皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

荻野吟子とその生涯

2019-04-26 00:07:56 | 史跡をめぐり

新年度となって早ひと月。平成の御代も残すところあとわずかになりつつある中、桜の花と卯月の時を惜しむように今月は無我夢中で各地を旅してきたように思う。その一つ一つを丁寧に心に刻み自分の生きた証として書き留める、或はこうしたSNSを通して残していこうと思っているが、なかなか筆も進まず思うようにいかない。齢四十をとうに過ぎ、不惑どころか干支も一回りもすれば赤い半纏を纏うころ合いに思うことは、やはり日々の暮らしのありがたさを感じ、人に伝えることだと確信している。

先日仲間と妻沼聖天堂の秘仏開扉に訪れた際、帰路の途中「荻野吟子記念館」に立ち寄ることができた。旅の行程にあったわけではなく、途中どなたかがこうした記念館があり、ぜひ見に行こうと誘っていただいたおかげだ。埼玉ゆかりの三偉人に数えられる荻野吟子女史の生涯をまとめた小さいが大変立派な館で、地域ボランティアの方の説明をきくことができた。

女史の生涯にあまりに感銘を受け、即座に渡辺淳一著「花埋み」を読み出し、その生き方に衝撃を受けた。時代背景と共にこうした時代にひたすら懸命に生き抜いた姿にただただ夢中で読み進めた。

嘉永4年(1851)吟子は利根川近くの旧家に生まれた(現熊谷市俵瀬)。上川上の名主稲村貫一郎と結婚するも、夫に淋病をうつされ、実家に戻され離縁する。東京に出て大学東校(東大医学部病院)で治療を受けるもその間男性医師に局所の診察を受けることの羞恥により、そのような恥辱を同性たる女子に与えぬよう女医を目指すこととなる。当時女性が医師になる道はなく、容易に道は開けなかったが、周囲の助けを借りながら医師となり、社会活動(女性の地位向上など)にも参画するようになる。

一流子女、女医としての名声を得るもやがてキリスト教を通じて13歳下の男子学生(志方之善)と周囲の反対を押し切って結婚。夫の理想郷実現のため未開の地北海道へ渡る。伝道に従事しながらも彼の地で事業に失敗した夫に先立たれ、孤独の身となる。磨いてきたはずの習得した医術は北海道開拓の期間にすでに時代遅れとなり、失意のまま帰郷し姉友子や養女トミに看取られながら62歳の生涯を閉じる。

まさしく波乱に富んだ一生であったと言えます。

洗礼を受け敬虔なクリスチャンであった女史が好んだ聖句が表紙や幕に記されています。

人その友のために 己の命をすつる 之より大いなる愛はなし

その生い立ちから家族はもとより友にもおおなる愛情を注ぎ、寂しくも最後までその生涯を全うした荻野吟子女史。

女史の思いに寄り添いながらただ祈るだけの時を今過ごしている。

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浦和区 調神社②

2019-04-25 22:55:33 | 神社と歴史

サッカーの街浦和区、調神社には氏子の間七不思議と語り継がれる伝承逸話があるという。

①鳥居がない事。先述の通り、かつて調物を納めた御倉と祀った社であることから、それらの搬入に妨げとならぬよう神門や鳥居が取り除かれたという。大和国一宮大神神社に代表されるように御神体が自然の姿であるところは所謂、本殿がないという形式は多くみられるが神域を示す鳥居がない神社は特殊である。神社の創建に関わる伝承でとても興味深い。

②境内に松がない事。

御祭神の天照大御神が境内の松で目をついたため松がないという。また弟神、素戔嗚尊が大宮(氷川神社)にいったまま戻らないことから「待つのが辛い」として松を植えないという。

こうした逸話は非常に多く、各地で見られる。同じようにとうもろこしで目を突いたため植えないといった伝承も各地に残るが、これは農地の転用を戒める意味合いがあると考えられる。

③御洗瀬のこと

飛地にある境内地の御手洗瀬の瓢箪池に魚を放すと必ず片目になる。

こうした沼地の片目、片葦伝承も多い。忍領においては埼玉小崎沼におなじ伝承が残っている。この地に鍛冶師が住み着き、長らくの仕事で片目が見ずらくなったことを伝えたとされている。

