皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

二百十日と風の盆

2019-08-30 23:37:18 | 風の習わし時を超え

 明後日九月一日は立春から数えて二百十日。八朔、二百二十日と共に農家の三大厄日と呼ばれる。季節の移り変わりの目安となる季節点の一つで、台風が来て荒れやすいとされる。「二百十日の嵐除け」として農村部を中心に風神祭を行うとことも多い。

大神神社の「風鎮祭」、富山の「おわら風の盆」といった風鎮めの祭りも行われる

 富山県八尾町の「おわら風の盆」はまさに二百十日の九月一日から三日間行われる北陸の祭りで、大勢の観光客で賑わうという。江戸時代から続く祭でゆったりとした踊りで、踊り手が各町内を練り歩く光景は幻想的とされている。踊り手が皆編笠で顔を隠して踊る様子が特徴で、風情が増すという。

漫画『島耕作』の専務編の中で描かれていて、書かれていたのは2007年頃。祭りの様子もさることながら、企業買収に関するテーマで、日韓関係の現在を先取りしているようでとても興味深い。

 実際の二百十日前後は、八月九月の台風の合間で、むしろ気候的には嵐は少ないという。但しこのころ稲の出穂期にあたり、強風が吹くと米の取れ高が目減りしてしまうことから、農家では稲穂の風に注意せよといった習わしが伝わったといわれている。

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葉月

2019-08-30 22:56:13 | 生活

 葉の落ちる月「葉落月(はおちづき」が転じて「葉月」と呼びます。現代感覚では葉が生い茂る様子を思い浮かべますが、旧暦では七月から秋に入るため、秋真っ盛りだったといいます。

近年三重県下では水稲や大豆を害するミナミアオカメムシの発生警報が出されていて、農家の方は駆除に追われているといいます。ミナミアオカメムシはホームベース型の体に台形の頭がついた典型的なカメムシの体系で鮮やかな緑色をしています。幼虫時には暗褐色成長する過程で次第に緑がかるといいます。

 ミナミアオカメムシは昭和50年代までは九州南部や四国南西部のごく一部にのみ生息し、九州北部以降はよく似た体系のアオクサカメムシが広く分布していて両種は住み分けられると考えられていましたが、平成十九年頃には伊勢平野においてもミナミアオカメムシの発生が確認されています。その後北上し重要害虫に指定されています。

 稲の害虫の北進をもってしても地球温暖化がわかるといいます。

 明日で葉月も終わりを迎えます。

 

 

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応援してくれたらうれしいです

2019-08-24 22:46:15 | 心は言葉に包まれて

遠い夢 捨てきれずに 故郷を捨てた

穏やかな 春の日差しが 揺れる 小さな駅

別離より 悲しみより 憧れはつよく

寂しさと 背中合わせの ひとりきりの 旅立ち

動き始めた 汽車の窓辺を 流れてゆく 景色だけを じっと見ていた

サクラ吹雪の サライの空は 悲しいほど 青く澄んで 胸が震えた

8月の終わりに近づくとがこの歌が流れてくる。番組の応援メッセージも毎日流れていた。

総合司会を務めるアナウンサーの声で番組の歴史や近年の慈善活動の内容が説明されていた。一番耳に残るのは「私も一生懸命頑張りますので、応援してくれたらうれしいです」との締めくくりの部分。

善意のご協力をお願いします、と表現されると堅苦しく感じてしまうけれど、応援してくれたらうれしいですと聞くとなんだかそうしたくなる気持ちが生まれてくる。こうした表現方法や番組への賛否はあるかもしれないけれど、何かを応援したくなるというのは人のモチベーションや行動要因になりえるようだ。

 自ら考え行動し、善意の輪が広がることは意味があると思う。夏の終わりの週末にそんなことを考えている。

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加須市 花崎鷲宮神社

2019-08-23 23:22:15 | 神社と歴史

 加須市花崎の地名は、古利根川の流れに鼻のように突出している地形に由来するという。「鼻先」から「花崎」へ、更に埼玉県で初めて甲子園を制覇した名門花咲徳栄高校は神社のすぐ先に校舎を構えている。時代と共に地名が美しく進化しているようで非常に興味深い。

