皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

第19回講座はクリスマスコンサート

2018-12-24 22:27:05 | 生涯学習
行田市民大学9期生第19回講座はクリスマスコンサートでした。少し遡りますが20日、行田中央公民館みらいにて開催されました。昨年は都合がつかずに欠席しましたが、今年初めて鑑賞することができました。コンサートとはいえ、講座の一環として出欠もとり、開演前には市民大学の理念も唱和します。
司会総合演出は矢澤智嘉子先生です。行田アンサンブル協会会長を務めていらっしゃいます。写真もさることながら、実際にとても美しい方で、司会進行の会話も楽しくあっという間に時間が過ぎていくようでした。
オペラ『トゥーランドット』の誰も寝てはならぬについて解説があり、その物語を知ることができました。トゥーランドット姫の求婚の条件を満たしながら、拒まれたカラフは姫に、今夜中に自分の名を当てるよう問います。姫は国中の人たちにその者が誰なのか調べてよと命じます。誰も寝てはならぬと。冷酷な姫は解き明かすことが出来なければ皆殺しすると迫りました。
Tokyo物語、昭和懐かしの名曲集では、戦争の焼け野原にあったのは、歌だけがあったとのナレーションが心に響来ました。神社は地域を映す鏡とされますが、歌や音楽は時代を映す鏡と言えます。
師走の日々が慌ただしく過ぎていきますが、こうしたコンサートで心癒されて幸せな1日でした。
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第16回講座は健康寿命と自立について

2018-12-15 11:06:40 | 生涯学習

 行田市民大学9期生16回講座は健康寿命ついて。講師は立正大学名誉教授原田壽子先生です。12月に入っても暖かい日が続き、ニュースになっていましたが、十日を過ぎるころからめっきり寒くなりました。ものつくり大学の木々もすっかり冬の装いになっています。

原田先生は長く立正大学に勤められ、社会福祉等のご専門から介護保険の導入時には行政の委託を受け熊谷市における介護認定等にも携わったとのことです。お住まいは都内で、行田にはあまりいらっしゃらなかったそうですが、空気が澄んでいたせいか講義の日の美しい青空に驚かれていました。

2年間このキャンパスに通い、四季の自然に触れる中で田舎特有の青く美しい空の下様々なことを学ぶことができ本当に良かったと感じています。とても活動的な原田先生の生き方はー風の様に歩くーということです。止まってはいけない。人生の終わりまでかしこく、自立して生きるにはどうしたらよいのか。そう言ったテーマをとても熱心に語られていました。

2018年9月現在百寿者(centenmarian)の方は69785人。1963年にはわずか153人ですので、長寿に関する常識は昔と比べれば全く変わったと言えます。総人口に対する高齢化率は28.1%で2040年には35.3%になると予測されています。三人に1人以上が高齢者の時代。都内での行政区ではすでに70歳では長寿の祝いはされないそうです。高齢化にていての問題は、1974年に7%を超え、1994年には15%となり、この間僅か20年しかなかったことで、社会の制度設定が追い付かなかったことだそうです。西欧諸国が80年から100年かけて高齢化を迎えるのに対し、日本は20年。また韓国はさらに短く10年で高齢化に対応しなければならないそうです。

平均寿命男性81.09歳に対し女性は87.26歳。また健康寿命は男性72.14歳で女性74.79歳。健康寿命とは心身ともに健康な状態を指し、反対の側面から見れば女性で13年、男性で9年日常生活に支障がある『不健康寿命』の期間があるということです。ですので平均値からすれば私の健康余命は26年。不健康寿命9年。そう考えて日々生活していくことが大事です。

先生の講義の中で重要なフレーズを覚えて帰るようにと言われましたが、ともかく二つは印象に残りました。①老化とは即ち運動不足であること。②廃用性症候群とは心身ともに使わなければ退化すること。前提として③無駄で有害な安静はとらないこと。

介護保険がスタートした際、介護支援はその支援度を下げることが目的であったのにも関わらず、支援を受けることによって自分のできることが少なくなってしまうことが見られたそうです。難しいところですが、その判断は状況に応じて変わるだろうし、介護や医療の現場の方が難しい選択をしていることは感じます。

