日記

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「菩提心の遷移(転移)」

2022年05月07日 | 新考察
今世、現世における臨終の意識(心)が、無明とその習気、業で汚されてあるものであるのに、その相続していく心が生じる先(往生先・転生先)における顕現が、いきなり清らかになるわけはないのであります。

もし、清らかにするためには、その心相続に大きな変容を及ぼさないといけないことになります。

もちろん、葬儀の儀軌というものは、その心相続のあり方をより善いものへと向けて調えられるべきものとなります。

要は、「菩提心の遷移(転移)」、いわゆる「ポア」なのであります。

しかし、この「菩提心の遷移(転移)」は、無上瑜伽タントラ的には、「楽空無差別」の実現によりなされるべきものとなります。

般若の菩提心と方便の菩提心の一体化を図ることで、その者の輪廻を司る微細な意識を清らかに調えて、浄土へと向かわせしめ、見仏を可能とさせて、仏道の成就へと誘うということになります。

ただ、凡夫がいきなり無上瑜伽タントラの究竟次第における楽空無差別を実現できる可能性は極めて低く、当然に皆無と言えます。ましてや、如来の報身との見仏ももちろん皆無であるでしょう。

しかし、それでは葬儀の役割、意義、救いは全く無いことになります。

では、現実的に葬儀は何を目的としてなされるべきかとなりますが、ほんの僅か一歩であっても「仏道の前進」に資するものとしてなされるものと考えるべきでしょう。

心相続に三帰依心、菩提心、懴悔心、持戒心と目的としての悟りへ向けた精進を自覚させることで、仏縁を強く紡ぎ、仏法の修せられる境涯、世界へと生じさせるということであります。

これであれば、如来不在の現在の娑婆であっても、仏法がまだある世界ですから、再び娑婆に有暇具足を得て生じさせること、または、他の浄土世界、天界における如来の化身化土の世界、仏法の修せられる世界へと生じさせることであれば、凡夫であっても十分に可能であるということになります。

もちろん、次生で如来の報身報土へと往生したいとなれば、無上瑜伽タントラの究竟次第における「楽空無差別」を実現できれば、それは叶えられるものとなるでしょう。

しかし、それは当然に簡単なものではなく、過去世から相当に福智二資糧を積んできた菩薩以外では相当に難しいものであります。

ただの凡夫が報身報土へと往生するのが不可能であるというのも、「楽空無差別」の実現可能性を考えることからも理解ができるということでもあるのであります。

「施餓鬼会(施食会・水陸会)と放生会について」

2022年05月02日 | 新考察
前回の施餓鬼法要における法話の内容から、「放生」について色々とご質問を頂くことになりましたので、そのお答えの一つとして下記のようにまとめさせて頂いておきますので、ご参照下さいませ。

「施餓鬼会(施食会・水陸会)と放生会について」

もともと、施餓鬼会(施食会・水陸会)が中国、日本で盛んとなる前には、僧俗共における仏教行事の中でも特に主な行事となっていたのが、「放生(ほうじょう)会」となります。

「放生」は、仏教における第一の戒律である不殺生戒の実践、慈悲行の実践として、全ての生類、衆生の命を大切にするということの一環として、特に食用、ペット用として売られてある生き物を助けて、野に解き放って、自然へと返してあげるという考えを基に行われるところとなります。

そして、「放生」により積んだ功徳を、一切衆生の悟りへと向けて回向したり、自分のご先祖さまや供養をしたい者への追善供養としたり、あるいは、自分の後生のための功徳とするなどして、各々の仏道の成就へと向けた資糧とするものであります。

また、生きていく上において、やむなく奪ってしまう命(食べる命)や悪意、故意や過失なく殺してしまった命等、私たちは、たくさんの犠牲の元で生存させて頂いていることへの懺悔、慚愧ということから、「放生」による功徳で滅罪を図る、悪業浄化を図るというために行うということもあります。

この思想における仏典の典拠としては、主には金光明経や梵網経に由来するところになります。

しかし、この放生会は、やがて中国、日本においても衰退していくことになり、その代わりとして施餓鬼会(施食会・水陸会)の方がより中心的に営まれていくことになります。

この要因としては、やがて仏教における目的の一つとなる先祖供養が主なものとなっていく中で、その役割を果たすことが鮮明化される施餓鬼会(施食会・水陸会)の方が、在家においての需要が高まることになっていったからであると推測されます。

