皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

熊谷市池上 古宮神社

2022-04-27 21:18:02 | 神社と歴史

池上は中世埼玉郡内にあった池上郷の遺名だという。当地が荒川扇状帯にあり下流に当たる部分に低地帯が広がっていたため、古くは荒川はこの地の下にてその流路を変えていた。このため流れの跡には多くの池が生じたとも言う。このことが池上の地名となったと考えられている。
風土記稿によれば「岩倉社」と称し幕末に掲げられた社号額には「古宮神社・岩倉大明神」とかかれていて古くは岩倉社であったことがわかる。
岩倉とは「磐座」のことで神の座る堅固な石を表し、すなわち神の鎮座する場所のことである。古代信仰の様子を伝える形態で神社として神が社殿にまつられる前の祭祀であり、創建が古いことを物語る。古宮神社たる所以であろう。
古宮神社は古代和歌山県にある日前国懸神宮(ひのくまくにかかすじんぐう)を勧請したものであると言う。御祭神は石凝姥命(いしこりどめのみこと)記紀神話にある天岩戸神話にでる鏡を作った神である。この天岩戸神話に登場する神々は非情に重要で、後に天孫降臨に際して邇邇芸命(ににぎのみこと)にしたがって地上に降り、古代祭祀を司る一族の祖となっている。
ではなぜ紀伊の国一の宮日前神宮、国懸神宮の御祭神である石凝姥命がこの地に勧請されたのかについて、「埼玉の神社」では次のように記している。
埼玉郡は武蔵国の古代文化の中心で、稲荷山古墳の金錯銘鉄剣の出土からわかるように、この地方に神部と呼ばれる鏡や鉄器を作る一族が拠点とし、岩倉社を祭祀したとのではないかと推察している。
鎌倉時代には成田家の六代に当たる助広がこの地を拠点とし、池上藤兵衛と称して古宮神社を崇敬したとも伝わる。成田家の勧請した上之雷電神社とはすぐ近くの距離である。助広は太郎を名乗り社殿を再建するなどして、以来古宮神社は池上郷総鎮守となっている。
室町期の文安二年(1445)の五月五日に少名彦命と武甕槌命を相殿として勧請する。また社家である茂木家の祖先茂木大善は京都石清水八幡宮に奉納された獅子舞を拝観しこれを習得して伝えたと言う。主祭神の石凝姥命が女神であることから婦人の信仰も厚く、相殿の少名彦命が医薬の神であることから病気平癒の祈願も多い。
五月五日に行われる疫神祭は獅子頭をつけて氏子区域を廻る。五色の幣束を配りながら各家を巡り、村境に疫神徐けの神札を付けた竹を立てる。これがすむと一同が後ろを振り返らず神社へ帰り行事を終えるそうだ。
私の奉仕する皿尾久伊豆神社の疫神祭も同じ時期、同じような祭事として行われている。
ぜひ一度古宮神社の疫神祭の様子をみてみたいと思っている。
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熊谷市源宗寺 平戸の大仏

2022-04-25 22:01:40 | 寺院と歴史

熊谷市平戸の源宗寺の開祖は当地の名主を務めた藤井家の祖先である藤井雅楽之助であると伝わります。また源宗寺は官や当時の権力者の寄進を受けずに建立を果たした私寺であるそうで、江戸時代には近村の村々を中心に信仰を集めました。
江戸初期から平戸村の名主であった藤井家。開祖雅楽助は肥前国松浦郡平戸島の出身であったそうです。長崎県沖合島の平戸島の歴史は古く、遣隋使遣唐使のころから寄港とし開け鎌倉後期には元寇の襲来を受けています。中世天文年間にはポルトガル船が来航し南蛮貿易の拠点として発展し、宣教師ザビエルが布教を広げた場所としても知られています。
慶長13年(1608)には検地に来た役人を藤井雅楽助が案内した記録があるそうです。また雅楽助は源宗寺の建立のほかに平戸より住吉大明神を勧請しています。
源宗寺本堂に安置される二体の大仏は江戸中期に制作されています。向かって右が「薬師如来像」(高さ3.48m)左が「観世音菩薩座像」(高さ3.93m)木造寄木造としては埼玉県内最大規模で、全国的にも珍しいといいます。
内陣の蓮華座上に祀られた立派な大仏。薬師如来像は禅定印に手を結び、観世音菩薩座像は左手に持つ蓮華が失われているが両像とも全体の造形美が非常によく維持されています。
昭和三十年頃に確認された棟札には、仏師は頓誉宗円と江戸弥兵衛が担い、漆塗り、金箔押を中村喜平と沼黒村の太兵衛が担当したといいます。
また令和三年十月の調査では薬師如来像内から「寛文三年(1663)仏師松田庄兵衛」の墨書きが発見されています。
二体の大仏の胎内に収められていたとされる「秘伝書」は神経痛などの妙薬として周知され、昭和四十年代までこれを求める人々が絶えなかったといいます。
平成31年に源宗寺改修事業を担う組織として本土修理委員会が始動し、多くの浄財や寄付を集い見事本堂が美しく改修されました。奈良の東大寺に倣い、屋根には古代寺院建築が施され、新たな時代へと継承されようとしています。「千日堂」と呼ばれるにふさわしい本堂を拝し、多くの人々へその信仰の歴史を伝えようと多くの方々が集い力を会わせる様子が境内地全体から伝わってくるようです。
尚、仏教用語としての大仏はの基準は一丈六尺(5m)以上とされており、この基準に満たないことから「平戸の大仏(おおぼとけ)」と称します。
私の忍領皿尾村からわずか離れたところにこのような立派な大仏が鎮座することも知りませんでした。たまたま熊谷市街地へと向かう途中、交通規制の迂回路で源宗寺を通りかかり、またお参りの最中、お寺の世話人様と思われる方が本堂をあけてくださり、おおぼとけを間近に拝むことが叶いました。すべては輪廻の巡り合わせ、繋がるご縁に感謝するばかりです。
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双六の極意