この70年で社会の構造や期待される理想とされる社会像は大きく変わったたといえる中で、人生の終わりは最後まで自分で判断し、自分で決めることだといいます。

ー人生の終わりまで主体的に生きるー

そう結んでいました。

終わりに外出の際は装いを美しく、はつらつと出かけなさい。中身と外見は連動する。自立するためには子供と暮らすなといった提言も受け、見につまされる思いで聴いていました。

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越すに越されぬ田原坂

2018-12-13 00:34:20 | 神社と歴史

いよいよ今年も残すところあとわずか。大河ドラマ「西郷どん」も今週の放送で最終回を迎えます。前回の放送で西南戦争が描かれ、田原坂、吉次峠の戦いも出ていました。

豪傑節とも呼ばれる『田原坂』の歌も西田敏行さんのナレーションのもとで寂しくも読まれました

『雨は降る降る人馬は濡れる、越すに越されぬ 田原坂』

政府軍の主力は熊本城に籠城し、唯一大砲が通れる田原坂を通ろうとしたことで、それを阻止しようとした薩摩軍との壮絶な戦いがあったとされます。連日の雨で濡れると使えなかった旧式の銃しか持たなかった薩摩軍が日本刀による接近戦で優勢であったところ、政府軍が『警視抜刀隊』を投入し、押し返した様子が描かれていました。薩摩同志の殺し合いになったことで知られています。

『田原坂』のドラマといえば昭和の末に放送された日本テレビの年末時代劇スペシャルがありました。『忠臣蔵』『白虎隊』などと並び、当時の年末の大作ドラマでした。当時中学生だったころで、かすかな記憶しか残っておらず、ただ5時間を超える大作でたくさんの人物が登場していたのを覚えています。

戦に天候と地形は重要な要素で、多くの歴史的な戦で検証されています。天候により軍の士気も影響されたこともあったことでしょう。この地を守り抜く理由は何だったのか。冷たい雨にぬれ、重なるように倒れていく兵士たち。

『右手(めて)に血刀 左手(ゆんで)に手綱 馬上豊かな美少年

春は桜秋なら紅葉 夢も田原の 草枕』

と続くそうです。いつか訪れてみたいとおもいます。

 

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三本締めと行田締め

2018-12-11 22:16:53 | 風の習わし時を超え

『ぼーと生きてんじゃねーよー』は今年の流行語大賞のノミネートフレーズ。番組はNHKのチコちゃんにしかられる。今全盛のクイズバラエティー番組だ。好奇心旺盛な5歳のチコチャンが岡村隆史をはじめ大人の解答者に疑問を投げかけるという設定で、わからない大人に例の決め台詞を浴びせるのがうけている。先週土曜日に初めてみたところとても面白く、4年生の長男は食い入るように見ていた。オンタイムは金曜夜だが、翌土曜日の午前に再放送されている。オンタイムより再放送の方が視聴率を稼ぐらしい。土曜の朝に子供と休みの親、うまくすればその祖父母が同時に見るらしい。三世代視聴率が上がれば番組の視聴者層が広がり、反響も大きいという。流行語になるのもうなづける。

かつて民放の人気番組を手掛けたプロデューサーがフリーに転身して制作にかかわっているという。こうした教養バラエティーのはしりは、フジテレビの『たけしの平成教育委員会』の様な気がする。キャラクターの声がどことなく似ている。

前置きが長くなったが、先週のテーマに三本締めの謂れについて取り上げられていた。祭りや株主総会など、催しの最後に参加者が手を叩いてその式典が無事に終わったことを祝う風習のことだ。手締めの音を『シャンシャン』と表現し、質疑応答なしに形式だけの株主総会を『シャンシャン総会』と揶揄することもある。手打ちによって締めるが語源とされ、関西では手打ちともいう。主旨は取り仕切ったものが無事の終了を感謝するため、来賓者に音頭を頼まないことが習わしとなっている。チコちゃんに叱られるでは、ここを間違えと指摘するクイズになっていた。また手締めの始めの掛け声は『せーのっ!』ではなく『いよ~』が習わしという。『祝おう』が転じたものらしい。こうした言葉の変化は日本語らしく知るとことのほかうれしいものだ。更に『お手を拝借』などの表現もつけると尚よい。

 一本締めの意味は『シャシャシャン、シャシャシャン、シャシャシャン、シャン』と三回、三回、三回プラス一回と手を打つことにより九に一を加えることで、丸く収まることを表しているという。拍手は喜びの表現で、赤子が手を叩いて笑うのことのように、人間本来に備わった表現ともいわれている。またこの手締めを三回行うことを三本締めと言い、本来は三本締めが祝いの正式の形のようだ。

