あおしろみどりくろ

楽園ニュージーランドで見た空の青、雪の白、森の緑、闇の黒の話である。

6月22日 Mt.Hutt

2018-06-24 | 最新雪情報
今シーズンの初滑りはマウントハットだった。
他のスキー場は未だオープンしていないが、ハットは6月半ばにして充分な雪の量。
好天に恵まれたこの日のお客さんはベトナムからの留学生。
雪を見るのも初めてという子どもたちの初めてのスキー体験だ。
子どもたちのレンタルを手伝い、インストラクターに任せる。
その後は冬山に体を慣らす為に下から黙々と登る。
微風快晴、景色良好、体調万全、良いこと尽くめだ。
山頂に立てばオープン間近のポーターズが見え、奥には南アルプスが広がる。
僕は両手を合わせ、NZの山の神に今シーズンの山の安全を祈った。



歩き始めて40分。景色の見えない急坂を登り切ると稜線に出る。



稜線からの眺めは良く、カンタベリー平野が一望できる。



上から滑ってくるスキーヤーと挨拶を交わしながら登る。



平日だが駐車場はほぼ満杯。



稜線に沿って山頂を目指す。このルートは眺めが良いので好きだ。



山頂の賑わい。



この時期にしては雪の量は多い。今年は良い年になるかな。



駐車場に降りると引率のフランシスが子どもたちの昼飯を作っていた。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

冬支度

2018-06-21 | 日記
秋から冬へ、ここニュージーランドでも冬至を迎えた。
クライストチャーチの日の出は8時、日の入りは5時。
冬至の頃というのは、1日ごとの日の出と日の入りの時間がほとんど変わらない。
スキー場もハットはオープンしたが、クラブフィールドはもうちょっと先である。
今の所、雪はまだそんなに多くないが、今年はそれなりに山も冷えているので、雪が降れば根雪になるだろう。
シーズンが始まる前に準備もそれなりに必要で、ここ1週間ほどは着々と冬に備え働いた。
スキーは馴染みの職人、ハンピーにチューンアップしてもらいピカピカになった。
スキーウェアー、バックパック、雪崩対策セット一式をひっぱり出して装備チェック。
去年買った愛車、銀八号の車検を通し、上にスキーボックスを載せた。
このスキーボックスは15年ぐらい前に買って、JCがラスタカラーに塗った僕のトレードマークでもある。
さすがに色もあせてきているが、まだまだ現役で使い続けている。
友達の間では、ラスタカラーの棺おけと呼ばれている。



メンテナンスをするのは道具だけではない。
体のメンテナンスも必要だ。
いつもこの時期には、腰の辺りが張って痛いのだが、今年は調子がよい。
1日2回、犬のココとの長めの散歩が効いているのかもしれない。
その調子の良い状態で、これまた馴染みのオノさんにグリグリとやってもらう。
自分では絶対に届かない深い場所のコリをほぐしてもらうのだ。
オノさん曰く、悪い状態で来ても本当に深いところまではやれないが、良い状態ならばもっと深いところまでいける。
今年の僕はまさにその状態で、いつもよりさらに深い所をグリグリと、そしてイテテテと悲鳴をあげてボキボキやってもらった。
体が悪くなかったら別に行かなくてもいいじゃないか、と考える人もいるだろう。
そういう人はその人の人生なので、そうすればいいさ。
僕はそうは思わないので1年に2回の施術は欠かさない。
そしてその後のビールもこれまた欠かせない。



僕の勘だが、今年はスキーヤースノーボーダーにとって、良い冬になりそうな気がする。
これは長年ここでやってきた自分の勘であって、根拠はどこにもない。
この根拠のない勘は、割とよく当たり、的中率は8割ぐらいだろう。
今はまだ雪は少ないがオープン前のこの時期はこんなものだ。
山が冷えていない時に大雪が降り、その雪があっという間に溶けてなくなり、その後は全然降らなかったという年もあった。
本当に雪が降ってほしいのは7月8月である。
今年はなんとなくそうなりそうな予感がする。