2022-04-21 21:58:27 | 政を為すは人にあり

もっとも頼りになる者がもっとも恐ろしい。
鎌倉殿の十三人では史実通り、上総介広常が謀反の疑いをかけられて誅殺された。頼朝の非情で計算深い一面がよく現れていた。
広常が討たれたのは、梶原景時と双六を興じた後のこと。景時も生かすか殺すか思案に明け暮れ、その双六の結果で広常の命運つきるとするシナリオが描かれていた。広常の脇差しを事前に抜く善児。なすすべなく討たれ、「武衛!」と叫ぶ広常の最後の姿が虚しい。

双六は古代から多くの人々が興じ、その運や技に魅了されてきた。徒然草のなかに双六に対する兼好の考えが記されている。
双六の上手といひし人に、その行(てだて)を問い侍りしかば「勝たんと打つべからず。負けじとうつべきなり。いづれの手かとく負けぬべきと案じて、その手をつかはずして、一目なりともおそく負けるべき手につくべし」といふ。道を知れる教え、身を修め、国を保たん道もまた然り
(訳)双六がうまい人にそのやり方をきいたところ「勝とうとしてうってはならない。負けないように打つべきだ。どの手を打てば早く負けるだろうと考えてその手を使わず、少しでも遅く負けるようにすればいい」
兼好法師はこれを「その道をよく知った教え」と合点が行き、身を修め、国を治める道もまた同じと説いている。
政治家が「国を良くする」といってよくなることは少ないという。よい国がその人にとって都合のよいに過ぎないことが多い。夢や展望を語ることは大事だが、間違った方向に多くの人を向けないことが肝要だという。勝つことではなく、負けないこと。さらには負けるにしても、すぐには負けないこと。石橋を叩いて渡る人の方が政には向いているらしい。現代にも当てはまることのようだ。
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じゃがいもか馬鈴薯か

2022-04-21 21:05:22 | 食べることは生きること

弥生に植えたじゃがいもの芽が出ている。今年は早めに植え、芋掘りを迎えるのを楽しみにしている。
馬鈴薯は江戸時代16世紀末に日本に伝わったといいます。「馬鈴薯」とは中国語の表記ですが、本場中国では違うものを指すようです。馬の首につける鈴ににていることから名前がつけられたといいます。

一般的には「じゃがいも」と呼びますね。馬鈴薯と名付けたのはある学者立ったそうですが、もともとは「ジャガタラ芋」と呼ばれていました。ジャガタラから伝わった芋。現在のインドネシアの首都である「ジャカルタ」のことです。
伝わった国の名をつけることはよくあることのようで、「カボチャ」の語源はカンボジアであることはよく知られています。
じゃがいもの産地と言えば北海道ですがその出荷量は78%近くになるそうです。産地を南から北へと移しながら季節を問わず一年を通して食卓に並びます。もっとも知られた銘柄である男爵芋は明治の末期北海道の農場主川田龍吉男爵がアメリカから輸入したことから「男爵いも」名が付きました。

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卯月の花手水

2022-04-20 21:15:48 |  久伊豆大雷神社

四月も二十日を過ぎ、天候もなかなか安定しない日が続いています。二十四節気の穀雨を迎え、桜のあとの暖かさから一転、雨で気温も下がっています。

ここに来て植え替えたキンセンカが花開き、水に差すときれいな花弁を広げてくれます。

社務所(自宅)にいると参拝の方とお会いすることができますので、声をお掛けして本殿に昇殿参拝していただくこともあります。本日もお二人御上がりいただきました。

花手水も自前の花だけを使っておりますので端境期でなくとも豪華なものはできませんが、工夫次第できれいに仕上がると嬉しいものです。

休耕田のタンポポ一色で仕上げた花手水です。
これからも気ままにそれでいて季節を感じられる花手水を続けていきたいですね。

たんぽぽの花言葉は「幸せ」「真心の愛」
ただし白い綿毛になると「別れ」を意味するそうです。
花ひとつとっても奥が深いようです。
コメント (2)
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