宇宙そのものであるモナド

生命または精神ともよびうるモナドは宇宙そのものである

大和朝廷は4世紀後半「日本武尊」東征、5世紀初頭東海道、5世紀後半吉備(雄略)、5世紀末東山道、6世紀前半磐井の乱、6世紀末北陸道を征圧した! 武光誠『「古代日本」誕生の謎』「第2章」(その5)

2019-10-04 14:25:43 | Weblog
※武光誠(1950-)『「古代日本」誕生の謎 大和朝廷から統一国家へ』(1991, 1999, 2006)第2章「戦乱時代の勝者」

Cf. 大和朝廷は4世紀初め320年代邪馬台国併合、4世紀中葉に出雲制圧、日本武尊東征後、5世紀初頭に東海道征圧、5世紀から大和朝廷の本拠が河内へ、5世紀後半に吉備服属(雄略天皇)、5世紀末東山道征圧、6世紀磐井の乱(527-8)の鎮圧後、北九州支配強化!6世紀末、ようやく北陸道征圧!

第2章(その5)「日本武尊(ヤマトタケルノミコト)、吾妻国(アスヅマノクニ)を征す」(188頁-)
(1)大和朝廷は5世紀初頭(400年代)には関東地方の太平洋沿岸から常陸まで進出!
A 大和朝廷は3本の道を通じて東方に進出した。東海道、東山道、北陸道だ。東方の未開の地は「吾妻国(アヅマノクニ)」と言われた。
A-2 尾張・三河・美濃の濃尾平野を押さえる大豪族の尾張氏は当初から朝廷と親密だった。そこから先が「吾妻国」だった。
A-3 尾張氏が東海地方の水上交通を把握していたので、大和朝廷の勢力は、3世紀末(200年代末)以来、東海道沿いに伸び、4世紀末(300年代末)には、東海地方、南関東の一部を勢力下におさめた。
Cf. 大和朝廷は、4世紀初め320年代に邪馬台国征圧(10代崇神天皇)、4世紀中葉に出雲を制圧。
Cf. 11代垂仁天皇、12代景行天皇、また景行天皇の子の日本武尊は、4世紀(300年代)だ。
A-4 大和朝廷は、さらに5世紀初頭(400年代、倭の五王の時代)に、関東地方の太平洋沿岸を常陸に向かって進出。
Cf. 神功皇后(オキナガタラシヒメノミコト)は14代仲哀天皇の皇后、15代応神天皇の母で、4世紀後半~末頃だろう。なお仲哀天皇は日本武尊の子。
Cf. 倭の五王(15代応神~21代雄略)の遣使は413-478年(5世紀)。(Cf. 122頁では倭の五王は17代履中~21代雄略。)

《感想1》220年頃、纏向に「大和朝廷」が成立するが、尾張・三河・美濃の濃尾平野を押さえる大豪族の尾張氏は、当初から朝廷と親密だった。そして尾張氏が東海地方の水上交通を把握していたので、大和朝廷の勢力は、3世紀末(200年代末)以来、東海道沿いに伸びた。
《感想1(続)》つまり尾張氏は、大和朝廷の日本全土(特に東海道)征圧において極めて重要だった。Cf. 天叢雲剣(アメノムラクモノツルギ)or草薙の剣(クサナギノツルギ)は熱田神宮の御神体だ。