冬が始まるとなにかと忙しくなるので、今のうちにやっておかなければならないことはある。
にんにくは冬至に植えて夏至に収穫、と言う言葉があるが、にんにくの植え付け。
今年は普通のにんにくとエレファントガーリックという巨大なにんにくの2種類を植えた。
女房が世界で一番好きな野菜、ソラマメも今年はどどーんと百株ぐらい植えて、今は小さい芽が出始めた。
卵を産まなくなった鶏を締めて、新たに3羽若いのを買った。
新しい鶏のうち2羽はすでに卵を産み始め、小さい初卵をいただいた。
全黒の酒粕で作った酒粕石鹸も、ただいま物置の中で熟成中である。
そうしているうちに冬の仕事の予約も着々と入り、どうやら今年は忙しい冬になりそうである。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

こんにゃく問答。

2018-06-12 | 
「こんにゃく、いつ食う?」
「そりゃ、こんにゃくだけに・・・明日じゃないよな」
「いやいや、こんにゃくを食うのだから・・・今晩?」
「違うって、こんにゃくなんだから・・・今宵」
というようなどーしようもない会話を昔の相方JCと何回したのだろう。

こんにゃくというものはこんにゃく芋からできるということを知識で知っていた。
だがその植物がどういう葉っぱをしているのか、どういう芋なのか知らなかった。
今はネットで調べればこんにゃく芋の写真などが幾らでも出てくる。
それで人々は知った気になってしまう。
だが自分で最初からやってみるのと、ネット上で見た写真で知った気になるのとは雲泥の差だ。
友達のゴーティーからピンポン玉ぐらいの種芋をもらったのが数年前。
「3年ぐらいかかるよ」と言われて育て続け、我が家のコンニャク芋もソフトボールぐらいの大きさになった。
いよいよ人生初のこんにゃく作りに挑戦である。
こんにゃくは夏の間に成長して秋になると茎と葉っぱは枯れる。
暑いのが好きな植物なのだろう、温室の中で大きく育ったこんにゃく芋を秋に収穫した。



さていよいよ、こんにゃく作りなのだが、こんにゃくを固めるためには消石灰(水酸化カルシウム)もしくは炭酸ソーダというものが必要だ。
友達のアヤちゃんの実家ではこんにゃくを自分で作っていたそうで、彼女の家から炭酸ソーダを送ってもらって、一緒に作ることになった。
アヤちゃんは何年か前にはマウントクックでハイキングガイドをしていた娘で、今は結婚してクライストチャーチに住んでいる。
家に呼んだり、こちらが遊びに行ったりという仲である。



アヤちゃんのお母さんのレシピに沿ってまずは小さく切ってミキサーでドロドロにする。
こんにゃく芋は素手で触ると痒くなるらしいので手袋着用。
ただしこれにも個人差があるらしく、僕は平気だった。
ドロドロにした物を鍋で10分加熱。
焦げ付かないように気をつけなくては。
そして炭酸ソーダを水に溶かす。
炭酸ソーダの結晶は半透明でいかにも化学物質といった感じで、見た目はアンフェタミンのようだ(見たこと無いけど)
加熱したドロドロの状態にアンフェタミンじゃなかった、炭酸ソーダ水溶液を加えて混ぜる。



ひたすら混ぜる。
するとなんとなく固まってきた。
これを平たい容器に入れて冷ます。
こんにゃくの黒いツブツブはひじきだそうで、他にも青海苔なんかいれるのもあるらしい。
物は試しに少しだけ青海苔を入れてやってみた。
そうして数時間、冷めて固まったものを茹でる。
そして出来上がり。
こんにゃくは腐らないので常温で保存してよい。
ただし水は毎日替えるというのがアヤちゃんのお母さんからの教えである。





さてそうやって作ったこんにゃく。
刺身と田楽で食ってみた。
これが美味いのである。
美味いのだが、それをどう表現してよいか分からない。
食感はプニュプニュで味はシンプルにこんにゃくの味。
これじゃあ、読んでる人は分からないよな。
こんな時に海原雄山は何と言うのだろうか。
この美味さを文字に出来ないのがもどかしいが、とにかく美味い。
これはうちに来て食ってみてくれ、というしかないな。



