皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

こんなときに、こんなときこそ

2022-01-31 23:10:40 | 日記

令和四年もコロナウィルス感染拡大と終息の狭間で社会が大きく揺れている。連日の新規感染者数と病床使用率、ワクチン接種の進行具合と数値化することで現状が分かりやすく伝えられている。
でも果たしてそうか。蔓延防止等重点措置と緊急事態宣言。こうした人の行動を制限することによって、終息に向かうかというとどうもそうではないらしい。もちろん感染は人から人へとするものであるから、人との接触をなくせば感染者数は下がるだろうが、それを現状維持できるかどうかは見通せない。報道のあり方、法律上の取り扱い基準、行動制限に対する強制力と保証の問題。多くの要因が絡み合って、進むべき方向性が定まっていないとみるべきだろう。

コロナ禍において規制を受けているのが飲食店。飛沫感染の温床と見なされ、規制の対象となりアルコール類の提供中心に営業時間も直接的に規制対象となっている。
昨今長引くコロナの状況下で、結婚式を迎える人たちの苦労が伝えられてもいる。前もってゲストを招待する難しさがコロナ禍でひときは
目立つ。学校や共同体の取り組みであればまた来年以降と仕切り直せるが、一生に一度(二度三度のひともいなくはないが)の祝いの席を設けるのか、やめるのか。やる直前で状況が悪化し、先に伸ばすのか。先に伸ばした結果、規模はどうするのか。キャンセルに対する請求はされるのか。悩みは尽きないだろう。
勤務先の人のお嬢さんが今年五月に結婚式をあげるときいた。よくよく聞けば昨年来二度の延期を乗り越えて、今回日程調整しているそうだ。これまでのキャンセル延期料を考えると、実質2度結婚式をあげる費用がかかるらしい。それでも二人今回はなんとかゲストを招待し、これまでの感謝の気持ちを伝えたいという。

こんなときに結婚式をあげるのかという人もいる。
こんなときこそ感謝を伝えたい、お互いの気持ちを知ってほしいと願う人もいる。
人それぞれ。私は応援したい。もちろん招待されているわけではないけれど。
五月に祝電を打つと約束して、今日もお疲れさまと言葉を交わた一月の最終日だった。
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サボテン

2022-01-31 00:17:59 | 心は言葉に包まれて

ごめんね
私はサボテンさえうまく育てられずに
やり過ぎた水が溢れていったよ
ごめんね
今さら気づいたってもとには戻らない
謝ることしかできなくなったよ

水だけあげてりゃいいなんて
真に受けてたらこうなった
愛にも加減があるなんて
誰も教えてはくれなかったのに

溢れて枯れた窓際の愛は
間違っていたのかな
花が咲くのが見たっかったから
よかれと思ってた
ただただ私は私なりに育てました
ただただ私は私なりに愛を注いだの

16世紀に南蛮人によって持ち込まれた「サボテン」の語源は茎の切りはしから出た樹液を石鹸として使ったことから「シャボン体」
といったと伝わります。他肉植物の一種で肉厚な茎や葉に水をためることができるのは乾燥地で育った名残のようです。
水をためることができるサボテンに一生懸水を与え、枯らしてしまった彼女は振り替えって何を思ったのでしょう
注いだ愛の行方を枯れてしまったサボテンの姿に見ているのでしょうか


ごめんね
私は大丈夫と関係ないふりして
要らない自信が溢れていったよ
こんなに
変わってしまうなんて
私の都合のいい頭では
きっとわからなかったよ
独りよがりでもいいなんて
どうして思えていたの
やっと解決したくなって
調べた結果に悲しくなった

溺れて枯れた窓際の愛が
教えてくれたかな
知らない間にすれ違っていた
愛の育て方
ただただ私はあなたの喜ぶ顔が
ただただ私はあなただけに愛を注いだの

花が咲いたら私の愛は
報われるのかな
諦めきれない意地の強さを
心の強さに変えたい

緑黄色社会の歌詞には繰り返しの表現が多く用いられる
もっともっと
これからのことそれからのこと
思いを伝えるのに繰り返しながら、余韻を残しつつそれでいてはかなさを感じさせる。
はかないけれど自分の思いや意思を詞の最後に結んでいる
だから読み手は前向きな気持ちに」なるのだろう

溺れて枯れた窓際の愛は
間違っていなかった
ちょうどよさなんてわかっていても
愛は止まらなかった

必ず無駄にはしないよ枯れたサボテン
いつかいつか私の愛の花を咲かせよう
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南天と雷難除守護

2022-01-27 22:01:33 | 神社と歴史

昭和54年建立された皿尾城跡の石碑。城跡を側で守るかのように南天の木が植えられている。
南天は難転に通じ、昔から緒災避けとして人々に好まれる木だ。常緑の低木で暖かい気候を好むという。その実は赤く、古来中国では南天燭と呼び赤い灯火と考えられてきたそうだ。
平安時代に中国から伝わり、鎌倉時代藤原定家は中宮権大夫前栽に植えると「明月記」に記している。さらに江戸期には「火災避け」として多くの庭に植えられるようになり、その実は咳止めの効果が高い生薬としても用いられている。「南天のど飴」はもはや世界各国で食されているともいう。

近年各地の寺社で御朱印が広まり、多くの参拝者が参拝の証しとして集めるようになって久しい。当社でも私が書いている。
御守りについても御神徳が授かるようにと希望しているかたが多かった。業者から仕入れるよりは自社で手作りしようと考えていたところ、生前の先代宮司が奉製していたものがあり、社頭頒布することにした。
参拝の皆様に緒難避けの御神徳が授かるよう、境内の南天の葉と実をご神体として入れている。
何より嬉しかった事はなき父の思い出がその書によって思い出されること。
人は二度死ぬという。一度はその身が潰えた時。二度目は忘れ去られたとき。
戦後多くの苦労を乗り越えて、神明に奉仕した父の姿がそこにある。
多くの人に支えられ、神職としての生涯を通した先代宮司の書を目の前に、志を研こうと決意している。
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おみくじで占うのは何か

