皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

岡古井 天神社

2019-02-28 20:58:40 | 神社と歴史

長暦三年古利根川の氾濫の際上流から流れてきた不動尊を引き上げようとしたところ、突然地震が起こって引き上げることができず、下流の村でこれを引き上げて祀ったために、その地を不動岡と呼び、この地を岡震いと称した。

 中世においては古江郷とよばれ、羽生の毘沙門天像には「武州太田庄北方古江郷」の銘文が残り、古くはこの地が郷の中心であったと考えられている。

 江戸期までは岡古井村の鎮守であったが明治の神仏分離で寺の管理を離れた際村人の集会の場が移り、近くの通殿神社が村社になったことから、耕地持ちの神社となり、祭事も行われなくなってしまった。

戦前までは各耕地ごとに天神講が組織され、子供たちが学問の神である菅原道真公を祀り、通学の分団としてまとまっていたという。

人が集まることが祭祀においても重要であることを物語っている。

 本殿には天神座像が安置されている。就農者の減少は耕地の整理と機械化で収穫量は維持することはできるが、こうした信仰を守ることは難しい時代に入っているのだろう。

 

 

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氷川神社摂社 門客人神社

2019-02-20 21:01:05 | 神社と歴史

武蔵一宮氷川神社の摂社の一つに門客人神社が祀られている。御祭神は足摩乳命・手摩乳命。氷川神社のご祭神素戔嗚命に嫁いだ稲田姫命の親御神とされている。しかしこれは表向きの話で、実は門客人神社にもっと深い意味合いが隠れているともいう。

 一般に神社に祀られている神はその御祭神はいわば公認された神とされる。原則的に記紀神話に連なる天神地祇、または天孫に帰順し、その神話体系に組み込まれた神という。しかしながら、記紀以前からこの国に存在し葦原中国に土着していた古くからの神もいたという。

 そこで天津神の尖兵として、経津主神(香取)、建御雷神(鹿島)の二神が天津神の意向にそぐわない土着の神々を次々と抹殺していったという。その勢いは凄まじく草木や石までも平らげたと伝わる。しかしながら古代の異端史の中には神武天皇の代に於いて、天皇家に滅ぼされず津軽に亡命し、東日流王国を形成した一族がいたという。アラハバキ王国と呼ばれる一族だ。(『東日流外三郡誌)史伝によれば邪馬台国の王であった長脛彦とその兄、安日彦を祖とする。

 出生が不明の神を門前客神とした柳田國男の説から、飛躍する形で、アラハバキ神は日本の全土に影響を及ぼしていた可能性があるという。

 

青森県亀ヶ岡遺跡出土の遮光器土器はアラハバキ族を模したとされている。土着神である国津神であった部族が朝廷との争いに敗れ、その地の

新たな神の門番的な地位に降格させられ門番神としての扱いとなった可能性があるという。

 偽書とされ学問の対象から外されていた異端史書から新たな日本の成り立ちの過程が明らかになることもあるえるという。

闇に閉じ込められた神々の封印が解かれているようだ。

 

 

 

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笹乃雪

2019-02-18 21:47:10 | いろはにほへと

「水無月や 根岸涼しき 笹乃雪」 正岡子規

台東区根岸2丁目豆富料理笹乃雪。初代玉屋忠兵衛が後西天皇の皇子の御供で江戸に下り、根岸の地にて絹ごし豆腐を作ったのが始まり。豆富を親王に献上したところ、京を懐かしみ「笹の上に積りし雪の如き美しさよ」称されたことから、料理屋の屋号を「笹乃雪」と名付けたという。

9代目当主奥村多吉は料理店に「腐る」という字はふさわしくないとして「豆腐」を「豆富」と記すようにしたという。

正岡子規、夏目漱石など多くの文人歌人も訪れたという。

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台東区鶯谷 元三島神社

2019-02-18 20:33:26 | 神社と歴史

東京都台東区鶯谷。山手線鶯谷駅北口を降りて僅かなところに元三島神社は鎮座している。御祭神は大山祇命。

元三島神社縁起によれば、鎌倉幕府御家人、伊予の国の武将河野通有、元寇(弘安の役)に際し、三島水軍を率いて四国の大山祇神社に戦勝祈願し、御神徳、御加護を仰ぎ功成って帰国した折、夢の中に神のお告げを得て大山祇明神武蔵国勧請の発願を成し、時に上野山中にあった河野家の館に御分霊を祀ったことが始まりとされる。