初めてのこんにゃく作りは大成功。
家族にも大好評、ご満悦である。
とある大学の先生の言葉、「最終学歴よりも最終学習暦」
これはいいぞ。
僕の最終学歴は工業高校卒だが、自分で実際にやって学ぶことを学習と呼ぶならば、最終学習暦はこんにゃくだ。
自分の中では最終学習というより最新学習という方が近いか。
ビール作り、日本酒作り、鳥の捌き方、石鹸作り、いろいろと学んだものだ。
学問というもののあり方、そらに学歴社会というものを疑問に思っている自分である。
机の上の学問も大切かもしれない。
だけど、その教科書なり教材が間違っていたらどうなるのだろう。
僕は自分でこんにゃく芋を育て、先人の知識を借りて自分でこんにゃくを作った。
そうやってできたこんにゃくは美味い。
これが僕にとっての学習である。
そうやって人間は学ぶ。



「ねえねえ、こんにゃくに合うお酒ってなにかなあ」
「えー?こんにゃくに合うんだから日本酒?」
「そうじゃなくて、フランスのお酒でさあ、なんかあったじゃん」
「ああ、あれか、こんにゃくに合うよねあれは・・・ブランデー」
こんなどーしようもないギャグのセンスはいつまでたっても学ばない。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

野次馬根性と社会性と個というもの。

2018-06-09 | 日記
こちらではよくあることで、公園なり緑地なりに遊歩道などがあるのだが、その遊歩道に面している家が外から丸見えというケース。
これはまず犯罪の少ない安全な場所だということでもある。
そしてそこを通る人が不躾に他人のプライバシーを覗き込まないという条件が付く。
こちらの人というのは、その辺がとても上手いと思う。
だがそうでない人達もいる。
オークランドに住む知人から聞いた話。
その家はそういう遊歩道に面しているのだが、最近は中国人が多く、彼らが家の中を覗き込むのでいやだと。
あまりにひどいので天気がよくてもカーテンを開けられないと。
ううむ、分かるなあ、その悩み。
誰だって知らない人に家の中を覗き込まれたりしたら嫌だろう。
ひょっとすると動物園の中の動物はそういう気持ちなのかもしれない。
特に中国人というのはそのへんのデリカシーに欠ける。
レストランなんかでも人の皿を覗き込むような事を平気でする。
なんというか野次馬根性丸出しなのだ。
こういうことを書くとすぐに「そんなに悪い人達じゃない」とか「中国人の全てがそうじゃない」とか過剰に反応する人がいる。
そりゃ悪い人じゃないさ、無知とか無教養とかは悪ではない。
それに中国人の全てがそうじゃないのなんか百も承知だ。
だが中国人にそういう人が多いのも事実だ。
偏見を承知で言うならアメリカ人だってイスラエル人だって、善い人はいる。
ニュージーランド人だって、ひょっとしたら人の家の中をジロジロ除き込むヤツはいるかもしれない。
仮に、そういう人が多かったらどうなるか。
たぶん誰もが外から完全に見えないように塀を高くして、味気ない町になるのではないか。
ここでは公園に面している家も景色の一部として認識して、もし庭に家人がいて目が合えば軽く挨拶か会釈をするだろう。
ジロジロ除き込むような人は挨拶もしないし、人と目も合わさない。
そりゃ嫌われてもしょうがないだろう。
そこに人が住んでいることを知っていて、かと言って無視や無関心ではなく、なおかつ他人のプライバシーに踏み込まない。
そういう人の心のバランスがその町を造っていくのだろう。

