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如来の最勝応身

2022年07月11日 | 新日記
如来、仏陀の能力であるならば、自身の最勝応身の存在を生み出すことなど簡単なのではないか、とのご質問。

最勝応身とは、私たち凡夫とも相見えられることができ、凡夫でも直接に如来、仏陀から教えを頂けることのできる大変に有り難く尊い存在である。

しかし、よく考えてほしい。

私たちの身体は、有漏、つまり、煩悩障、その習気である所知障、業により成り立っているものである。

最勝応身は、その有漏の身体に、如来、仏陀が合わせるということになる。

既に悟りを開き、勝義の光明を成就していて、完全に清浄なる意識にある無漏の心からである。

無漏の心から有漏の身体は、因果律から考えれば、生じさせることなど、もちろん当然にできないのである。

それは、如来、仏陀であってもである。

では、如来、仏陀は、最勝応身をどう生じさせるのかとなると、擬似的に有漏の心を生じさせてから、その心から有漏の身体を生じさせるのである。

擬似的にとはいえ、その有漏の存在は、当然に私たちと同じように苦しむものとなる。

釈尊の最勝応身が、数多の困難に見舞われることになったのも、その擬似的な有漏によるためであり、私たちと同じように苦しむことになるのを百も承知しながらに、最勝応身として衆生を教化なされたのは、釈尊の大慈悲によるところであったからなのである。

既に完全に綺麗となった心を、衆生の救済のためにと、擬似的にとはいえ、わざわざ汚して、地獄のような苦しみも受け入れながらに、なのである。

最勝応身ならば、報身よりもはるかに多くの衆生の救済のために資せることができる。しかし、それは自らを多く犠牲にしてによるところとなる。

一歩間違えれば、最勝応身における業次第では、如来、仏陀から退転することもないわけではないのである。

そんな危険を侵してまでも、衆生教化を何としても優先させるという強い志がなければ、とても最勝応身など安易には成せないのである。

ですから、最勝応身の出世は稀有にて、誠に有り難く尊いのであります。

とにかく、成仏論をしっかり体系的に学ぶのであれば、行合集灯、灯作明や五次第明灯がやはりお勧めとなります。

仏陀の認識論の解析

2022年04月30日 | 新日記
仏典の了義、未了義や論書の解釈の正当性、妥当性等を判断する上でも、仏陀の認識論がその座標軸、羅針盤になるところとなります。

以前にも述べさせて頂いているように、

「・・仏陀の認識論を解析することにより、仏陀と凡夫や聖者とにおける認識の比較がより一層クリアとなり、凡夫や聖者のどこの何に問題、課題があるのかがスッキリしたことで、修道の目標、目的が立てやすくなるという大きな効果が望めるようになったのであります。更に、認識論から、中観思想、唯識思想に至る仏教思想の潮流の全てを俯瞰することができる利点も。・・」

として、仏教の全思想を検討する上でも、仏陀の認識論を解析することは必須であり、それさえできれば、仏教思想に係る全ての内容について、明確に説明することができるところになります。

まさに、仏陀の認識論は、仏教における全ての思想においての解を求めるための方程式としての役割を果たすものであります。

ですから、些末な議論をするよりも、仏陀の認識論を学んだ上で、各思想、各教義等について再検討されることをお勧めする次第でございます。




お葬儀の準備について

2022年04月28日 | 新日記
以前から葬儀儀軌、儀礼、各宗派の引導先等について考察していることや、最近のこちらの記事からも色々と聞かれることが多くなっています。

『 正しいお通夜とお葬式へ向けて 』令和4年3月 春彼岸施餓鬼法要 配布資料
http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/87851117.html

その中では、葬儀の準備についてのことも。

葬儀の準備は実は色々と時間が掛かるものとなります。

一報が入ってから、葬儀社と喪主様との打ち合わせや聞き取りから始まり、戒名の作成、逮夜表の作成、白木の位牌の作成、初七日忌塔婆の作成(中陰塔婆は通常は十三仏供養としての初七日忌・不動明王様から調えることになりますが、今回の方の場合は浄土信仰の方でしたので阿弥陀如来様一尊にて調えさせて頂いています)、血脈・戒名授与の作成、引導法語の作成と続きます。特に時間が掛かるのが戒名推敲と引導法語の内容の推敲。

