという。幸手市自体も中世までは下総国葛飾郡に属していた。

創建については不明であるが江戸期まで八幡香取社と称し二社合殿の形をとっていたことが分かる。社蔵の金幣二基には「八幡大菩薩」「香取大明神」と彫られていて年号に元禄十二年(1699)とある。明治になってご金比羅、稲荷などを合祀し、社名を幸宮神社(さちのみや)とあらため幸手総鎮守となった。

社殿の内本殿は文久三年(1863)に再建された総欅造りで正面扉の両脇に登り龍、下り龍が刻まれその周りには獅子、鳳凰、天邪鬼、鷹が刻まれて、文化財指定となっている。

拝殿脇には大杉神社が祀られている。境内石碑にも阿波大杉参拝記念碑が二基残っておりその信仰が窺える。大杉神社は茨城県稲敷市阿波に総本社があり、「あんばさま」として知られている。その御祭神は大物主神。元は奈良県の三輪山信仰で神の山を祀るとされる。古くから茨城方面とのつながりが深かったことがよくわかる。

大正期に建てられた神楽殿も現存し、建て替え備える協賛を募っている。

祭事についての記録で夏まつりに関する記述が非常に面白い。

 境内社八坂神社の例祭である夏祭りでは貞享二年(1685)に波寄の天王山に勧請したが、享保二年(1742)の大洪水で流されてしまい、上高野に祀られてしまったため、明治になって改めて氷川神社から勧請してきている。古くは久喜、仲町、荒宿の三町で祀っていたので当番町と言って交代でお仮屋をもうけた。そのお仮屋から帰還するまでを祭としたが、昔はのその仮屋に宮司が籠ったが、ある年若い衆がいたずらで宮司を蚊帳にくるんで神輿を盗み出してしまったという。

現在でも市内各地が行政区と氏子区域が異なる中でそれぞれの区域が神社を中心とした「七社崇神会」を組織し、幸宮神社を総鎮守として例祭奉仕にあたるなど、市民の信仰の対象となっている。

 

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加須市 神明社

2019-05-20 23:08:44 | 神社と歴史

加須市川口の神明社は古利根川である中川右岸に沿って鎮座する。鎌倉期には奥州道が通り、その渡し場として有名であったという。古くから開けた村で、鷲宮神社の神鏡の銘に「武州太田庄鷲宮大明神、施主河口郷内藤五郎敬白、文安二年五月四日」とある(1445年)

 風土記稿にも「天照皇大神宮」とあり、文政三年の社号額も残っている。御祭神は大日女貴命で天照大御神の美称である。

農家の多い氏子には「大神宮様」と呼ばれ親しまれたという。祭事に七月一日の悪疫除け行事があり、騎西の玉敷神社が獅子を借り受け区内を廻る。道中「モッテエネエ、モッテエネエ」と叫びながら走るという。獅子舞には土地ごとの特色が良く伝わる事例である。

昭和二十二年カスリーン台風で被害を受けた際に建てられた「水害復旧竣功記念碑」が残っており、当時氏子全戸で経費、労力の面で奉仕し、早期に復旧に努めたことが刻まれている。

社殿外からからはわからないが、伊勢の神宮に倣い本殿には内宮と外宮がそれぞれ並んで祀られているという。

本殿東側には稲荷社があり、氏子区内の屋敷神はほとんどが稲荷様だという。初午に赤飯スミツカレを供える風習は北武蔵一帯に多く見られる。

社殿裏には地区集会所があり、区域の中心としての機能があるのだろう。

少し離れた区内岡前の洗磯社を合祀しており、鷲宮神社の人形流しの場として知られている。

 

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