もちろん、施餓鬼会(施食会・水陸会)も一切衆生の悟りへと向けた功徳を主目的として儀軌が調えられるものとなりますが、その趣旨は、餓鬼への施しを通じた先祖供養のための功徳という点が強調されるところになり、寺院行事の中心的なものとなっていくことになりました。

施餓鬼供養で読むお経「開甘露門」(かいかんろもん)についての解説は下記を参照下さい。

開甘露門(施餓鬼のお経について)
http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/85151234.html

しかし、拙考においては、「放生会」(不殺生行)による功徳と「施食会」(布施行)による功徳では、その差はかなり大きなものがあり、功徳の差を考えるならば、「放生」の方がより推奨されるべきではないだろうかと考えるところであります。

いや、むしろ、「放生会」と「施餓鬼会(施食会・水陸会)」は両方を一緒に行うことで、よりその功徳の意義を高めることができるものとなるのではないだろうかと考えています。

「水陸放生施食会」として、儀軌を調えて行うことを提案したいところとなります。

ただ、近年、実際の放生で問題となっているのが、環境、生態系へ悪影響を及ぼしてしまう場合や、放生としての動物を売買する商用化、または、魚介類を放生した下流では転売目的で漁師が待ち構えて放生した魚を捕らえてしまうなどの反道徳・反倫理的な行為へと逆に繫がってしまうなどの懸念もあり、せっかくの善行、功徳を台無しにしてしまうことも多々見受けられるところとなっています。

そこで、大量の魚や鳥を放つ、それもわざわざ放生用としての動物を買い取って放つなど、そのように仰々しいことをしなくても、身近な生き物を大事にすることで、その功徳を積むことは十分にできるものとなります。

例えば、放生会の日(あるいはその前後、彼岸期間であれば一週間)は、できる限り肉、魚を食べることを控える、歩く際には、地面にできる限り注意を払って小さな虫を踏まないようにする、または、他人に踏まれそうな虫がいれば、草陰へと持っていってやる、水瓶等の水たまりで溺れている虫がいれば助けてあげる、家の中に出た虫を殺さずに外へと逃してあげる、蚊取り線香やゴキブリホイホイ、アリの巣コロリ等の殺虫剤の使用を控えるなど、実際に身近でできることはたくさんあります。

そのように放生の功徳を実践した上で、寺院・僧侶による放生会の法要に参加して、積んだ功徳を回向することが大切なことになります。

では、その法要の儀軌はどのようなものが望まれるのかということですが、主には施餓鬼会(施食会・水陸会)に準拠するものとして、回向において「放生の功徳を一切衆生へと回向する」ことを文言として整理して加えると良いでしょう。

「水陸放生施食会」法要の儀軌の例としては、観音菩薩の関連するお経を中心としての読誦、回向として、

開経偈・般若心経・大悲心陀羅尼(大悲呪)・開甘露門・観音経世尊偈・放生会回向並び施食会回向・四弘誓願として調えると良いのではないだろうかと思われます。

また、儀軌への補足としての称名念仏、真言や陀羅尼としては、開甘露門の七如来や五如来の称名や十仏名の称名、あるいはそれら如来の各真言、陀羅尼としては、光明真言や宝楼閣真言、宝篋印陀羅尼、阿弥陀如来根本陀羅尼、仏頂尊勝陀羅尼などを加えると尚良いのではないだろうかと存じます。

更には、放生としての不殺生の実践と共に、施食としての布施の実践としては、実際の餓鬼や地獄の衆生たちへと向けた食べ物等をお供えすること(実際は寺院へと納める供養料としての金品に代わってしまいますが、本来は、米等が望まれるでしょう)も必要なことになります。(※米が望まれるのは、米を万倍の乳粥へと陀羅尼により変化させて餓鬼へと提供し、その空腹を満たしてもらうため。米を少し動物たちへと施す「生飯」(さば)の由来も施餓鬼であります)

上記のように、これからの主な寺院行事の一つとして、「放生会」と「施餓鬼会(施食会・水陸会)」を一緒に行うようにしていくことをお勧めする次第でございます。

令和4年5月 合掌