この間に枕経へと向かうこともあります。枕経にて、故人様へのいち早くの読経による安心のお届けと共に、故人様のことをより詳しく聞き取ることもできるので、戒名、引導法語の作成のためにも、できる限り枕経へは向かうように調えたいところとなります。但し、法務等の都合によっては、通夜式と共に行わせて頂くこともございます。









そして、通夜式・葬儀式・安骨初七日忌の三回において分けて行う各法話(それぞれ10分ほど)の内容の推敲。

これらで他の法務や作務の合間で、どうしても半日ぐらい掛かるものとなります。

一通りの準備が終わると持ち物の確認になります。忘れ物がないように注意します。



法話で使うカードは20種ほど。紋切り型のありきたりな内容とならないように、毎回それぞれに応じて法話の内容を調えさせて頂いています。

そして、会館に到着後、会館の担当者、司会者と次第や用いる備品等についての打ち合わせ、喪主様への挨拶、説明等が終わり、着替えての開式となります。


開甘露門・破地獄偈

2022年03月25日 | 新日記
開甘露門・破地獄偈

若人欲了知
三世一切仏
応観法界性
一切唯心造

極楽浄土の化身化土上に往生できても、無明とその習気、業が娑婆時代から何ら変わらず同じままであれば、顕現のあり方も娑婆でのものと変わらないのだったら、例え極楽に赴けても娑婆に生まれるのと同じ輪廻の苦にあることと変わらないのではないかと。

そうです。ただ、違いがあるとすれば、如来在世かどうかということで、それはやはり大きな違い。

報身とは無理でも、化身との見仏の可能性があるため、現在如来不在の娑婆よりかはましだ、ということになります。

結局は、娑婆であろうが極楽であろうが、そこが自分にとって何となるかは、己における無明、その習気、業、つまり、心の状態次第になるのです。

煩悩障、所知障、業の問題に取り組まずに仏道の成就などありえないのであります。それは見仏論、修道論に拘わらずに仏教において至極当然、当たり前のことであるのであります。

唯心造と言うのもそういうことなのです。

拉毛卓瑪氏「ツォンカパの後期中観思想における二諦説の研究」

2022年03月18日 | 新日記
拉毛卓瑪氏の「ツォンカパの後期中観思想における二諦説の研究」が示すところの功績、恩恵は誠に大きい。

特には、

・「離戯論」のあり方における「戯論」の定義の説明
・「離戯論をご覧になる」というあり方の説明
・「ご覧にならない仕方でご覧になる」というあり方の説明
・仏陀の「如実智」のあり方についての説明
・仏陀の「如量智」のあり方についての説明

について、ツォンカパ大師の著作群(顕教部のみ)からの明確な論理的根拠を示されて説明されているのが、誠に業績として素晴らしいのであります。

仏陀の認識論を解析することにより、仏陀と凡夫や聖者とにおける認識の比較がより一層クリアとなり、凡夫や聖者のどこの何に問題、課題があるのかがスッキリしたことで、修道の目標、目的が立てやすくなるという大きな効果が望めるようになったのであります。

更に、認識論から、中観思想、唯識思想に至る仏教思想の潮流の全てを俯瞰することができる利点も。

それは、本覚思想や仏性思想に対しても同じことが言えるのであります。

先に示したように、本覚思想への決定的な批判への論拠も示すことができるようにもなりました。

誠に有り難いのであります。

「ツォンカパの後期中観思想における二諦説の研究」拉毛卓瑪氏
https://otani.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=6784&item_no=1&page_id=13&block_id=28

ロシアのウクライナ侵攻に関して

2022年03月17日 | 新日記
まさに、「ロシアの人もウクライナの人も、中国人も、チベット人もすべての人類が、そしてすべての生きとし生けるものが、心安らかに暮らせるように、」目の前でできる功徳から一つ一つであります。

「ロシアとウクライナの問題、チベットと中国政府のとの問題、そういうことを私たちのような個人が大きく変えることはできません。あの人が悪い、この人が悪い、こうしたらいいなどと言っていまの状況が変わるのならば、そうすればいいでしょう。しかし私たちがそんなことを言ったり思っても現状改善に全く役にたちません。ロシアの人もウクライナの人も、中国人も、チベット人もすべての人類が、そしてすべての生きとし生けるものが、心安らかに暮らせるように、まずは私たち自身が真剣にそれを願わなくてはなりません。それができなければ、世界が平和になることなんてありません。」