(1)-2 毛野氏(上野、下野)が4世紀末(300年代末、日本武尊東征後、仲哀・神功皇后の頃)に大和朝廷に接近!大和朝廷は5世紀末(400年代末、雄略後)にようやく東山道を支配下におさめた!6世紀(500年代)に大和朝廷と毛野氏の紛争が起き、大和朝廷が勝った!
B 東山道と北陸道への大和朝廷の支配は、東海道より大幅に遅れた。
B-2 毛野氏(上野、下野)が4世紀末(300年代末、日本武尊東征後、仲哀・神功皇后の頃)に大和朝廷に接近。朝廷は5世紀末(400年代末、雄略後)にようやく東山道の諸豪族を支配下におさめた。
B-3 4世紀末に毛野の中心地、前橋市八幡山古墳(全長130m)・天神山古墳(全長126m)が出現。以後、5世紀初頭にかけ関東全域に古墳が広まる。つまり大和朝廷の関東地方に対する支配が一挙に完成。(194頁)
B-4 毛野氏は、自家の祖先を10代崇神天皇(《3世紀後半~4世紀初め》頃)の子の豊城命(トヨキノミコト)だと唱える。(194頁)
B-5 朝廷は、5世紀(400年代、倭の五王の時代)には朝鮮半島での活動に忙しく、関東の支配を毛野氏に任せた。(195頁)
B-6 5世紀中葉に、南関東の豪族は朝廷と毛野氏の二重支配を嫌い、朝廷の一元統治を求める。行田市稲荷山古墳の鉄剣は、21代雄略天皇(※5世紀後半~末)の親衛隊長のものだ!6世紀(500年代)に大和朝廷と毛野氏の紛争が起き、朝廷が勝ち、毛野氏の南関東諸豪族への指導権は完全に否定された。

《感想1-2》毛野氏(上野、下野)が4世紀末(300年代末、日本武尊東征後、仲哀・神功皇后の頃)に大和朝廷に接近したのは、大和朝廷の日本全土(特に東参道)征圧において極めて重要だった。
《感想1-2(続)》5世紀(400年代、倭の五王の時代)は、大和朝廷が朝鮮半島での活動に忙しく、関東の支配を毛野氏に任せた。
《感想1-2(続々)》5世紀中葉に、南関東の豪族は大和朝廷と毛野氏の二重支配を嫌い、朝廷の一元統治を求める。例えば、行田市稲荷山古墳の鉄剣は、21代雄略天皇(※5世紀後半~末)の親衛隊長のものだ。つまり大和朝廷派の豪族だ。
《感想1-2(続々々)》6世紀(500年代)に大和朝廷と毛野氏の紛争が起き、大和朝廷が勝つ。
 
(1)-3 大和朝廷が北陸道を支配下に置いたのはようやく6世紀末(500年代末)だ!
C 大和朝廷の勢力伸長を助けた有力豪族は、北陸道にいない。大和朝廷が北陸道を支配下に置いたのはようやく6世紀末(500年代末)だ。
C-2 5世紀末(400年代末、倭の5王の時代の末)から6世紀初頭(500年代初頭)の大和朝廷は、東山道は押さえていたが、北陸道を支配下に組み入れていなかった。(200頁)
C-3 大和朝廷は、越前を押さえたが、北陸道(※越中・越後)に勢力を広げられなかった。
C-3-2 大和朝廷が日本海沿岸航路を把握し損ねたからだ。4世紀中葉、出雲征圧後、大和朝廷は日本海沿岸航路をうまく活用できなかった。(Cf. 2世紀中葉にはすでに、出雲の首長が積極的に北陸地方と交易活動をしていた。)
C-4 崇峻2年(588)に、東山道・東海道・北陸道の国の境界を大和朝廷が調べさせている。つまり北陸道への大和朝廷の統治は6世紀末(500年代末)に確立された。

《感想1-3》大和朝廷の勢力伸長を助けた有力豪族は、北陸道にいない。4世紀中葉、出雲征圧後、大和朝廷は日本海沿岸航路をうまく活用できなかった。大和朝廷は、越前を押さえたが、北陸道(※越中・越後)に勢力を広げられなかった。北陸道への大和朝廷の統治は、ようやく6世紀末(500年代末)に確立された。
《感想1-3(続)》近江攻略に苦戦した織田信長が思い出される。信長は近江侵攻に先立ち、北近江の浅井長政にお市の方を娶らせ縁戚関係を結ぶ。1570年、越前の朝倉義景に信長が侵攻開始。ところが長政が離反、信長が朝倉・浅井連合軍に敗北(姉川の戦い)。ようやく1573年一乗谷城(イチジョウダニジョウ)の戦いで朝倉氏滅亡、また小谷城(オダニジョウ)の戦いで浅井氏滅亡。