花崎は『鷲宮神社領書上』にその地名が記され古くから開けた土地と考えられているが、上組、下組に分かれていて、上組には曹洞宗牛頭山法泉寺持ちの八坂社が祀られていた。一方下組には鷲明神として祀られていたが明治の神仏分離によって八坂社は合祀されている。よって本殿の主祭神は天穂日命、武夷鳥命、素戔嗚尊の三柱となっている。

更に明治41年には八坂社に関わる仏教色の濃いものは境内で焼かれてしまったという。現在氷川様が末社として大きく本殿裏にお祀りされているのはその名残だろうか。

氏子は花崎全域に及び戦前までは農家が多かったというが、昭和56年以降区画整理によって工業団地等の誘致も進み市街地化が顕著になっている。一方古くからの農家を中心に作神信仰から屋敷神を稲荷神社として大事にするところが多く、本殿にも合祀されている。末社の一つに三峰社も祀られていて、北埼玉の他地域に見られる三峰講、榛名講なども見られるという。

 正月の習わしに三が日には餅の代わりにうどんを打って食べるという。うどん打ちの前には風呂に入って身を清めたともいう。大晦日から三が日まで早朝風呂をたてて近所にもらい湯をする風習は禊の形態の一つとして考えられている。

加須市はここ数年で加須市、騎西町、大利根町、北川辺町と合併し県北東部の中核都市として発展しているが、地形的に考えるとここ花崎あたりまでが鷲宮神社の神領として属す一方、ここから西部にむかうと旧騎西町の大社、玉敷神社が鎮座していて神域的には久伊豆神社の区域になるように思う。よって行田市には登記上『鷲宮神社』はなく、隣羽生市も一社のみとなっている。平安期後半から鎌倉室町にかけて武蔵を中心に勢力を伸ばした武蔵七党の内、私市党は玉敷神社を中心に久伊豆神社を信仰していてその神域は元荒川流域沿いに広がっていて、鷲宮神社との境がここ花崎あたりであったと考えられる。

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忍城 大樋跡

2019-08-21 22:08:55 | 行田史跡物語

 行田市谷郷にある『大樋跡』。市内52か所に及ぶ忍城史跡の中でも一際人の目に付きにくい場所に建っている。行田市総合運動公園前に広がる水田の水路脇にあり、通りにむかって建っておらず、西向きに設置されているためか近くを通ても見過ごしてしまう。

 谷郷の地名は古く中世には谷村、谷の村と書き、その後「谷之郷」とそばれ江戸期後半になって「谷郷村」と称した。「谷」とは低湿な地の意味で、そこに家々が立ち並んでできたことから谷之郷と呼ばれるようになったという。慶長年間(1596)には一八二五石の米が取れたという文献があるという。戦後団地や新興住宅地が増えたが、現在でも春日神社の北西は緑の田んぼが広がっている。

十四代成田顕泰(あきやす)が文明年間(1496-1486)に忍城を築城したと推定されているが、築城に際し農民擁護と新田開発を考慮し、忍の地形を生かして一大貯水池を城の守として縄張りしたという。戦時には自然の水の要塞として機能し、平時には貯水灌漑に利用するという斬新な発想は周囲の豪族たちの協力を得やすかったと考えられている。

星川、利根川の水をこの大樋に集め、第一の貯水池北谷沼に入れ、それを荒井沼と行田町北側に分水し、次に内行田に入れて大沼にため、佐間の天満宮西の樋から沼尻に放水したという。

よってこの谷郷の大樋を締めて、佐間の天神樋、持田側の沼尻樋を開ければ忍沼は干上がり「干沼」となってしまうことから、浮き城の名で馳せた忍城の秘密を握る重要地であった。

十五代成田親泰はこの大樋を隠すために藤原氏の氏神である奈良の春日神社を勧請して谷郷の地に祀ったという。

十七代成田氏長は学芸を愛し連歌の道で歴史に名を遺すほどであったという。天正十五年(1587)氏長は谷郷春日神社へ参拝し武運長久を祈願するとともに拝殿において連歌を奉納している。

むすへ猶霜の花咲神の春      氏長

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