世界平和のために、いま私たちにできること
ゴペル・リンポチェより日本のみなさまへ
https://www.mmba.jp/archives/39597

問い「何故この世界は残酷なのでしょうか」
https://hasunoha.jp/questions/59218

拙回答

世界の映え方と追善

私たちから見れば、この世は苦しみに満ち溢れた世界に映えておりますが、悟りを開いた覚者からは、この世界は清浄と映えるものとなります。

正確には、如来、仏陀に映えている(顕現している)世界は、一切は空性なる真理のあり方としての世界のみが映えており、既に汚れる業もなくなっており、清らかなお心を保たれておいででございます。

そして、衆生の苦しみのあり様を、その衆生お一人お一人の心の状態(無明、業の様子)をお覗きになられることにより、どのようにすればその苦しみを取り除くようにできるのかをお図りになられて、お救いを賜われるところとなります。

その実際の救われるための方法をお説き頂くためには、見仏(実際の仏と相見えること)と授記(その者が悟りへと至るための具体的な方法論)が必要となるところであります。

この娑婆世界では、現在如来は不在のため(弥勒仏下生までは)、それが不可能ではありますが、残されてある仏典等や偉大な聖者方による論書等で学び、実践していくことで、悟りへと至る道を歩むことが可能となってございます。また、別の如来在世の世界へと往生を目指すことも可能であります。

そのような中で、現実のこの世のありようを顧みた時に、いったいどのようなことができるのであろうかとなりますが、皆、一様に輪廻にある者全てが苦しんでいるありようには変わりはありません。

ですから、皆が救われるように、悟りの光がもたらされますようにと、功徳の実践を行うことが大切なことになります。

それには例外はありません。プーチンさん、ロシア兵、市民・・皆も苦しみの輪廻の中で喘いでいます。皆が救われるようにと追善することが、私たち一人ひとりにできることであります。

身の回り、日常の中で、身近にできる親切から。妊婦さんや高齢者に席を譲ってあげて安心させてあげることも善い功徳の一つです。アリを踏まないように歩くことも命を救う善い功徳の一つ。ゴキブリを殺さずに外に逃がしてあげることもそうです。

できることは日常の中でもたくさんあります。

そういった一つ一つの功徳を皆の業の浄化へと向けて追善して頂けましたら有り難いことでございます。

合掌

本覚思想・4

2022年03月16日 | 新日記
まあ、要は、本覚思想において、本覚的なものであると誤謬している世俗の顕現における存在というものは、凡夫においての無明とその習気、業により顕れてあるものであるため、それらが、仏、仏性、悟りなわけがあるはずが無いのであります。

また、たとえ第八地以上の菩薩であっても、後得知においての顕れは、習気(所知障)による虚偽なる顕れとなってしまっているのであります。

世俗における虚偽なる顕れがないあり方を認識できるのは、仏陀以外にはありえないのであります。

では、なぜ、如来蔵系の仏典においては、誤解を招くような表現が多出してしまっているのか。

それは、仏典を編纂した聖者方の認識レベルが、まだ後得知においての無明の習気、所知障による虚偽なる顕現の認識レベルであるにも拘らず、それを仏陀の認識にかなり近接したもの、同レベルなものとして解釈して、仏陀の教説を誤って捉えてしまったことによることが考えられるのであります。

つまり、戯論ということなのであります。

そう、実は、仏典も戯論なのです。

だから、中論において龍樹大師が、25章24偈にて、「仏はどこにおいても誰に対しても如何なる法も説かれなかった」と言うことなのであります。

認識対象に真実執着を起こす凡夫において誤解が生じるのは当たり前のことであるからこそ、釈尊は教えの文字化、言語(固定)化を諌められたのであり、それは聖者であってもしかりであったのであります。

その間違った表現を、更に間違って解釈し、その上、真実執着してしまうという、その結果、誤った思想を生み出してしまったのであります。

袴谷先生、松本先生もこのことには気付かれていないのではありますが、真なる本覚思想批判は、仏陀の認識論における私たちの誤謬ということから本来なされるべきなのであります。