近江商人の商売理念に『三方よし』があり「売り手良し、買い手良し、世間良し」という。三本締めも同じで、神社の祭祀であれば、年番、氏子、神職(神主)に対して祭の後に手締めを打つ。

この手締めの後に直会となるわけだ。

ところでこの手打ち、手締めには地方性があり、江戸締め、大阪締め、名古屋締め、伊達締めなど様々あるようだが、私の住む町忍藩には行田締めと言う伝統的な手締めがある。勿論三本締めではあるが、一本の手締めの音が十叩きではなく、八叩きである。

「いよー、シャンシャンシャン、シャシャシャンシャン、よ~シャン」のリズムで手が打たれる。末広がりの八叩き。素晴らしいリズムだ。恐らく行田市内の祭りや催しは全てこのリズムで打たれていることだろう。「和装文化を足元から支える、足袋蔵のまち行田」日本遺産の構成要件に加えてみてはどうだろう。

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新宿総鎮守 花園神社

2018-12-08 20:38:07 | 神社と歴史

 

 新宿という地名は各地にあり、既存の宿場に対して新たに宿場が作られた場合につく地名であるという。また読み方も様々で、東京始め多くは「しんじゅく」と呼ぶが忍領の南、北足立郡鴻巣市旧吹上町では「しんしく」、川越藩においては「あらじゅく」と呼ぶ。日本の地名は読みも難しいものだ。新宿駅に初めて訪れたのは高校1年の時。ちょうど三十年前のことで、駅のホームで記念写真を撮ったことをよく覚えている。紀伊国屋書店で本を買い、知識ではなく都会の空気を吸い込むために埼京線に乗ったのが昨日のことのようだ。

紅葉の色付き方も北武蔵とは半月違いのようで、まさに銀杏の葉が散り始めた頃だ。東口を出てアルタ前を過ぎ少し歩くと朱色の美しい社殿が目に入る。花園神社は新宿の総鎮守として内藤新宿における重要な位置を占めてきた神社であると御由緒にある。

元禄十一年(1698)信州高遠藩主内藤氏の下屋敷に甲州街道の宿場として内藤新宿が設けられたのが「新宿」の始まりという。更に前には内藤清成は家康の小姓として使え、東照公入府に先立ち後北条氏残党に対する警備のため、甲州街道と鎌倉街道が交差する新宿二丁目付近に陣を敷いたという。この働きが認められ内藤清成は新宿一帯を拝領し、清成が率いた鉄砲隊は慶長七年(1602)に伊賀組鉄砲百人組として大久保に配置され、百人町の名のもとになったという。

 

古来より稲荷神社と称したが、享和三年(1803)内藤新宿下町より壮麗な額が奉納され、花園の名称が見えるという。これは神社の社地が元尾州家の花園であったとの伝承に由来するそうだ。文化文政期の古文書等に花園稲荷神社と記され、昭和四十年の社殿建設に際し花園神社と改名している。この時に合祀されたのが大鳥神社で、その昔日本武尊が東征の折、武蔵国南足立郡花又村に立ち寄り、没後神社が造営されたという。江戸期において日本武尊の御命日にあたる十一月酉の日に例祭を行い『酉の市』と称した。開運招福を信仰とし、新宿の発展と共に山の手随一の賑わいになったという。

靖国通りに面した鳥居の脇には唐獅子像が奉納されている。江戸期高遠藩内藤家の下屋敷だった新宿御苑は屋敷内で唐辛子を作ったとされている。『新編武蔵風土記稿』にもその様子が記され、新宿から大久保にかけての畑が真っ赤に染まったといわれている。その縁か文政四年(1821)に氏子による唐獅子像の奉納がされており、狛犬の代わりに参拝者を迎えている。

境内中ほどに建つ石灯籠は寛政四年内藤新宿の名主高松喜六が代表となり旅籠一同が災禍消除を祈って建立したものと言われている。火事と喧嘩は江戸の華と謡われるように幾度も火災に見舞われながら社殿を復興させ、戦後も大都会東京の交通の要として発展した新宿の町。この街を見守るのは高くそびえる東京都庁の展望台ではなく、美しく色付いた樹齢300年を超える銀杏の木と朱に輝く花園神社のほうだったのだろう。

 

 

 

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