大高城を囲んだ二砦(丸根砦・鷲津砦)の一つ。
織田信長は大叔父の織田秀敏と飯尾定宗に400の兵を与えて鷲津砦を守らせます。
桶狭間の戦いの先鋒として、井伊谷の井伊直盛が今川義元の本陣より少し早く尾張に入りました。
そんな直盛と掛川城主の朝比奈泰朝が2000の兵で鷲津砦を攻め、秀敏らは砦に籠って抵抗します。
桶狭間前日、沓掛城に入る義元は直盛と松平元康を先に沓掛城に入らせ、自らが到着した後に元康を大高城の兵糧入りに行かせ、直盛を本隊近くに残したのです。
桶狭間当日の朝、鷲津砦は泰朝が猛攻して落とし、秀敏や定宗は討死したのです。
この後、桶狭間で井伊直盛は討死、戦後に無事に掛川に戻った泰朝は少し後で直盛の養子井伊直親を殺害することになります。
そんな鷲津砦は公園となっています。
自然豊かですが、ところどころに人の手が加わった感じがする遺構です
・本丸跡
もし、井伊直盛が朝比奈泰朝と一緒に鷲津砦を攻めていたら、井伊家の運命は今とは全く違ったものになり、もしかしたら彦根藩井伊家はなかったかもしれないと考えると、彦根市民として歴史の奇妙さを感じずにはいられまい場所でした。
所在地 名古屋市緑区大高町鷲津
織田信長は大叔父の織田秀敏と飯尾定宗に400の兵を与えて鷲津砦を守らせます。
桶狭間の戦いの先鋒として、井伊谷の井伊直盛が今川義元の本陣より少し早く尾張に入りました。
そんな直盛と掛川城主の朝比奈泰朝が2000の兵で鷲津砦を攻め、秀敏らは砦に籠って抵抗します。
桶狭間前日、沓掛城に入る義元は直盛と松平元康を先に沓掛城に入らせ、自らが到着した後に元康を大高城の兵糧入りに行かせ、直盛を本隊近くに残したのです。
桶狭間当日の朝、鷲津砦は泰朝が猛攻して落とし、秀敏や定宗は討死したのです。
この後、桶狭間で井伊直盛は討死、戦後に無事に掛川に戻った泰朝は少し後で直盛の養子井伊直親を殺害することになります。
そんな鷲津砦は公園となっています。
自然豊かですが、ところどころに人の手が加わった感じがする遺構です
・本丸跡
もし、井伊直盛が朝比奈泰朝と一緒に鷲津砦を攻めていたら、井伊家の運命は今とは全く違ったものになり、もしかしたら彦根藩井伊家はなかったかもしれないと考えると、彦根市民として歴史の奇妙さを感じずにはいられまい場所でした。
所在地 名古屋市緑区大高町鷲津