2022-01-26 20:27:09 | 神社と歴史

老若男女を問わず親しまれるおみくじ。神社仏閣でもっとも手にするもののひとつだろう。御札や御守りは遠慮しても、おみくじを引いて帰られる参拝者は多い。ただしその起源は運勢ではなく、神の意思を問う祭具として用いられていたという。
古墳時代以前には鹿の肩甲骨を焼きその割れ具合(ひびの入いりかた)で吉凶を判断する『太占』(=ふとまに)、鹿の骨を亀の甲羅に変えた『亀卜』(きぼく)といった占いがあったという。これは神の託せんを得ようと時の統治者が編み出した術だと考えられる。遡れば邪馬台国の卑弥呼は壱与の占術統治といったところにたどり着くのだろうか。
初期の御神籤には『短籍』(たんざく)といった紙片に事柄を書いて折り畳み、神に祈りを捧げてから一枚を選んだともいう。この短籍は『日本書』に見られ斉明天皇の御代、有間皇子が皇位継承をめぐって謀反を企てたがその如何を占うのに用いられたと記されている。

やがて御神籤は物事の当落や勝負事を選定する手段として用いられるようになって行く。時には重要な人選に用いられている。
『増鏡』によれば仁治二年(1241年)時の四条天皇が崩御された際、鎌倉幕府の執権北条泰時(義時の長男)は鶴岡八幡宮で籤をひいて次の天皇を定めたという。また足利六代将軍義教(よしのり)は石清水八幡宮のくじ引きで選らばれた「くじ将軍」として知られている。

おみくじの語源についてその形態から「串」という説と揉め事を公正に判断する「公事」ともいう。
これらはくじには人の力を越えた意思が働くと考えられていたためであり、物事を決めることに神の意思が働いているという正当性を持たせる意味合いがある。
本能寺の変を起こした明智光秀は、「神の意向」という大義名分を得るため、京都の愛宕神社で大吉が出るまでくじを引き続けたとも言われている。
おみくじが一般的に庶民の手に取られるようになったのは、鎌倉時代以降の事で。比叡山延暦寺の高僧・元三大師が「観音みくじ」」を考案したことによる。それは105種類の漢詩によって吉凶を占うもので「元三大師百籤」と呼ばれる。
やがて江戸期になり家康の側近天海大僧正が観音籤を改良し、運勢が記された紙に番号をつけ1から100までの連番が振られた棒を一本ひいて数字を照らし合わせる方式を確立したという。
なお伊勢神宮には籤はないという。
「一生に一度は伊勢参り」そういわれるほど神宮は尊いと崇められ、お参りすること自体が大吉であると考えられていたそうだ。
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二十歳の献血

2022-01-22 21:37:15 | 物と人の流れ

鴻巣免許センターの敷地内には献血センターが設置されている。埼玉県民の多くが集まる施設に併設されており、規模は小さいが非常に多くの人が献血に協力している。

二十代の頃大学の先輩につれられて新宿の献血センターにいってから何年経ったか。その後サービス業を転々とするなかで、20年以上献血に協力できなかったけれど、昨年来2度ここに来ることができた。実は40代になって、特に少しでも社会貢献をと思い立ってから、2度献血の事前検査(少量の採血)ではねられている。ヘモグロビンの値が献血の成人男性の基準に達しなかったのだ。
一度目はたまたま職場の駐車場に来た献血巡回車で。二回目はここ鴻巣の免許センターで。

基準に達しないと献血ができない代わりに、その血液状態から見る生活指導を受ける。鉄分をとり、糖質に片寄り勝ちな食生活を改善するよう指導された。思いきって献血に行った上に血液の状態が不適格の上、指導受けて帰ると、かなりショックだった。もちろんそこには『社会貢献したい』という自己満足(認証欲求)と自分は健康でまだ若いという勝手な思い込みがあった。
以来一年かけて食生活を改善し(食べ過ぎないようにした)、水分をかなりとるようにして、昨年夏に事前採血で基準をクリアーし、今回また献血することができた。献血をきっかけに体重を落とすこともでき、若い頃の服(眠っていたスーツ)が着れるようになったことがごほうびのように思う。

献血に関する記事をざっと読み、一番感じたことは若い人の参加率が依然として低いこと。昔から言われていることだ。私の隣で献血していた男性(ずっと年上にみえた方)は70回の献血で記念品をもらっていた。
近年ラジオ等で『二十歳のスマート献血』というフレーズで、CMを流していた。『Lets!献血チャンス!!』を連呼したものだ。若い人には献血で社会貢献というよりは、おしゃれ感をもってもらえるようなイメージ戦略だ。
ある人いわく、日本赤十字社はもっと行政に働きかけて、献血に対するアドバンテージをつけなければならないと論じていた。献血自体は善意の行為として長らく日本の社会において続いているものだが、例えば献血によって得られた健康に関する情報を、社会保険とリンクさせて、保険料の割引や行政のポイントとして加算するなど、これまでより一歩踏み込んだ施策を始めるべきだと論じている。そう、若い人に善意だけで献血センターに足を運んでもらうことはもはや時代遅れだという。

そう、献血という必要不可欠な社会事業に対して、対象となるひとえのマーケティングが欠けていると論者は結んでいた。
献血することで満足することなく、さらにその先を見つめていかなければいけないと感じながら、献血センターのサービスドリンクで水分補給を終えた一日だった
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