この仏陀の認識論を解析することによる本覚思想への決定的な批判点は、拙生が発見したことではありますが、本覚思想批判への最終的なものを突きつけたのは、松本史朗先生からも教えを受けられた福田洋一先生、その教え子であるラモジョマ女史の博士論文であるのであります。あの論文はまさに仏教研究史上における最高峰。早々に本国に帰られたのが、残念でなりません、、

また、そういうことであるため、日本の鎌倉仏教における祖師方の本覚思想、仏性論における誤りも、当然に仕方がないとも言えるのであります。仏典を編纂した聖者であっても誤解するほどに難しいことであったのでありますから。だから、文字化するな、言語(固定)化するなと釈尊はご忠告なさられたのでもあります。

・・

では、仏陀の「如量知」とはどのようなものとなるのか。

実は、仏陀の知において、仏陀の側では「如実知」も「如量知」も実は違いがなく、一つの知、つまり、「仏智」となります。

阿羅漢以上、第八地以上の菩薩などの聖者には、「等引知」と「後得知」がありますが、仏智には、後得知はなく、世俗のあり方をご覧になられる場合でも、あくまで等引知の状態にてご認識をなさられるのであります。

その世俗のあり方を仏陀がご覧になられている知の状態を、一応は「如量知」と私たちの側から分けて言っているだけに過ぎないのであります。

元々、空性を直観知で認識なさられておられるだけのあり方が、本来の仏智というものとなります。

この空性を直観知で認識なさられている、その状態においては、私たち凡夫が認識しているような世俗で顕現しているものは、実は存在していないものであります。

なぜなら、世俗で顕現しているものは、凡夫の無明とその習気、業の状態によって顕現しているものであるからであります。

仏陀には、無明、その習気、業も無いため、私たちが認識している世俗の事物、事象の顕れといったものは、何も映えられておられず、ただ空性の真理しか映えられておられないのであります。

このただ空性の真理しか映えられておられない状態での仏智の状態におけることを、私たち凡夫が捉えている世俗の事物、事象の顕れに、真理、悟りが映えているものとして、私たちが勘違いをして、それを真理、悟りの顕現、仏の顕現、仏性の顕現と誤って理解して捉えてしまっているのが、本覚思想における解釈の過ちに繋がってしまっているものであると考えられます。

より詳しく述べるとすれば、世俗の事物、事象の顕れは、本来、無明とその習気、業のある凡夫にしか生じていないのであります。一方、仏陀はただ空性の真理しか認識なさられておられないのであります。

それを私たちが認識している世俗の事物、事象の顕れを、仏陀も同じように認識なさられていると勘違いしてしまっているために、それが本覚思想的な解釈の誤りになってしまっているのであります。

世俗の顕現(凡俗の顕現)は、私たち凡夫に真実執着、諦執を起こさせてしまうもの(凡俗の執着)で、それは迷い苦しみの顕現そのものでしかない、「虚偽の顕れ」なのであります。

その顕現を、仏だ、仏性だ、悟りだ、真理だとしてしまうと、仏智と同じように世俗の顕現を私たちも認識できていると思っていることと、それらの世俗の顕現を真実の顕れだと思ってしまうことの二重の意味での間違いになり、更にそれに真実執着することにより、余計に業を汚してしまうことになるのであります。

元々全ては悟っているのだから何もしなくても良いとか、逆に、元々全ては仏そのもの、悟りそのものなのだから何をしても良いとか、全てが悟り、真理、仏であるのだからそのまま、あるがままで良いとか、あるがままそのままを受け入れようとか、などなど。このように仏教を根本から破壊する解釈へと帰結してしまうのであります。

少し話を戻して、では、仏陀は世俗のものを認識なさられないのか、と申しますとそうではありません。世俗のありようが認識できなくては、慈悲による善巧方便が成り立たなくなってしまうからであります。

そこで、仏陀の「如量知」のあり方とは、どのようなものになるのかということでありますが、仏陀にとっては、既に、私たち凡夫における世俗に顕現しているようなものは何も存在しておらず、当然に、仏智には映えないものであります。

しかし、仏陀は、もちろん、元々は無明とその習気、業があった凡夫の頃、菩薩の修行時代があったはずで、おおよそ、どのように凡夫に世俗が映えているのかは当然に知っておられるわけで、だいたいのことは想像がお付きである次第となります。