これは中国人を例に挙げたが、日本人だって人のことは言えない。
それは有名人に対する態度をみれば分かる。
テレビに出る有名人というだけで、相手のプライバシーなんかそっちのけ。
ミーハーな野次馬根性丸出しで勝手に写真を取りまくる。
「写真を撮ってもいいですか?」と事前に聞く人がどれぐらいの割合でいるだろうか。
まあ有名人というのはそういう事に慣れているだろうから、腹も立たないのだろう。
でも考えて欲しい、もしあなたが町を歩いていて、知らない人にいきなり写真を撮られたらどう思うだろう?
撮られる方だって「写真お願いします」と聞かれれば「あいよ」と笑い顔になるだろうし、いきなり撮られたら「ナンダナンダ、こいつは!」となるかもしれない。
それがコミュニケーションというものだろう。
以前、仕事の途中でリッチー・マッコーに会った。
彼はとあるカフェでコーヒーを飲んでいた。
知らない人のために書くが、リッチー・マッコーはラグビーの国民的英雄、誰もが知ってるスーパースターである。
たぶん日本だったら周りがうるさいだろうが、ここでは静かな物だった。
そこのカフェにいる人全員が彼が何者か知っていて、適度な距離で放っておいてくれる。
たまにサインや写真を頼まれるが、それが済んだら必要以上に干渉しない。
その人のプライバシーに踏み込まない、というのが暗黙の了解みたいにできあがっていて、とても好感が持てた。
ここの人達はそういう人付き合い、コミュニケーションが上手いと思う。

知り合いから面白い話を聞いた。
ある動物園で七面鳥を孔雀のオリに入れた。
次の日、七面鳥は首を伸ばした姿で死んでいて、そこになおも孔雀が攻撃をしていた。
奇妙に思い別の七面鳥を再び孔雀のオリに入れてみた。
七面鳥は他人様の縄張りに入ったことでオドオドしてる、孔雀は侵入者が自分の縄張りに入ってきたので攻撃する。
七面鳥は「スマンスマン」と降参の意思を表す、首を伸ばす姿勢を取る。
ところが孔雀の社会ではその姿勢は「この野郎、ぶっとばしてやるぜ」という挑戦的な態度なのだ。
七面鳥の社会ならばその姿勢は「まいった」なので強い方もそれ以上の攻撃をしない。
そうやって「オレが上で、お前が下ね」という順位は決められるが殺し合いにはならない。
ところが孔雀の社会ではそういう理屈は通用しない。
哀れ七面鳥は「イテテ、イテテ。まいった、してるじゃん。」と言いながら殺されてしまう。
それって死んだ七面鳥には悪いけど面白いな。
僕はニワトリを飼い始めて何年にもなるが、鳥の世界でもいじめはある。
毎年、古い鳥は食っちまって若鶏を買ってくるのだが、必ず最初はいじめがある。
いじめられた方は降参のポーズを取り順位が決まり、弱い方も上手く逃げるので人間界のような陰湿ないじめはない。
それは同じ社会で生きていくためのコミュニケーションである。
極端な例え話で言えば、僕がいきなりヤクザの事務所へ何か大いなる力で連れてこられたとしよう。
僕の社会では降参のしるしがボクシングで言うファイティングポーズだったとしよう。
どうなるか?まあボコボコにされるわな。
そこで人間ならば話すというコミュニケーションの仕方があるので、話し合いで解決できる。
「スンマセン、あっしの生きてきた社会ではこのポーズでずっとやってきたので、攻撃しませんから。これが降参のポーズなんです、分かって下さい。なんであっしもこんな場所に連れてこられたのか訳がわからねえんです。どうぞお一つ、その事務所の隅の方に置いてくれませんか。なんにもご迷惑はかけませんから、お願いします。」
ということになるかもしれんし、ならないのかもしれん。

僕は若い頃に南米を旅したことがある。
アルゼンチンに行った時に往来で二人の髭もじゃの男が頬にキスをしあっていた。
その時はギョッとしたが、すぐにそれが向こうでは普通の挨拶だと知った。
まあ日本では考えられないことであり、NZでもそういう光景は見ない。
それは文化の違いであり、それをどう捕らえるかが問題だと思う。
「まあそういう風習だからいいんじゃね。」と捕らえるか「男同士でキスするなんて変!」と捕らえるか。
こっちだったら仲の良い男達ならハグぐらいならするか。僕も時々する。
「まあそういう風習だからいいんじゃね。」か「男同士で抱き合うなんて変!」どっちだろう。
韓国や中国では犬を食べる風習がある。
それを野蛮と言い張る人は、鯨を食べることをヒステリックにバッシングする白人と同じだ。
こういった『常識』というものは時代背景なんかによっても変わる。
要は自分と違う風習や文化やその他云々を受け入れられるかどうかである。
ただ自分もそれをやる必要は無い。
誰も僕に男にキスしろとは強制しない。
僕がここで犬や鯨を食べなくてもよい。
でも他人の文化を認める心は必要だ。
戦争なんて物は結局他人の文化を認めないところでは七面鳥と孔雀の話と同じだ。