④使姫兎のこと

神の使いとして兎を敬い御眷属の像として祀った。氏子は神使いとして決しって食することがなかったという。

⑤日蓮上人駒繋ぎ欅の事

日蓮上人が佐渡への流罪の時差し掛かると、名主青山家の妻女が難産で苦しんでいたので境内の未申の方角にある欅の大木に駒を繋ぎ曼荼羅を掛けて安産祈願すると、楽に男子が生まれたと伝わる。

弘法大師と並んで日蓮上人の伝承も数多い。没後の日蓮宗の教義と共にこうした逸話を伝えながら、布施を募ったことが窺える。未申は南西方向を指し鬼門の北東方角(丑寅)の反対方向であることから裏鬼門と呼ばれ、忌み嫌われる方角である。

⑥蠅がいないこと

⑦蚊がいないこと

国学者平田篤胤の「調神社考証」によれば神宮への奉納を集める倉を清浄と尊ぶことから

境内にこうした虫を寄せ付けないという。

埼玉の中心駅から僅か10分ほどの清閑な場所にこうした逸話や伝承が残る古社が泰然と鎮座していることが埼玉の良さの一つだと感じる。

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浦和区 調神社①

2019-04-25 22:09:10 | 神社と歴史

旧浦和市岸町は大河の中州であったところを示す浦曲(うらわ)とその河岸の地を表している。

境内には大きな欅が残るが、ケヤキは古い名を「ツキの木」(槻の木)と呼び社名との深いかかわりを持つという。

月の神として信仰され、御祭神は「江戸名所絵図」には月読命とあるが現在では天照大御神、豊受大神、素戔嗚尊を祀っている。

また月の神の起源には諸説あり、その一つに「乙巳の変」(645年)の後に進められた孝謙天皇の諸改革(大化の改新)により租税制度が改められ、「租、庸、調」として定められた「調」にあたる税で7世紀後半には成人男子の人頭税として繊維などを納めたものをいい、これを入れる御倉を「調神」とした説がある。

 また社頭の掲示によれば、第十一代崇神天皇の勅命により、神宮斎主、倭姫命がこの清らかな地を選び、神宮に奉る調物を納める御倉を建て、武蔵野の初穂の集約運搬所として定められたという。然るにその運搬搬入の妨げとならぬよう鳥居、神門の類は除けられて今に至るという。

倭姫命は日本武尊命の叔母にあたり、命の東征に際し天上から賜った草薙の剣を授け、日本武尊命の窮地を救ったとされる。(命が国司の反逆で火討ちに会い、草薙の剣で燃え上がる草を払った地が静岡県の焼津だという)

後に調(つき)が月読神に転じて月待信仰の対象となった。中世から近世にかけて多くの文人も参拝していて、寛政三年(1791)小林一茶は深い杜に鎮まる「月読み宮」に参ったことを紀行に残している。

 月に因んで神社の神使は兎であり、狛犬の代わりに幾処にも兎像が納められている。

「埼玉の神社」によれば古来より氏子の間で『調神社七不思議』として語り継ぐ伝承、逸話があるという。

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白良浜の甲羅法師

2019-04-16 23:43:03 | 昔々の物語

南紀白浜の地名の由来となった美しい砂浜の広がる白良浜海岸。そこにはこんな逸話が残っています

昔は白良浜の周りにたくさんの田んぼがありました。村には彦左といふ百姓が住んでいて、たいそうな働き者として知られていました。そんな彦左は村一番の角力取りとしても知られていました。

そのころ白良の浜には甲羅法師(かっぱ)が住んでいてこどもの足を引っ張たり、夜な夜な陸に上がっては畑の大根を抜くなど悪さをしていました。

ある夏の夕刻、西の海に赤い夕日が沈み、薄暗くなったころ、仕事を終えて帰ろうとしたさ彦左は「ひこざ、ひこざ」と浜辺で自分の名を呼ばれます。「おーい」と返事を返すと海の中から丘へ上がって来るものがいます。そう、甲羅法師でした。悪さをする河童を懲らしめようと彦左は「良いところで出会った。一つ力自慢に角力をとろう」と申し出ます。甲羅法師も腕に自信があり「よし、角力をとろう」と答えます。

二人は組み合うと力自慢の彦左は甲羅法師(河童)を浜に投げつけました。ひっくり返った甲羅法師は頭から血を流し、「もう悪さはしない命だけは助けてくれ」と涙を流して謝りました。