そして、実際に凡夫お一人お一人の認識に、どのように世俗が顕現しているのかを、凡夫の状態に応じての、その凡夫の認識のあり方を通じて、世俗の顕現をお知りになられるのであります。

ですから、それぞれの凡夫において、何が迷い苦しみの原因となっているのかは、凡夫の捉えている認識のありようを詳しくご覧になることで、ご理解をなさられるのであります。

要は、凡夫の無明、その習気と業の状態をご覧になられることで、具体的な善巧方便をなさられるというわけであります。

この凡夫に顕現している世俗のありようをご覧になられるあり方を「如量知」として、一応便宜的に分けているに過ぎないということなのであります。

・・

仏陀の認識論において重要な概念となるのが、「如実知」と「如量知」となります。

「如実知」は、いわゆる無漏の三昧知、等引知であり、これは空性しか認識していない状態で、「虚空の如き空性」と世俗的に表現されます。

この無漏の三昧知・等引知は、煩悩障を断じた聖者以上の段階において可能な認識状態となります。

ただ、仏陀との違いは、三昧・等引から離れる「後得知」においては、「幻の如き空性」と表現されるように、空性であることは十分に了解していても、事物・事象は、まだ実体があるかのように顕れてきてしまっているのであります。

もちろん、実体があるかのように顕れが認識において起こってしまう(真実執着・諦執)ものの、それによりもはや汚れる業は既に無いため、業は清らかさを保ってある状態で、真実執着・諦執の障りとなっている「所知障」の断滅へと向かってゆくことになるのであります。

では、聖者の後得知に対応する世俗の顕れを認識する仏陀の「如量知」とはいかなるものであるのか、ということが次に問われるところとなります。

この仏陀の「如量知」のあり方に対しての錯覚とも言える誤解が「本覚思想」の間違った解釈に繋がってしまっているものであると考えられるのであります。

・・

本覚思想において、「山川草木悉皆成仏」、「山川草木悉有仏性」として、全てのものは、仏の顕れである、仏であると、一般的に解されることになりますが、もし全てが仏であるとするならば、皆、もう最初から既に救われていなければおかしなことになりますし(輪廻の衆生は全く存在しないことになる)、全てには、当然に自分自身も含まれることになるため、自分においても何も迷い苦しみはなく、全てのことを知り尽くしているはずであります(一切知)が、全くそうではありません・・

また、もしも、そのあたりにある石ころが、如来・仏陀であるとするならば、法身と色身の二身を成就しているはずであり、私たちを救って下さるはたらき(慈悲による具体的な善巧方便)があるはずですが、そんなはたらきを見せることも当然にありません。

では、なぜ華厳経や法華経、その他多くの如来蔵系の経典にて「本覚思想」的な立場が説かれているのか。

以前にも仏陀の認識論からこのことを説明させて頂いておりますが、また改めてまとめてみたいと思います。

本覚思想・3

2022年03月15日 | 新日記
では、仏陀の「如量知」とはどのようなものとなるのか。

実は、仏陀の知において、仏陀の側では「如実知」も「如量知」も実は違いがなく、一つの知、つまり、「仏智」となります。

阿羅漢以上、第八地以上の菩薩などの聖者には、「等引知」と「後得知」がありますが、仏智には、後得知はなく、世俗のあり方をご覧になられる場合でも、あくまで等引知の状態にてご認識をなさられるのであります。

その世俗のあり方を仏陀がご覧になられている知の状態を、一応は「如量知」と私たちの側から分けて言っているだけに過ぎないのであります。

元々、空性を直観知で認識なさられておられるだけのあり方が、本来の仏智というものとなります。

この空性を直観知で認識なさられている、その状態においては、私たち凡夫が認識しているような世俗で顕現しているものは、実は存在していないものであります。

なぜなら、世俗で顕現しているものは、凡夫の無明とその習気、業の状態によって顕現しているものであるからであります。

仏陀には、無明、その習気、業も無いため、私たちが認識している世俗の事物、事象の顕れといったものは、何も映えられておられず、ただ空性の真理しか映えられておられないのであります。