自分と違う物を認める必要性、これが分かっているようでなかなかそうでない。
教科書では「みんな違ってみんな良い」などときれいごとを書かれてはいるが、それができないのも現実。
以前車椅子のお客さんを案内した時のことである。
その人はオールブラックスの試合を見に来て、時間があったので公園へ行った。
「こんな芝生の上でゴロって寝転がりたいなあ」
「やりましょ、やりましょ」と言って、旦那さんと僕で奥さんを芝生に乗せた。
奥さんは芝生を手で触って「こんな感覚、何年ぶりかしら」と言った。
「なんで?日本ではやらないの?」
「日本でこんな事したら、みんなジロジロ見るから嫌だ」と彼女は言った。
その話を聞いて僕は日本の今の社会が、身体障害者をどう見てるか見えてしまった。
自分と違う者を結局ジロジロ見るんだ。
違いと言う物を受け入れられない心の貧しい社会なんだ。
NZの公園では割と多くの往来があったもの、誰もジロジロ見なかった。
それが無視をするというわけではない、目を背けるわけでもない、たぶん健常者が芝生でゴロゴロしているのを見るのと同じ目つきで誰もが通り過ぎて行った。
僕が感ずるに、ここでは障害という物をその人の個性の一部ぐらいの感じで見る。
可愛そうにという感情が感じられない。
そして障害者も、自分は可愛そうな人です、という態度を取らない。
自分で出来ることは自分でやる。
それは健常者だろうが障害者だろうが関係ない。
けれどどうしてもできないことがあるのも双方承知だ。
そんな時はすごく自然に手を伸ばす。
それが愛である。
この国の社会はそういうところがあるので好きなのだ。

性の差別だって同じことだ。
その人達の世界での当たり前がこの世界では違う。
ニュージーランドは男同士や女同士の結婚が認められている。
昔は違法だったが数年前に憲法が変わった。
「いーじゃん、別に。誰に迷惑をかけるわけでもないし、本人達がそれで幸せならば」
そういうノリである。
最近では性同一障害(ってこの言葉自体、障害って決めつけちゃっているんだけど、他に言葉を知らないのでこのまま使う)の児童のためにユニセックスのトイレが学校にできた。
ここで各それぞれの個性というものが尊重される社会がある。
世間一般では男と女がくっつくのが常識だが、それに当てはまらない人も実際に存在する。
そういう人に逢った時に、自分の常識と違うからと言って化け物を見るような目で見るか、そういう人もいるんだなと受け入れるか。
日本の社会では前者が大多数だろう。
日本という国は島国なので単一民族で構成され(実際にはいろいろとあるようだが)個性というものが殺される。
周りの目を気にし、周りと同じ道を歩くことが無難、そういう社会だ。
長い歴史の中でそうやってできた社会性なのだろう。
自分達と違うものを排除する排他的なところが年齢性別に関係なく存在する。
自分達の常識に当てはまらない場合は、昔ならば村八分、今ならいじめである。
いじめというのは子供だけではなく、大人の社会にもある。
出る杭は打たれ、出すぎりゃ抜かれる。
僕は出すぎた杭なんだろう、日本の社会(会社)から追い出されてしまった。
単一民族による社会というものは良い面もあれば悪い面もある。
皆が同じ方向を向いているのだから、その方向性が正しければ健全な社会ができる。
だが悪い言い方をすれば烏合の衆なので、洗脳されやすい。
簡単に言えば、みのもんたがテレビであれが良いと言えば皆が買う。
権力者にとっては大衆を操作しやすい。
そうやって戦争も経験してきた。