 東京都内山の手区域にあり社地は狭い一方、多くの信仰を集めるためか社殿は石段の上に鎮座している。

大山祇命は伊邪那岐命、伊邪那美命によって生まれた山の神。天照大御神の兄神にあたり、諸国山々の精霊の神とされる。四国伊予の国、愛媛県越智郡大山祇神社は、10世紀後半に藤原氏の海難を救ったことから『日本総鎮守』の号が許されている。御神徳は航海の守護の他五穀豊穣と、山の神として鉱山安全もあるという。殊に三島水軍が活躍した当時戦勝の御礼として源頼朝の他河野家などから甲冑、刀剣等が奉納され、全国の国宝、重要文化財の約八割を所蔵し「国宝の島」と称されるという。

江戸期に入り徳川より社領を拝するが、慶安三年(1650)三代将軍家光の時、社地を金杉村に移転、次いで宝永六年金杉村社地幕府御用地に召されると、浅草に代替え地を賜って遷座する。代々住む氏子から氏神様の遊離は不都合と訴え起こり、金杉、根岸村民により当地にに合祀し元三島神社と称し、今日に至るという。

現在の社殿は昭和51年の建立という。鶯谷駅前の開発の歴史を見るかのように界隈はホテル街となっている。こうした中に凛とした佇まいで立派な社殿が建っているのが異様な感じではあるが、都会の開発の歴史に埋もれることなくこうした御社が信仰厚く祀られていることに感銘を受ける。

手狭な境内地には正岡子規の句碑も建っていた。

「木槿咲きて 絵師の家問ふ 三嶋前」とは神社の奥にあった明治時代の洋画家浅井忠邸を訪ねた際に詠まれたとされる。

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鷲宮町 八甫鷲宮神社

2019-02-17 20:08:36 | 神社と歴史

東鷲宮駅から車で北へ1㎞ほど走ると古利根川の流れをくむ中川右岸にに広々とした農地が広がっている。旧鷲宮町八甫という地名で、中川が利根川の本流だった頃、八艘の船が帆を揚げて通れる大河であったことから「八帆」と呼ばれたのが転じてなったといわれている。

現在も神社裏には北側用水が流れ、広がる田んぼは昔を偲ばせている。

『明細帳』によれば創立は長禄年度(1457-60)埼玉郡鷲宮村鷲宮神社の別け御霊を祀る。社殿は白石与右衛門の発願にて建立するとされる。その白石与右衛門のまつわる逸話が残っている。

その昔開拓が進み八甫村が今の広さになった頃、千石の年貢が課せられた。村人は年貢が高すぎて納めきれず苦しんでいたところ、ある年白石与右衛門が願主となって鷲宮村の鷲宮神社に年貢の軽減を祈願し成就の暁には鷲宮様を八甫の鎮守として勧請することを約束した。すると翌年から年貢は九百石余に減り、助かった村人は約束通り鷲宮様の分霊を御迎えし村の鎮守とするようになったという。

 拝殿と本殿の並びの様子が勧請元の鷲宮神社と似ている。御祭神は大己貴命・天穂日命・天夷鳥命の三柱。ササラと呼ばれる獅子舞の神事が無形文化財として指定されている。ササラとは簓と呼ばれる竹製の楽器を用いたことからそう呼ばれるという。江戸期に館林で行われた競演会(寄席ザサラ)で優勝し、領主から褒美として弓を拝領したという。獅子が舞を奉納し村境にて悪魔よけの辻固めを行って回るという。

御祭神大己貴命の子息である建御名方命が本殿を守るように神社北の口に祀られている。

諏訪社が北の口に祀られているのはあまり見られない。記紀神話の国譲りにおいて、天津神、建御雷命に中津国を受け渡すよう迫られた際、それならば力比べをしようと挑んだのが建御名方命。諏訪大明神に守られるようにハ甫の鷲宮神社は建っている。

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