如来、仏陀の能力であるならば、自身の最勝応身の存在を生み出すことなど簡単なのではないか、とのご質問。
最勝応身とは、私たち凡夫とも相見えられることができ、凡夫でも直接に如来、仏陀から教えを頂けることのできる大変に有り難く尊い存在である。
しかし、よく考えてほしい。
私たちの身体は、有漏、つまり、煩悩障、その習気である所知障、業により成り立っているものである。
最勝応身は、その有漏の身体に、如来、仏陀が合わせるということになる。
既に悟りを開き、勝義の光明を成就していて、完全に清浄なる意識にある無漏の心からである。
無漏の心から有漏の身体は、因果律から考えれば、生じさせることなど、もちろん当然にできないのである。
それは、如来、仏陀であってもである。
では、如来、仏陀は、最勝応身をどう生じさせるのかとなると、擬似的に有漏の心を生じさせてから、その心から有漏の身体を生じさせるのである。
擬似的にとはいえ、その有漏の存在は、当然に私たちと同じように苦しむものとなる。
釈尊の最勝応身が、数多の困難に見舞われることになったのも、その擬似的な有漏によるためであり、私たちと同じように苦しむことになるのを百も承知しながらに、最勝応身として衆生を教化なされたのは、釈尊の大慈悲によるところであったからなのである。
既に完全に綺麗となった心を、衆生の救済のためにと、擬似的にとはいえ、わざわざ汚して、地獄のような苦しみも受け入れながらに、なのである。
最勝応身ならば、報身よりもはるかに多くの衆生の救済のために資せることができる。しかし、それは自らを多く犠牲にしてによるところとなる。
一歩間違えれば、最勝応身における業次第では、如来、仏陀から退転することもないわけではないのである。
そんな危険を侵してまでも、衆生教化を何としても優先させるという強い志がなければ、とても最勝応身など安易には成せないのである。
ですから、最勝応身の出世は稀有にて、誠に有り難く尊いのであります。
とにかく、成仏論をしっかり体系的に学ぶのであれば、行合集灯、灯作明や五次第明灯がやはりお勧めとなります。
最勝応身とは、私たち凡夫とも相見えられることができ、凡夫でも直接に如来、仏陀から教えを頂けることのできる大変に有り難く尊い存在である。
しかし、よく考えてほしい。
私たちの身体は、有漏、つまり、煩悩障、その習気である所知障、業により成り立っているものである。
最勝応身は、その有漏の身体に、如来、仏陀が合わせるということになる。
既に悟りを開き、勝義の光明を成就していて、完全に清浄なる意識にある無漏の心からである。
無漏の心から有漏の身体は、因果律から考えれば、生じさせることなど、もちろん当然にできないのである。
それは、如来、仏陀であってもである。
では、如来、仏陀は、最勝応身をどう生じさせるのかとなると、擬似的に有漏の心を生じさせてから、その心から有漏の身体を生じさせるのである。
擬似的にとはいえ、その有漏の存在は、当然に私たちと同じように苦しむものとなる。
釈尊の最勝応身が、数多の困難に見舞われることになったのも、その擬似的な有漏によるためであり、私たちと同じように苦しむことになるのを百も承知しながらに、最勝応身として衆生を教化なされたのは、釈尊の大慈悲によるところであったからなのである。
既に完全に綺麗となった心を、衆生の救済のためにと、擬似的にとはいえ、わざわざ汚して、地獄のような苦しみも受け入れながらに、なのである。
最勝応身ならば、報身よりもはるかに多くの衆生の救済のために資せることができる。しかし、それは自らを多く犠牲にしてによるところとなる。
一歩間違えれば、最勝応身における業次第では、如来、仏陀から退転することもないわけではないのである。
そんな危険を侵してまでも、衆生教化を何としても優先させるという強い志がなければ、とても最勝応身など安易には成せないのである。
ですから、最勝応身の出世は稀有にて、誠に有り難く尊いのであります。
とにかく、成仏論をしっかり体系的に学ぶのであれば、行合集灯、灯作明や五次第明灯がやはりお勧めとなります。