このただ空性の真理しか映えられておられない状態での仏智の状態におけることを、私たち凡夫が捉えている世俗の事物、事象の顕れに、真理、悟りが映えているものとして、私たちが勘違いをして、それを真理、悟りの顕現、仏の顕現、仏性の顕現と誤って理解して捉えてしまっているのが、本覚思想における解釈の過ちに繋がってしまっているものであると考えられます。

より詳しく述べるとすれば、世俗の事物、事象の顕れは、本来、無明とその習気、業のある凡夫にしか生じていないのであります。一方、仏陀はただ空性の真理しか認識なさられておられないのであります。

それを私たちが認識している世俗の事物、事象の顕れを、仏陀も同じように認識なさられていると勘違いしてしまっているために、それが本覚思想的な解釈の誤りになってしまっているのであります。

世俗の顕現(凡俗の顕現)は、私たち凡夫に真実執着、諦執を起こさせてしまうもの(凡俗の執着)で、それは迷い苦しみの顕現そのものでしかない、「虚偽の顕れ」なのであります。

その顕現を、仏だ、仏性だ、悟りだ、真理だとしてしまうと、仏智と同じように世俗の顕現を私たちも認識できていると思っていることと、それらの世俗の顕現を真実の顕れだと思ってしまうことの二重の意味での間違いになり、更にそれに真実執着することにより、余計に業を汚してしまうことになるのであります。

元々全ては悟っているのだから何もしなくても良いとか、逆に、元々全ては仏そのもの、悟りそのものなのだから何をしても良いとか、全てが悟り、真理、仏であるのだからそのまま、あるがままで良いとか、あるがままそのままを受け入れようとか、などなど。このように仏教を根本から破壊する解釈へと帰結してしまうのであります。

少し話を戻して、では、仏陀は世俗のものを認識なさられないのか、と申しますとそうではありません。世俗のありようが認識できなくては、慈悲による善巧方便が成り立たなくなってしまうからであります。

そこで、仏陀の「如量知」のあり方とは、どのようなものになるのかということでありますが、仏陀にとっては、既に、私たち凡夫における世俗に顕現しているようなものは何も存在しておらず、当然に、仏智には映えないものであります。

しかし、仏陀は、もちろん、元々は無明とその習気、業があった凡夫の頃、菩薩の修行時代があったはずで、おおよそ、どのように凡夫に世俗が映えているのかは当然に知っておられるわけで、だいたいのことは想像がお付きである次第となります。

そして、実際に凡夫お一人お一人の認識に、どのように世俗が顕現しているのかを、凡夫の状態に応じての、その凡夫の認識のあり方を通じて、世俗の顕現をお知りになられるのであります。

ですから、それぞれの凡夫において、何が迷い苦しみの原因となっているのかは、凡夫の捉えている認識のありようを詳しくご覧になることで、ご理解をなさられるのであります。

要は、凡夫の無明、その習気と業の状態をご覧になられることで、具体的な善巧方便をなさられるというわけであります。

この凡夫に顕現している世俗のありようをご覧になられるあり方を「如量知」として、一応便宜的に分けているに過ぎないということなのであります。

・・

仏陀の認識論において重要な概念となるのが、「如実知」と「如量知」となります。

「如実知」は、いわゆる無漏の三昧知、等引知であり、これは空性しか認識していない状態で、「虚空の如き空性」と世俗的に表現されます。

この無漏の三昧知・等引知は、煩悩障を断じた聖者以上の段階において可能な認識状態となります。

ただ、仏陀との違いは、三昧・等引から離れる「後得知」においては、「幻の如き空性」と表現されるように、空性であることは十分に了解していても、事物・事象は、まだ実体があるかのように顕れてきてしまっているのであります。

もちろん、実体があるかのように顕れが認識において起こってしまう(真実執着・諦執)ものの、それによりもはや汚れる業は既に無いため、業は清らかさを保ってある状態で、真実執着・諦執の障りとなっている「所知障」の断滅へと向かってゆくことになるのであります。