彦左は「命を助けてやるがこれからは二度と陸に上がることはするな」と甲羅法師に約束させます。そして「万が一白浜の砂が黒くなり、沖の四そう島に松が生えるようなことがあれば陸に上がってもよい」と諭します。

そののち甲羅法師は陸に上がろうと白良浜に墨を塗りましたが波に洗われて消えてしまいます。また四双島に松を植えますが波に流されて消えてなくなります。

こうして甲羅法師は丘へ上がることはなくなったといいます。

悪さをした河童がただ海に帰るのではなく、希望を持たせつつかなわない儚さを伝える味のある逸話となっています。

鬼、天狗と並んで河童にまつわる伝説逸話も数多いようです。妖怪であるが川と童が相まって河童の語源となったようにどことなく、悪さをするも大人に諭される印象が強いように思います。

九州には河童伝説が多く、壇ノ浦に敗れた平家はちりじりになって九州へ逃れたものの、追っ手に討たれて死んでいった後、その霊魂は河童となり、九州各地で田畑を荒すなど悪戯を働いたと伝わります。

敗れた者の悲しい伝説と言えるでしょう。

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弘法大師と立岩伝説~奇勝橋杭岩

2019-04-16 22:25:24 | 史跡をめぐり

和歌山県串本町は本州最南端の町としてしられ、潮岬など雄大な海の風景に出会える町として人気の観光地となっている。

串本駅から5分ほどの海辺には弘法大師伝説が残る名勝橋杭岩がある。国道42号沿い海岸から対岸の大島にむかって大小40余りの岩が整然と並んで立っている。干潮時にはその中ほどまで渡れるという。

地質学では1500万年前の地質活動で泥岩層の間に流紋岩が流れ込んだものというが、後に浸食により柔らかい泥岩部が早く浸食され、硬い岩が杭状に形成されたものだという。

この奇妙な岩の列に弘法大師にまつわる伝説が残っている。

昔々弘法大師と天邪鬼が熊野を旅していたところ、大師の偉大さに押されていた天邪鬼は、我こそは一番の智慧者だと思い込み何とかして大師の鼻をあかしたいと考え、妙案を思いつく。

「弘法さん、大島は御覧の通り海中の離れ島で、天気が荒れると串本との交通の便が絶え島の人は大変困るというのですが、ここはひとつ大島と陸との間に橋を架けようではありませんか」

弘法大師は「それは良い、それは良い」と早速賛成しました。

天邪鬼は「「二人いっぺんに仕事するのも面白くない。一晩に時を限って橋の架け比べをしましょう」と言い出します。

いかに弘法大師でもまさか一晩で橋を架けてしまうとは出来まい。今にきっと鼻をあかしてやれるぞと天邪鬼は内心喜んでいました。

いよいよ日が暮れて大師が橋を架けることになると、山から何万貫もあるともわからない巨石を担いできてひょいと海中に立てていきます。しばらくすると海中には橋杭がずらりと並びました。

天邪鬼はこの様を見て「大変だこの調子でいくと夜明け前には立派な橋が出来上がってしまう」と困り果て邪魔立てする手立てを考案しました。

「こけっこっこー」と大声で鶏の鳴きまねをすると大師は「もう夜が明けるのか」と自分の耳を疑うと、やはり天邪鬼は「こけっこっこー」

と鶏の鳴き声を繰返します。夜明けと勘違いした大師は橋を架けるのを途中で止めてしまったといいます。

こうして串本の浜の先には大きな岩が並び立ち、列岩の起点には弘法大師の小子が祀られているといいます。、

先述しましたが弘法大師にまつわる伝説は数多い。その数三千とも五千とともいう。誰がどう広めたのか。それは高野聖と呼ばれる諸国をめぐる祈祷の僧が、空海亡き後荒廃した高野山を守るため空海を神格化し浄財を集めたものと言われています。浄土信仰として念仏を唱えるだけで浄土に行けると庶民に広まり、僧たちは井戸を掘るなど各地で救済をして回ったのです。そこで大師の杖で突いたところに井戸が湧くといった伝説が生まれ、各地に伝わったとされます。

今に生きる私たちはついその伝説や景色に心奪われがちですが、本当に大切なのはそうした話を伝える人がいたことであり、弘法大師がそうした人々を育てていたことなのでしょう。

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