(1)-4 奈良時代の文献(Ex. 『常陸国風土記』)は、東山道の碓井以東、東海道の足柄以東を、坂東(バンドウ)あるいは吾妻(アヅマ)と呼ぶ!
《感想1-4》東山道、碓井峠以東の毛野氏は、吾妻だ。また足柄峠以東の東海道は、相模国の鎌倉から東京湾岸の湿地帯を避け、三浦半島の走水(ハシリミズ)に至り、海路で房総半島(上総国富津)に入った。

(2)尾張氏(海部氏)は伊勢湾岸の水軍の首長で、4世紀(300年代)中葉から末、物部氏とともに朝廷の東方経営に当たった!
D 尾張には、大和朝廷に従う水軍の根拠地の海部郡があった。尾張氏の別姓は海部氏だ。尾張氏は、伊勢湾岸の水軍の首長だった。
D-2 熱田神宮に三種の神器のひとつ草薙剣(クサナギノツルギ)がある。尾張氏(物部氏の同族で連の姓をもつ)の神剣信仰は、もともと物部氏のものだ。
D-3 尾張氏が4世紀中葉(300年代中葉)から末に、物部氏とともに朝廷の東方経営に当たった。この時期、東海地方の諸豪族は、次々に物部氏に従っていった。
D-4 物部氏が6世紀末(500年代末)に蘇我氏(Ex. 聖徳太子)と争って衰退したので、尾張氏は物部氏との関係を系譜上、消そうとした。

《感想2》220年頃、纏向に「大和朝廷」が成立するが、尾張氏は当初から朝廷と親密だった。そして尾張氏が東海地方の水上交通を把握していたので、大和朝廷の勢力は、3世紀末(200年代末)以来、東海道沿いに伸びた。

(3)日本武尊(ヤマトタケルノミコト)(4世紀後半)の遠征路は、東海道と東山道に限られ、北陸道を含まない!(198頁-)
E 大和朝廷は5世紀末(400年代末)にようやく東山道を支配下におさめた。(つまり5世紀末に東山道に古墳が広まった。)
E-2 日本武尊伝説は6世紀(500年代)初頭に生まれた。
E-3 日本武尊の行程(『古事記』):東海道→関東(安房→上総→下総→常陸)→東山道(下野→武蔵→信濃→美濃)→伊吹山(滋賀・岐阜県境)で負傷→三重県亀山市で死亡。つまり日本武尊の遠征路は、東海道と東山道に限られ、北陸道に足を踏み入れていない。

《感想3》日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は景行天皇の皇子。(仲哀(チュウアイ)天皇の父。)気性が激しいため景行天皇に敬遠され、九州の熊襲(クマソ)、東国の蝦夷の討伐に遣わされた。のち伊勢にいた叔母の倭姫命(ヤマトヒメノミコト)から草薙剣(クサナギノツルギ)をさずかり駿河,相模,上総,日高見国(ヒタカミノクニ)を平定。途中,草薙剣 で野火の難をはらい,走水 (ハシリミズ) の海では妃のオトタチバナヒメノミコト (弟橘比売命) の入水により海上の難を逃れた。帰途尾張の熱田神宮の地に剣をとどめたため,伊吹山の悪神により病を得て、伊勢の能褒野(ノボノ)で客死した。

(4)6世紀初頭(527-528)の磐井(イワイ)の反乱の鎮圧:大和朝廷は、北九州の豪族に先進文化の流入路を押さえられることを、最も恐れた!
F 6世紀初頭(527-528)(26代継体天皇の時代)、磐井(イワイ)の反乱の鎮圧で、大和朝廷の九州支配が大幅に強化された。
F-2 北九州では、邪馬台国滅亡(320年代)後、有力豪族がいなかった。ところが5世紀(400年代、倭の五王の時代)中葉、筑紫氏の勢力が伸びた。
F-3 6世紀初頭の磐井(イワイ)の反乱後、筑紫氏は後退。朝廷は北九州の直接支配をめざす。朝廷は北九州に多くの屯倉(直轄領)を置き、北九州の豪族を監視した。7世紀(600年代)初頭に太宰府(「遠(トオ)の朝廷(ミカド)」)の原型が作られた。
G 朝廷は、地元の豪族に先進文化の流入路を押さえられることを、最も恐れた。
G-2 磐井は、朝廷の勢力を九州から追い出せば、先進文化を独占し、大和朝廷より優位になれる立場だった。
G-3 大和朝廷はそれまで南九州に無関心だったが、磐井の反乱後、ようやく南九州の諸豪族や隼人への支配強化に着手する。

《感想4》磐井(イワイ)の反乱(527-528):527年、ヤマト王権軍6万が、新羅に奪われた朝鮮半島南部諸国の回復のため出発。新羅と結んだ筑紫国造・磐井がヤマト王権軍の妨害のため挙兵。火の国(肥前・肥後)と豊の国(豊前・豊後)を制圧。また朝鮮半島への海路封鎖。ヤマト王権軍の進軍をはばみ交戦。ヤマト王権は平定軍を派遣。528年磐井軍が敗北。
《感想4-2》4世紀後半、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が熊襲(クマソ)を服属させた。隼人(ハヤト)については、熊襲と同じとする説や、熊襲の後裔とする説等がある。隼人は仁徳期(5世紀、倭の五王の時代)には、天皇や王子の近習であったと記されている。

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北九州の先進文化が、まず出雲へ、次いで瀬戸内海航路で吉備へ、さらに「大和」へ! 320年代邪馬台国を滅ぼした大和朝廷が、4世紀中葉に出雲を制圧! 武光誠『「古代日本」誕生の謎』「第2章」(その4)

2019-10-04 09:32:48 | Weblog
※武光誠(1950-)『「古代日本」誕生の謎 大和朝廷から統一国家へ』(1991, 1999, 2006)第2章「戦乱時代の勝者」

Cf. 出雲の最盛期(2世紀中葉)は邪馬台国卑弥呼の時代より約20-30年古い。
Cf. 2世紀初め、古代出雲の文化は最盛期に向かう途上にあり、その100年後、ようやく3世紀初め、220年頃、纏向に「大和朝廷」が成立する。出雲は、大和より100年以上古い!
Cf. 大和朝廷は4世紀初め320年代邪馬台国併合、4世紀中葉に出雲制圧、日本武尊東征後、5世紀初頭に東海道征圧、5世紀から大和朝廷の本拠が河内へ、5世紀後半に吉備服属(雄略天皇)、5世紀末東山道征圧、6世紀磐井の乱(527-8)の鎮圧後、北九州支配強化!6世紀末、ようやく北陸道征圧!

第2章(その4)「国譲りと出雲神宝」(170頁-)
(1)4世紀初頭(320年代)に邪馬台国を滅ぼした大王が「倭王」を名乗り、外交権、交易権を得た!
A 大和朝廷は4世紀初頭(320年代)に邪馬台国を滅ぼし、北九州を押さえた。大王が「倭王」を名乗り、外交権、交易権を得た。(Cf. 邪馬台国の後ろ盾の魏・晋が317年、滅んだ。)
A-2 紀元前200年ごろに弥生文化つまり「区分の発想」をもつ朝鮮半島の人々が大量に日本にわたって来た。(Cf. 中国人が朝鮮半島に侵入し紀元前2世紀初頭に「衛氏朝鮮」を作ったので、朝鮮半島の住民が追われて日本に来て、弥生文化を発展させた。)(なお 紀元前1000年前後に、朝鮮半島からの移住者が水稲耕作を持ち込み、弥生文化を作った。)
A-3 4世紀初頭(320年代)以来、大陸文化が「大和」に直接入るようになった。各地の首長は先進文化を得るため、大和朝廷に従う。朝廷の日本統一が加速度的に進む。

《感想1》4世紀初頭(320年代)、大和朝廷が邪馬台国を制圧。その政治的・外交的意味は極めて大きい。「大王」(オオキミ、天皇)が「倭王」を名乗り、外交権、交易権を得た!(Ex. 5世紀の倭の5王)

(2)4世紀初頭、日本海沿岸航路の中心だった出雲は、「大和」、北九州と並ぶ第3の文化圏だった!
B 出雲は4世紀初頭、「大和」、北九州と並ぶ第3の文化圏だった。(※吉備は「大和」と同盟していた。)320年代に北九州を押さえた大和朝廷は、出雲を支配下に組み入れようとした。
B-2 古代出雲は潟湖が多く良港をもち、日本海沿岸航路の中心だった。
B-3 出雲の首長は、九州の首長と交流し、また「越」(コシ、越前・越後)との関係も深かった。弥生時代の開始とともに北九州の稲作が出雲に伝わった。(※ここで弥生時代の「開始」とは紀元前200年ごろに弥生文化つまりをもつ朝鮮半島の人々が大量に日本にわたって来たことを指す。)
B-4 出雲に独自の文化が生まれるのは弥生時代中期中葉(1世紀中葉)。(Cf. それ以前は北九州と連動。)それから100年で古代出雲の文化は最盛期をむかえる。(※2世紀中葉)

《感想2》2世紀初め、古代出雲の文化は最盛期に向かう途上にあり、その100年後、ようやく3世紀初め、220年頃、纏向に「大和朝廷」が成立する。出雲は、大和より100年以上古い!

(2)-2 荒神谷(コウジンダニ)遺跡の2世紀中葉の358本の銅剣は、出雲の豪族の団結を示す銅剣祭祀の跡だ!
B-5 荒神谷遺跡の2世紀中葉の358本の銅剣(1984年発見)は、出雲の豪族の団結を示す銅剣祭祀を示す。(4地域の神社数に対応する。)政治を扱う意宇(オウ)郡の出雲氏と祭祀に当たる出雲郡の神門(カンド)氏。(聖地が仏経山、その近くに荒神谷遺跡あり。)
B-6 なお加茂岩倉遺跡(2世紀中葉~末)の38個の銅鐸は磐座(イワクラ)を祀る地方首長の祭祀だ。

《感想2-2》古代出雲の文化の最盛期2世紀中葉は、卑弥呼(位184-250頃)の時代の約20-30年前だ。(Cf. 107年、伊都国王帥升(スイショウ)の後漢への通交の約40年後。)要するに、古代出雲の文化の最盛期2世紀中葉は、卑弥呼の時代の前だ!

(3)大和朝廷は、その成立当初から、出雲・吉備と強いつながりを持っていた!
C  紀元前200年ごろに弥生文化(つまり「区分の発想」)をもつ朝鮮半島の人々が大量に日本にわたって来た。これによる水稲耕作の開始で、弥生時代の北九州の人口が爆発的に増加。
C-2 紀元前後に、北九州の人々が大量に西日本に移住。彼らが残した最大の遺跡が奈良県桜井市纏向(マキムク)遺跡だ。それは九州に発し、吉備を経てきた移住者が3世紀初頭に作った日本最古の都市だ。220年頃、纏向に「大和朝廷」成立。(既述)
C-3  要するに、北九州から、吉備を経て奈良盆地に移住した集団が、3世紀(200年代)初頭に大和朝廷を起こした。彼らは3世紀末に首長霊信仰を生み出し、全国支配への道を歩み始めた。(既述)
D 2世紀中葉から末にかけ、大和朝廷成立以前の大和や河内の人々は、当時先進地域だった「出雲」から多様な文化を受容した。そこに「吉備」の文化を持つ移住者が来て、3世紀初頭に「大和朝廷」を起こした。(220年頃、纏向!)
D-2 大和朝廷は、その成立当初から、出雲・吉備と強いつながりを持っていた。

《感想3》まとめ:2世紀(100年代)中葉から末に、大和や河内の人々は、先進地域だった「出雲」から多様な文化を受容した。そこに「吉備」の文化を持つ移住者が来て、3世紀(200年代)初頭に「大和朝廷」を起こした。(220年頃、纏向!)

(4)北九州の先進文化が、まず日本海沿岸(※出雲)に拡がり、次いで瀬戸内海航路を用いて各地(※吉備、次いで「大和」)に伝えられた!
E 出雲の銅剣は神そのもの(大国主命)だった。(Cf. 御神体の銅剣を仏経山の山麓に集めた2世紀の祭祀!)
E -2 出雲の剣神の信仰は、出雲平定後、石上神宮に取り入れられた。
E-3 素戔嗚尊(スサノオノミコト)が八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治して得た草薙剣(クサナギノツルギ)を天照大神(アマテラスオオミカミ)に献上したのは、剣神を祭る出雲氏が朝廷に服属したこと(320年代崇神天皇による邪馬台国併合)を示す。Cf. 三種の神器の中で八咫鏡(ヤタノカガミ)が最も重んじられる。(179-180頁)
E-4 出雲の荒神谷(コウジンダニ)遺跡は2世紀中葉(※150年頃)で、卑弥呼(位184-250頃)の時代の20-30年前、伊都国王帥升(シショウ)の後漢への通交(107年)の約50年後だ。当時、北九州では伊都国が全盛、出雲では出雲氏・神門氏の連合が支配し日本海航路で各地と交易。
E-5 吉備の文化が繁栄するのはその約20年後の2世紀末(※170年頃)、古代都市「大和」の形成はさらに50年後(※220年頃)。

《感想4》まとめ:北九州の先進文化(Ex. 伊都国の全盛、※100-150年頃)→出雲の荒神谷遺跡(※150年頃)→吉備の文化が繁栄(※170年頃)→古代都市「大和」の形成(※220年頃)。つまり北九州の先進文化が、まず日本海沿岸(出雲)に拡がり、次いで瀬戸内海航路を用いて各地(吉備、次いで「大和」)に伝えられた。(181頁)

(5)大和朝廷は4世紀(300年代)中葉に出雲を制圧する!
F 3世紀初頭になると、吉備の文化が出雲に浸透した。(Ex. 四隅突出型墳丘墓、吉備特有の特殊器台と特殊壺)
G 10代崇神天皇(実在した最初の天皇、《3世紀後半~4世紀初め》頃)のとき、大和朝廷の勢力が出雲に及ぶ。(Cf. 崇神天皇が320年代に邪馬台国を併合し、北九州を支配下におさめた。)
G-2 大和朝廷の勢力が出雲に及ぶと、出雲の豪族は親朝廷派と反朝廷派に分かれた。
G-3 大和朝廷は4世紀(300年代)中葉に出雲を制圧する。Ex. 370年頃、「大和」にならった前方後円墳が出現した。

《感想5》4世紀の天皇:10代崇神(320年代邪馬台国征圧)、11代垂仁、12代景行(※4世紀中葉に出雲征圧)、その子日本武尊、日本武尊の弟13代成務、14代仲哀(日本武尊の子)(妻が神功皇后)!

(6)大和朝廷による出雲征圧は4世紀中葉だが、「国譲り神話」は6世紀(500年代)中葉頃に整えられた!「天神(アマツカミ)」(大王の首長霊信仰)を、「国神(クニツカミ)」(祖霊信仰)(Ex. 出雲の大国主命が代表)の上に位置付ける!
H-2 それは大王の祖先とされる首長霊信仰に基づく「天神(アマツカミ)」を、祖霊信仰(※アニミズム)による「国神(クニツカミ)」の上に位置付けるために作られた。
H 大国主命が、天照大神の子孫に地上の神を差し出す「国譲り神話」は、6世紀(500年代)中葉頃に整えられた。
H-2 それは大王の祖先とされる首長霊信仰に基づく「天神(アマツカミ)」を、祖霊信仰(※アニミズム)による「国神(クニツカミ)」の上に位置付けるために作られた。
H-3 出雲の大国主命が「国神(クニツカミ)」の代表とされた。
H-4 天照大神の使者つまり朝廷の剣神、武甕槌(タケミカヅチ)の神が、出雲土着の武芸神、建御名方(タケミナカタ)の神を破る。(Cf. 朝廷の剣神が、すでに剣の祭祀のおおもとの出雲の剣神より上位だった。)

《感想6》「国譲り神話」(6世紀中葉頃)は、大和朝廷による出雲征圧(4世紀中葉)を反映する。

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