皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

加須市 北篠崎 熊野白山合殿社

2019-11-25 23:13:30 | 神社と歴史

 紅葉と空の青との彩がまぶしい晩秋の霜月の末を迎え、以前から気にかけていた東北自動車道加須インター近くの神社へ向かった。加須市北篠崎は旧大利根町との境、古利根川である合いの川の南に鎮座している。

社記によれば元亀、天正年間中の大洪水の際、古利根川が小松村(羽生市)で決壊し、小松神社のうち、熊野、白山神社の両社が押し流されて、金幣並びに本地仏の釈迦如来と阿弥陀如来がこの地に漂泊したという。村人はこれを畏んで拾い上げ、村鎮守として祀ったことを起源としている。別当は始め小松村の修験、次いで当地の真言宗医王寺が務めている。金幣と本地仏二体は医王寺が管理するところであったが、幣束は紛失し、本地仏のみが安置されているという。

 御祭神は伊邪那岐命、伊邪那美命、熊野夫須美命、速玉男命、家都御子命、菊理媛命。享保十五年神祇官領卜部兼敬により正一位白山熊野大権現の神階を授かったという。

領主堀田家の仁政を称える石碑が残っている。享和三年(1801)年号が残る。

 白山様は歯痛を治す神として信仰を集めた。昔の歯科医療を考えれば、どんな痛みにも拝めば必ず治ると信じられたという。昭和初めまで常に神社に楊枝箱が置かれ、歯痛の者はここから楊枝を一本借りて虫歯に当て、治れば倍にして返したという。

 神社の信仰に痛みを和らげる信仰は多い。歯、耳、目、脚、など擦る、祓う、水に打たせるなど祈祷方式は様々だ。寺社持ち(修験道)の神社に多く見られるように思う。虫封じに見られるように昔は寺社仏閣は医者の代わりの役割を果たしていたのだろう。

 北篠崎は稲作を中心とする農業地帯で、葛西用水路が東西に貫流する。かつては古利根川である会の川が流れていたのだろう。水利に恵まれた土地柄だ。戦後東北自動車道が開通し、インターチェンジが出来たことで、鷲宮、花咲方面と隔離された印象がある。実際に鳥居の前の参道は途中高速道路でさえぎられてしまう。

但し、境内地の社殿の盛り方や周辺の杉林を目にすると、かつては大水に対して備えた城の様な役割を果たしていたのではないかと思える。

羽生の郷土史家高鳥邦仁先生はその著書「古利根川奇譚」の中で、羽生の小松から流れ着い金幣や本地仏は、この地がかつて羽生城の出城、諜報機関としての役割を果たしていたことを語っている。羽生城城主広田直繁、木戸忠朝(後の皿尾城城主)兄弟は天文五年(1536)地元羽生の足固めとして三宝荒神御正体を羽生総鎮守小松神社へ寄進している。隣国忍領成田氏に対抗するため、永禄三年(1560)以降関東に勢力を伸ばそうとした上杉謙信に従属し、上杉の支城としての役割を果たしていく。西に忍城成田家、南西に古河公方足利家の支城粟原城(鷲宮城)などに囲まれ、その諜報活動の役割を果たしたのがここ熊野白山神社ではなかったかと考察されている。

拠ってこの熊野白山神社は金幣や本地仏の漂着をきっかけに創建されたのではなく、あくまで羽入城主の軍事的意図をもって創建されたのではないかと結んでいる。 

 どことなく杉林の土の盛り方を見ると皿尾城の土塁跡に似ているように見えてしまった。史実と伝承を裏付けるものはないとされているが、羽生城の歴史から見れば非常にロマンを掻き立てられる場所であった。

黄色く色付いた銀杏の葉が、晩秋の寂しさをかえって鮮やかに彩るようだった。

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池袋 御嶽神社

2019-11-21 21:54:53 | 神社と歴史

 霜月後半を迎え、都心でも紅葉の季節を迎えつつある。木々の緑はまだ色付き始めたところで、見ごろにはまだ少し早いようだが、穏やかな秋晴れが広がる都心の空は青く、空気も澄んでいた。

 

池袋西口を出て十五分ばかり歩くと静かな住宅街の中に御嶽神社は建っている。山の手通りから入る参道にあたる道はみたけ通りと名がついている。

鳥居をくぐって手水舎の脇には梟の石碑が見える。池袋の袋と鳥の梟の発音が似ていることから、梟を街のシンボルとし、また梟は苦労を取り除き、福を呼び込む神として、梟のお守りを授与しているという。尚御祭神は日本武尊、神武天皇(神日本磐余彦命)、建御雷命。

 

社記によれば正親町天皇乃御代天正年間(1573-1592)頃の創建とされ、貞享四年(1687)に社殿が創建されたという。また口碑によれば甲斐の国武将武田勝頼の家臣団が甲州よりこの池袋の地に逃れ、持参してきた神宝でこの地に神社を造営したという伝承も残るという。