ここで大切なのは個性というものを履き違えてはならない。
先ずは他人に迷惑をかけない、という事が大前提だ。
人を傷つけることや迷惑をかけることや公衆の前での無作法な振る舞い、その他諸々を個性と言って正当化してはいけない。
以前、日本で友達に誘われ、オカマの人の家で飲んだことがある。
その人は「あたしの好みは痩せている優男だから」と言っていたので安心して飲んでいたらトイレに立った隙に迫られてしまった。
これには困った。痩せている優男が好みだって言ってたじゃんか。
何とかその場を収めて帰ったが、こういうのも困るものだ。
僕としては迫られなきゃ、相手がゲイだろうがレズだろうがオカマだろうがオナベだろうがフライパンだろうが気にしない。
そちらで仲良くやっている分には全く問題は無い。
それは無関心という訳ではない。
ちなみに無視と無関心は、愛の境地から最もかけ離れた所に位置する。
愛の反対は憎しみや怒りではない。
自分と違うからと言って無関心になるのでなく、相手の個性を尊重して人付き合いをしたい。
でもお願いだから迫らないでね。

最近読んだ本で、男と女の間の人が書いたものがあった。
その人はその日の体調やホルモンの具合で、男っぽくなったり女っぽくなったりするそうな。
それはそれで色々と大変なことや面倒くさいことがあるのだろう、今の社会では。
そうやって自分の事をネタのできる人もいるが、ほとんどの人はそうではないだろう。
他にも体は女なんだが心は男の人が書いた本を読んだこともある、また逆もいることだろう。
性だけではなく、ビリーミリガンのように多重人格者という人も存在する。
そういう自分と違う、普通と違う人と出会った時に、人はどういう態度を取るのか。
それまでの付き合いと同じようにいられるか、それともそれを知ることにより態度を変えるか。
日本人は他人に干渉することが好きで、特に人のゴシップなんかが大好きだ。
噂話にすぐに食いつくのは、他人を見ていれば自分自身を見なくて済む現われだろうか。
他人の個性を尊重して無関心を装うのでなく必要以上に干渉せず、そして自分自身をみつめて生きていく。

サウイフモノニ ワタシハナリタイ。






コメント (4)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旬の魚

2018-06-03 | 
秋から冬へ向かう時期である。
木の葉っぱが黄葉して落ちたり、日が短くなったりして季節の移り変わりを人は知る。
僕の場合はさらに胃袋でも知る。
今年はフィジョアがよく実をつけた年だ。
我が家のフィジョアもいくつか実をつけたし、友達の家からもたくさんもらった。
犬の散歩の途中では落ちているフィジョアを拾って来る。
ちなみにフィジョアとは南米原産のフルーツで、寒さに強いのでニュージーランドでも育つ。
日本では見た事が無い。
味はバナナとパイナップルの間というようなものだ。
他にいい例えを知らない。
卵ぐらいの大きさで色は緑色。
皮をむくと中はクリーム色で、熟すと中心はゼリー状になる。
甘さと酸っぱさが程よくバランスされ、僕の大好きなフルーツである。
この実が旬なのもこの時期、店に出回るのも2~3ヶ月ぐらいのものだ。

前回に作ったパン粉を冷凍保存しておいたのでそれで白身魚のフライでもしようかと魚屋に出向いた。
お目当てはホキという魚である。
日本にも輸出していて、日本の弁当屋でよくある、のり弁に乗っかっている白身魚のフライ。
あれがホキである。
身は柔らかく、塩焼きや酒粕漬けにしたが身が崩れてしまいダメだった。
ホキはフライに限る。
魚屋でホキがあるか聞いた。
「ホキが好きならこいつはどうだ?この時期だけしか捕れない魚だよ。味はホキにそっくりだから旨いぜ」
見るとハケと書いてあり値段はホキより多少高め、身もホキより一回り大きい。
そうかあ、物は試しだし買ってみるか。
後は何か青魚はあるかな。
おおお、鯖があるぞ!
ショーケースの中には鯖が2匹、目も黒くて新鮮そうだ。
白身魚のフライもいいが、鯖フライも捨てがたいぞ。
新鮮なヤツならしめ鯖にすれば1週間ぐらいもつな。
そうだ、鯖の味噌煮も忘れてはいかん。
これなら鯖尽くしだ、と興奮して2匹も買ってしまった。