では、聖者の後得知に対応する世俗の顕れを認識する仏陀の「如量知」とはいかなるものであるのか、ということが次に問われるところとなります。

この仏陀の「如量知」のあり方に対しての錯覚とも言える誤解が「本覚思想」の間違った解釈に繋がってしまっているものであると考えられるのであります。

・・

本覚思想において、「山川草木悉皆成仏」、「山川草木悉有仏性」として、全てのものは、仏の顕れである、仏であると、一般的に解されることになりますが、もし全てが仏であるとするならば、皆、もう最初から既に救われていなければおかしなことになりますし(輪廻の衆生は全く存在しないことになる)、全てには、当然に自分自身も含まれることになるため、自分においても何も迷い苦しみはなく、全てのことを知り尽くしているはずであります(一切知)が、全くそうではありません・・

また、もしも、そのあたりにある石ころが、如来・仏陀であるとするならば、法身と色身の二身を成就しているはずであり、私たちを救って下さるはたらき(慈悲による具体的な善巧方便)があるはずですが、そんなはたらきを見せることも当然にありません。

では、なぜ華厳経や法華経、その他多くの如来蔵系の経典にて「本覚思想」的な立場が説かれているのか。

以前にも仏陀の認識論からこのことを説明させて頂いておりますが、また改めてまとめてみたいと思います。

本覚思想・2

2022年03月14日 | 新日記
仏陀の認識論において重要な概念となるのが、「如実知」と「如量知」となります。

「如実知」は、いわゆる無漏の三昧知、等引知であり、これは空性しか認識していない状態で、「虚空の如き空性」と世俗的に表現されます。

この無漏の三昧知・等引知は、煩悩障を断じた聖者以上の段階において可能な認識状態となります。

ただ、仏陀との違いは、三昧・等引から離れる「後得知」においては、「幻の如き空性」と表現されるように、空性であることは十分に了解していても、事物・事象は、まだ実体があるかのように顕れてきてしまっているのであります。

もちろん、実体があるかのように顕れが認識において起こってしまう(真実執着・諦執)ものの、それによりもはや汚れる業は既に無いため、業は清らかさを保ってある状態で、真実執着・諦執の障りとなっている「所知障」の断滅へと向かってゆくことになるのであります。

では、聖者の後得知に対応する世俗の顕れを認識する仏陀の「如量知」とはいかなるものであるのか、ということが次に問われるところとなります。

この仏陀の「如量知」のあり方に対しての錯覚とも言える誤解が「本覚思想」の間違った解釈に繋がってしまっているものであると考えられるのであります。

・・

本覚思想において、「山川草木悉皆成仏」、「山川草木悉有仏性」として、全てのものは、仏の顕れである、仏であると、一般的に解されることになりますが、もし全てが仏であるとするならば、皆、もう最初から既に救われていなければおかしなことになりますし(輪廻の衆生は全く存在しないことになる)、全てには、当然に自分自身も含まれることになるため、自分においても何も迷い苦しみはなく、全てのことを知り尽くしているはずであります(一切知)が、全くそうではありません・・

また、もしも、そのあたりにある石ころが、如来・仏陀であるとするならば、法身と色身の二身を成就しているはずであり、私たちを救って下さるはたらき(慈悲による具体的な善巧方便)があるはずですが、そんなはたらきを見せることも当然にありません。

では、なぜ華厳経や法華経、その他多くの如来蔵系の経典にて「本覚思想」的な立場が説かれているのか。

以前にも仏陀の認識論からこのことを説明させて頂いておりますが、また改めてまとめてみたいと思います。

本覚思想・1

2022年03月13日 | 新日記
本覚思想において、「山川草木悉皆成仏」、「山川草木悉有仏性」として、全てのものは、仏の顕れである、仏であると、一般的に解されることになりますが、もし全てが仏であるとするならば、皆、もう最初から既に救われていなければおかしなことになりますし(輪廻の衆生は全く存在しないことになる)、全てには、当然に自分自身も含まれることになるため、自分においても何も迷い苦しみはなく、全てのことを知り尽くしているはずであります(一切知)が、全くそうではありません・・

また、もしも、そのあたりにある石ころが、如来・仏陀であるとするならば、法身と色身の二身を成就しているはずであり、私たちを救って下さるはたらき(慈悲による具体的な善巧方便)があるはずですが、そんなはたらきを見せることも当然にありません。

では、なぜ華厳経や法華経、その他多くの如来蔵系の経典にて「本覚思想」的な立場が説かれているのか。

以前にも仏陀の認識論からこのことを説明させて頂いておりますが、また改めてまとめてみたいと思います。