 

嘉永六年(1854)に社殿が造営され、幕末から明治にかけ職業絵師による大絵馬が奉納されていう。昭和十三年に村社に格付け。昭和三十四年社殿改築、その後神輿の新調、神楽殿の移設等、境内整備事業が進められている。

境内社に子育稲荷が祀られている。戌の日の安産祈願が盛んのようだが、案内板のでんでん太鼓の記述が目を引いた。

でんでん太鼓とは子をあやす太鼓に紐と玉が連なった玩具のことだが、太鼓の両面で叩いて音がする仕組みになっている。私の神社でも昭和五十年代まで子供へ貸し出すために古いでんでん太鼓が本殿にあったことを覚えている。これは子供が表裏のない誠実な子に育つよう思いのこもった玩具であるという。昔の玩具や道具には様々な謂れがあるものだと感心してしまった。

新宿渋谷と並び高度成長期から三大副都心として栄えた池袋の町は、埼玉県から見るとかつては鉄道の玄関口、或いはターミナル駅であった。平成の期間に鉄道網の整備が進み今では湘南新宿ラインが直通で神奈川の先まで直通運転する時代になった。自分が学生の頃(平成五年前後)は池袋行きの高崎線が通って、渋谷までは埼京線で行くようだった。境内には東武百貨店の奉納石碑も建っていて、駅前の発展を守護してきた歴史を物語っていた。

 

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ドン・ドン・ドン!

2019-11-20 22:57:05 | 物と人の流れ

ドン・キホーテは関東地方中心に展開する総合ディスカウントストアー。(DS)店内で流れる陽気なテーマソングが耳から離れない。北埼玉への出店はここ5年くらいに進んだように思う。加須大桑店がオープンして2か月経つが、午後7時過ぎに買い物(兼売価調査)によるとたくさんのお客で賑わっていた。

 他の流通大手と同じように企業買収によってその規模を拡大してきたという。長崎屋、ドイトといった埼玉県内の小売店舗も吸収されて久しい。自分が若いころのドンキといえば大宮大成店。国道17号沿いの手狭な店舗に、乱雑ながら様々な商品が積まれていたのを思い出す。

 『圧縮陳列』と呼ばれる陳列方法で、隙間なく商品を並べて店内を迷路のようにして「宝さがし」を客に楽しんでもらうというコンセプトだ。

近頃は単にDSの業態としてではなく、食料品に力を入れている。一部生鮮食料品も扱っていて現に店舗1階の最奥部は総菜売り場がメインとなっている。元来のSMでは入り口から青果、鮮魚、精肉、総菜の順にその日の夕食の材料の献立を考えられるように、食材の品目ごとに陳列しているが、ここドン・キホーテではそんなことはお構いなし。残念ながら生鮮食料品(青果、鮮魚、精肉)はほとんど扱いがないが、総菜、加工食品は充実の品揃えだ。恐らく単身世帯が購買の中心になっているのだろう。店内写真が撮れないのが残念ながら、総菜は品揃えも非常に充実している。但し総菜は外部委託でカネ美食品(株)が請け負っていた。元々ありとあらゆるものを扱うDS業態だけに自社で食品加工を手掛けるより、外部委託した方が効率が良いのだろう。

PB(プライベートブランド)は「情熱価格」というブランド。いつからやっているのかわからないが、聞いたところによれば特に日配品などはPBを製造するロットが合いやすく、開発しやすいのだという。加工食品などは十数年前からPBの競争も激しくなっていて、NB品と比較して安くて美味しい、且つ売り手がもうけやすいという利点があったが、近年では改廃も激しく作ればもうかるという時代は終わったようだ。以前であればPB品はメーカー名を隠して売る(販売者しか明示しない)ことが多かったが、このようの販売店とメーカーのコラボ企画というのが流行りらしい。イノベーションは全く0から生まれるのではなくて、現在ある価値が復数重なり、交わることによって生まれるという。時代はまさに「コラボの時代」

これまた流行りの電子マネーを導入している。「マジか」というらしい。いたって面白い。セミセルフのレジも勿論導入していて、「お会計は現金ですか」と聞いてくる。自分くらいの年代だとあれこれ決済機能を増やすことに抵抗を覚えてしまい、「マジか」を購入するのをためらってしまうが、スイカ、ナナコ、ワオンなど大手流通の中で一番応援したくなるカードだ。

 圧縮陳列については15年ほど前、店舗の放火事件の際延焼の原因となったしまったことがある。店舗の従業員が死亡し大きな問題となった。現在では店内の宝さがし感を残しつつ安全を確保した陳列となっている。

 

小売り業を取り巻く環境も年々厳しくなってきている。出る杭は打たれるの言葉通り、昨今小売業の成功事例とされたきたセブンイレブンがフランチャイズの運営方法を巡り、叩かれている。深夜営業もCVだけではなく、SMもDSも需要に応じて展開するべきだろう。勿論法令や社会常識を逸脱した運営は叩かれてしかるべきだし、そうした手法の上に好業績を積み重ねてきたのなら、長続きはしないはず。自由な発想で顧客に対して購買意欲を引き出させ、結果楽しい買い物で、売り手も利益が出せる。そんな店がこれから先残っていくに違いない。

 

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羽生市 白山神社

2019-11-18 21:00:28 | 神社と歴史

 坂東太郎の名の通り、ひとたび大雨となれば普段の穏やかな流れが噓のように濁流となる利根川。先日の台風19号の際には危険水位となり、行田、羽生、加須と北埼玉の各地流域市町村でも避難指示が相次いだ。

 羽生市上新郷の白山神社はその利根川堤沿い、川俣関所の西に建っている。

現在では田んぼと資材工場に囲まれ、地元の人以外ではその場所すらなかなかわからないようなところだ。実際自分もたどり着くまで周辺を車で巡りながらなんとかたどり着いた。利根側堤防から社殿を見下ろすと、近年場所を移した様子が良く分かる。堤防補強工事によって明治三年にも移転しているという。川の流れに翻弄されてきた地元の歴史を映しているようだ。

 雲一つない澄み切った青空に白い社号碑が凛として建っていた。川俣関所から近いことからも、当地は忍、羽生の領から日光館林への街道筋にあたり、馬継の場所であったという。氏子新井宗治の私記の中に『白山妙理大権現縁起写』として神社創始を伝える話が残っているという。

 豊臣秀吉臣下の武将、加藤清正は賤ケ岳七本槍の一人として名を馳せ、朝鮮にも出兵し、後の熊本城主となった治水、築城の名手である。清正が家康の命により江戸に出向いた際、館林城主榊原康政を訪ねた後、江戸へと戻るとき利根川の渡し船の途中病となる。宿を探して家臣皆右往左往すると、羽生の当所で道端にて焚火をして湯を立てている老人に出くわす。その湯を飲むとたちまち正気を取り戻した清正は、江戸へ向けて出立する。

 その晩清正の夢にこの老人が現れると「我は白山権現なり。病を馬に移す』といって消えたという。翌日清正一行が屈巣村(旧川里村)に着く頃に愛馬が急に死んでしまった。昨夜の出来事は夢ではなかったと慌ててこの地まで戻ると、そこには焚火の跡もなく誰もいなかったという。清正はその老人が白山権現であったことを悟り、佩刀を納めて神社を祀り白山神社としたという。

 加藤清正の娘は館林城に嫁いでいて、この地に足を運んだ可能性は高く、伝承としてはあり得る話であるようだ。尚馬が死んでしまっ屈巣には馬頭観音もあるようだ。

御祭神は菊理姫命、伊弉諾尊、伊弉諾尊。

古くから庚申講が盛んで、昔は庚申様の軸を掛けて夜を明かしたという。また二月にはひょっとこ祭の行事があって行田の白川戸、皿尾のひょっとこ芝居が招かれたという。尚上新郷の鎮守は愛宕神社である。

移転前の旧社殿に纏わる写真が「埼玉の神社』に残っている。

 氏子の参拝について述べたもので、先ず神社に参り一拝する。続いて右回りに社殿一巡して表に出た後、半回りして社殿裏に回ると笹の葉を取って壁に差し込み、トントンと壁を二回叩いて再び表に戻る。更に一巡して表に来て一拝する。平素から行われる参拝形式で、古くからの在り方を伝えているという。通常神前での参拝方式は「二拝二拍手一拝」というが、これは戦後推し進められたもので、古くは神前で静かに手を合わせることも多かったという。

 

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七五三と千歳飴

2019-11-15 23:57:56 | 神社と歴史

11月15日は「七五三」。子供の成長を感謝し、神社に参拝する年中行事とされている。昔は「七歳までは神の内」と言われるほど子供の死亡率が高く、子供を無事に育てることは大変だったため、節目節目に神に感謝し、健やかな成長を祝うのが慣例であった。

 昔は三歳になるまで髪を剃ってていて、11月の吉日から髪を伸ばす風習があった。男女共通で祝う「髪置き」の儀

 五歳で始めて袴を着る男児の「袴着」の儀

 七歳で大人と同じように帯を使うようになる女児の「帯解き」の儀

地域や時代によって異なるが概ね三歳で男女、五歳で男子、七歳で女子を祝う風習であるという。

起源については天和元年旧暦11月15日、徳川五代将軍綱吉が長男徳松(館林城主)の健康を祝って始まったとされる。元は関東地方の風習が全国に広まっていったという。

七五三参りに神社に参拝した子供らが手にするのが千歳飴。その始まりは東京神田明神だという。千歳とは即ち千年、長生きを意味し、高級食材であった砂糖を使用した紅白の飴を伸ばすことで長寿の願いを込めたという。

初宮参り、成人式、還暦などと共に、七五三は古くから続く年祝いの年中行事として現在に伝えられている。

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