今世、現世における臨終の意識(心)が、無明とその習気、業で汚されてあるものであるのに、その相続していく心が生じる先(往生先・転生先)における顕現が、いきなり清らかになるわけはないのであります。
もし、清らかにするためには、その心相続に大きな変容を及ぼさないといけないことになります。
もちろん、葬儀の儀軌というものは、その心相続のあり方をより善いものへと向けて調えられるべきものとなります。
要は、「菩提心の遷移(転移)」、いわゆる「ポア」なのであります。
しかし、この「菩提心の遷移(転移)」は、無上瑜伽タントラ的には、「楽空無差別」の実現によりなされるべきものとなります。
般若の菩提心と方便の菩提心の一体化を図ることで、その者の輪廻を司る微細な意識を清らかに調えて、浄土へと向かわせしめ、見仏を可能とさせて、仏道の成就へと誘うということになります。
ただ、凡夫がいきなり無上瑜伽タントラの究竟次第における楽空無差別を実現できる可能性は極めて低く、当然に皆無と言えます。ましてや、如来の報身との見仏ももちろん皆無であるでしょう。
しかし、それでは葬儀の役割、意義、救いは全く無いことになります。
では、現実的に葬儀は何を目的としてなされるべきかとなりますが、ほんの僅か一歩であっても「仏道の前進」に資するものとしてなされるものと考えるべきでしょう。
心相続に三帰依心、菩提心、懴悔心、持戒心と目的としての悟りへ向けた精進を自覚させることで、仏縁を強く紡ぎ、仏法の修せられる境涯、世界へと生じさせるということであります。
これであれば、如来不在の現在の娑婆であっても、仏法がまだある世界ですから、再び娑婆に有暇具足を得て生じさせること、または、他の浄土世界、天界における如来の化身化土の世界、仏法の修せられる世界へと生じさせることであれば、凡夫であっても十分に可能であるということになります。
もちろん、次生で如来の報身報土へと往生したいとなれば、無上瑜伽タントラの究竟次第における「楽空無差別」を実現できれば、それは叶えられるものとなるでしょう。
しかし、それは当然に簡単なものではなく、過去世から相当に福智二資糧を積んできた菩薩以外では相当に難しいものであります。
ただの凡夫が報身報土へと往生するのが不可能であるというのも、「楽空無差別」の実現可能性を考えることからも理解ができるということでもあるのであります。
もし、清らかにするためには、その心相続に大きな変容を及ぼさないといけないことになります。
もちろん、葬儀の儀軌というものは、その心相続のあり方をより善いものへと向けて調えられるべきものとなります。
要は、「菩提心の遷移(転移)」、いわゆる「ポア」なのであります。
しかし、この「菩提心の遷移(転移)」は、無上瑜伽タントラ的には、「楽空無差別」の実現によりなされるべきものとなります。
般若の菩提心と方便の菩提心の一体化を図ることで、その者の輪廻を司る微細な意識を清らかに調えて、浄土へと向かわせしめ、見仏を可能とさせて、仏道の成就へと誘うということになります。
ただ、凡夫がいきなり無上瑜伽タントラの究竟次第における楽空無差別を実現できる可能性は極めて低く、当然に皆無と言えます。ましてや、如来の報身との見仏ももちろん皆無であるでしょう。
しかし、それでは葬儀の役割、意義、救いは全く無いことになります。
では、現実的に葬儀は何を目的としてなされるべきかとなりますが、ほんの僅か一歩であっても「仏道の前進」に資するものとしてなされるものと考えるべきでしょう。
心相続に三帰依心、菩提心、懴悔心、持戒心と目的としての悟りへ向けた精進を自覚させることで、仏縁を強く紡ぎ、仏法の修せられる境涯、世界へと生じさせるということであります。
これであれば、如来不在の現在の娑婆であっても、仏法がまだある世界ですから、再び娑婆に有暇具足を得て生じさせること、または、他の浄土世界、天界における如来の化身化土の世界、仏法の修せられる世界へと生じさせることであれば、凡夫であっても十分に可能であるということになります。
もちろん、次生で如来の報身報土へと往生したいとなれば、無上瑜伽タントラの究竟次第における「楽空無差別」を実現できれば、それは叶えられるものとなるでしょう。
しかし、それは当然に簡単なものではなく、過去世から相当に福智二資糧を積んできた菩薩以外では相当に難しいものであります。
ただの凡夫が報身報土へと往生するのが不可能であるというのも、「楽空無差別」の実現可能性を考えることからも理解ができるということでもあるのであります。