鯖の生き腐れという言葉があるぐらい、鯖は鮮度が落ちるのが速い。
帰ってすぐに調理を始める。
鯖特有の模様が美しい。
先ずは3枚に下ろし、背骨やしっぽのアラの部分は塩をまぶす。
塩にまぶすと臭みが抜けると、土井勝の本に載っていた。
捌いてみたら、とても新鮮で身がコリコリしてる。
これなら刺身でも食えるな。
刺身用、味噌煮用、フライ用、しめ鯖用に切り分ける。
しめ鯖はまず塩をたっぷり降り時間をかけ水分を抜く。
塩は当然ながら海の塩。
ここでケチって精製塩など使ったらダメだ。
塩は数ある調味料の中でも一番大切なものなのだ。
3時間ぐらいおいて、塩を綺麗に洗い流し、水分をきれいにふき取る。ここがポイント。
あとは三杯酢に浸し、昆布ではさむ。昆布締めである。
アラはやはり洗い流し水気をふき取り、水から昆布と大根と一緒に煮て汁を作る。
味付けは塩のみ、香り付けに頂き物のユズを少々。
味噌煮はだし汁に下味をつけ煮出したところに切り身をぶち込む。
味噌は後から入れるのがコツ。
なんで鯖と味噌ってこんなに相性がいいんだろう。
同じ青魚でも鯵、鰯、秋刀魚、とは違う独特の味がしょうがを効かせた味噌だれに絶妙に合う。
ああ、日本人に生まれてよかったあ。



火を通すものは翌日以降でもいいが、刺身は鮮度が命。
その日の晩飯は澄まし汁と鯖の刺身と味噌煮。
身はコリコリとして、何といっても脂が乗ってる。
ニュージーランドでも秋鯖は旨いのだなあ。
これぞ旬の味。
青魚の脂にはDHAだかNHKだかGHQだか忘れたが、なにか良いものが含まれるという。
旬のものを食っていれば病気にもならない。
野菜でも魚でも肉でも、旬の物には科学云々でなく人間を健康にする何かがあると思う。
娘も旨い旨いと食う。
子供が健康的で本当に旨い物、それも自分で作ったものをモリモリ食うのを見るのは嬉しいものだし、それが親の役目でもある。



その翌日はフライの日。
鯖の尻尾に近い部分、そして魚屋のオヤジお勧めのハケ。
衣をつけるしばらく前に塩を降り、でてきた水分を綺麗にふき取って衣をつける。
一緒に揚げるのは玉ねぎのフライ。
さてそうやって揚がり、気になるなるお味は。
鯖は想像通りの味。熱々が旨く、冷めたら魚臭さが出るかもしれん。
でもやはりウマイぞ。
そしてハケ。
これは絶品だ。
ホキをもっと上品にしたような味である。
そうか、これがハケか。
今まで売っているのを見た事はあり手は出なかったのだが、魚屋のオヤジの言葉に従ってよかった。
やるなオヤジ。
どうやら季節の魚らしいし、次の機会もハケがあるかな。
こうやって食生活は広がっていく。



さてしめ鯖である。
刺身で味わうのと違う味わいがある。
天然塩で締めただまろやかな塩味、そして酢と昆布につけこんだ風味、そこに脂の乗った秋鯖。
養殖物ではない天然物の旨みがそこにある。
庭の温室のシソがそろそろ終わりかけなので、花穂を摘んでしめ鯖の上にぱらり。
もうたまりませんな。
さらにさらに、贅沢に厚めに切って焙ってしまおう。
旨い物を食う為には人間色々な知恵が廻るものだ。
ガスバーナーで表面を焦がすが、厚く切ってあるので中は生のまま。
これがもう、絶品中の絶品。
ああ、日本酒が欲しくなるな。
こんな時に、全黒の蔵が近くにあったらいいのに。
自分で造った物を自分でウマイウマイと食って、我ながら幸せ者だなと思う秋の宵なのだ。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする