「濁りなき 心の水にすむ月は 波もくだけて 光とぞなる」道元禅師
先日に曹洞第一道場・永平寺へと初参拝した際に、参道の脇に苔むした道元禅師の歌碑があり、この御歌を知りました。
道元禅師の思想については、それなりに学び進めてきておりましたが、お恥ずかしいことながら、この歌については正直、知りませんでした。
しかし、道元禅師の仏性論を知る上で、非常に重要な歌であるとして留めおかさせて頂きます。
この歌から道元禅師の仏性論について知ることができるというのは、どういうことであるのかということですが、
濁りのない(迷いの無い)、清らかな心に住む月、つまり、澄む「月」というものは、指月喩と同様に、仏、悟り、真理、真如の喩えとなります。
私たちの心に、澄んだ清らかな「仏性」を映し出す(住まわせる、澄まわせる)ということを表すものとなります。
次に、「波もくだけて」の波というのは、心の波のことで、無明、煩悩、迷いの喩えで、唯識にてよく引用されるものとなります。
波「も」ということは、より広く多くのものも含めて、という意味合いとなるでしょう。
「砕けて」は、粉砕する、打ち破るということで、つまり、無明、煩悩、迷いに打ち勝つということになります。
「光とぞなる」は、無明、煩悩、迷いに打ち勝つ、悟りを灯す光になるということであります。もちろん、その月(仏性)が、ということであります。
只管打坐が、清浄なる仏性(月)を心に保つ(映し出す)こととなり、また、「見仏」することにもなり、その仏性(月)が、無明、煩悩を打ち砕くものになるということであります。
注意すべきポイントは、元から心に澄んだ清らかな月(仏性)があるわけではないということで、道元禅師は本覚思想ではないというところであります。また、「煩悩即菩提」でもないということでもあります。
坐禅だけではなく、日々の行持全てを清浄として、仏性を心に顕現(澄まわさせる、住まわさせる)させなければならないというお立場なのであります。
また、「光とぞなる」の主語を「波」と捉えてしまうと、無明・煩悩が悟りの光になるとして、「煩悩即菩提」的な考え方へと一気に寄ることになります。
そうなると全く解釈が異なってしまうことになります。少しネット上では、そのような意も散見されましたが、拙考では、「光とぞなる」の主語は、あくまでも「月」(仏性)として解釈しております。
先日に曹洞第一道場・永平寺へと初参拝した際に、参道の脇に苔むした道元禅師の歌碑があり、この御歌を知りました。
道元禅師の思想については、それなりに学び進めてきておりましたが、お恥ずかしいことながら、この歌については正直、知りませんでした。
しかし、道元禅師の仏性論を知る上で、非常に重要な歌であるとして留めおかさせて頂きます。
この歌から道元禅師の仏性論について知ることができるというのは、どういうことであるのかということですが、
濁りのない(迷いの無い)、清らかな心に住む月、つまり、澄む「月」というものは、指月喩と同様に、仏、悟り、真理、真如の喩えとなります。
私たちの心に、澄んだ清らかな「仏性」を映し出す(住まわせる、澄まわせる)ということを表すものとなります。
次に、「波もくだけて」の波というのは、心の波のことで、無明、煩悩、迷いの喩えで、唯識にてよく引用されるものとなります。
波「も」ということは、より広く多くのものも含めて、という意味合いとなるでしょう。
「砕けて」は、粉砕する、打ち破るということで、つまり、無明、煩悩、迷いに打ち勝つということになります。
「光とぞなる」は、無明、煩悩、迷いに打ち勝つ、悟りを灯す光になるということであります。もちろん、その月(仏性)が、ということであります。
只管打坐が、清浄なる仏性(月)を心に保つ(映し出す)こととなり、また、「見仏」することにもなり、その仏性(月)が、無明、煩悩を打ち砕くものになるということであります。
注意すべきポイントは、元から心に澄んだ清らかな月(仏性)があるわけではないということで、道元禅師は本覚思想ではないというところであります。また、「煩悩即菩提」でもないということでもあります。
坐禅だけではなく、日々の行持全てを清浄として、仏性を心に顕現(澄まわさせる、住まわさせる)させなければならないというお立場なのであります。
また、「光とぞなる」の主語を「波」と捉えてしまうと、無明・煩悩が悟りの光になるとして、「煩悩即菩提」的な考え方へと一気に寄ることになります。
そうなると全く解釈が異なってしまうことになります。少しネット上では、そのような意も散見されましたが、拙考では、「光とぞなる」の主語は、あくまでも「月」(仏性)として解釈しております。