日記

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祖母洒水忌

2023年09月29日 | ブログ
祖母洒水忌

洒水忌は、閼伽水による罪業の清浄、仏道を歩むための灌頂を受ける忌日になると考えられています。布薩とも似たものであり、この思い出の内容がピッタリとなります。合掌

奥様の思い出 布薩 その二

青葉の最も清々しい頃だと申しますのに、何と無く寒さを覚えます日の朝でございました。つい先程座敷へ子供を呼びました住職の声が聞こえてまいりました。

「二人共よく聞きなさい。これは喰べる物が無いからとか、又少ないからこうするというのでは無いのだよ、月に二回、満月の夜のお月様のまんまるい日だね、そしてしん月といってお月様のみえない暗い夜、つまり一ヶ月に二日だけそういう日があるのだよ。

その日はお昼の御飯を頂いたら身を慎しむといって、兄弟喧嘩をしたり、人に迷惑をかけたり、お前達だったら、いたづらをしたりせずに心を安らかに持って腹をたてたりしない事だね。

ラジオを聞く事もしないで、其の日の夕御飯は、お悟りを開かれるために、つまりね、此の世の中のお金持ちも貧しい人も皆の人々を幸せにというその事のために、大変につらい御修行を永い間して下さった御仏さまの御釈迦様に、有難うございますと感謝を申上げて、お捧げするのだよ。

これは古くから印度という国に伝わっている大切なお寺としてのつとめるべき行事の一つであって、むつかしい言葉でわかりにくいとは思うが布薩というのだよ。

お寺に御縁を頂く事を御法縁といい、その御法縁に依ってこうして毎日を送らせて頂く私達も、今月から家族みんなが此の布薩を行なわせて頂き度いと思うから、お前達も其の通りまもって行く事が出来るね、今言った事がよく判ったね」と、何度も噛んでふくめる様な話し方でございました。

数え年六才と三才の二人の男の子の様子を、そっと物蔭から見ておりますと、やんちゃ盛りの二人も、住職の話の内容の真剣なことが分りましたのか、長男の哲秀がはっきりと「ハイ」と大きい声で返事をしてうなづきますと、次男の明彦も同じ様に兄の顔を見上げ乍らコックリと致しました。

昭和二十六年の五月の其の日から満月祭の布薩が行われる様になりました。

庫裡の正面に仏旗をかかげて、心がひきしまるのを覚えました。前月の終り頃に其の話を聞かされまして、何程と感銘を致しておりましたが、幼な子がという不安はございました。

たった夕方の一食とは申し乍ら、食糧事情が未だ充分で無く、白い御飯が御腹一ぱいによばれる事の出来ない頃とて、お昼に代用食を頂いてから、夜の食事をお捧げ申上げ、翌朝迄となりますと、大人は理解と充実した心で空腹は満して行けると致しましても、育ち盛りの幼な子には、とても無理ではと、それはかなりに案じた事でもございました。

其の翌月から朝の食卓に住職が布薩の手製の小さい立札を置きますと、二人の子は「今夜は御仏様にお捧げして布薩ね」と兄が言えば「フタッフタッ」と弟も唱しました。

自ら納得した幼な子に、其の日は野に咲く花を摘みにやりまして、夕方の食卓を飾り、季節の果物一つを四人でわけて頂きました。

般若心経を御誦え申上げ、ささやかな一椀の食事を謹しんでお捧げ申上げまして、住職の唱えの通りに御礼を申のべ、寺門において頂ける事を感謝致し、お風呂に入らず体を拭ってやすみました。

夜半に目腥めて、お腹が空いたと言いはせぬかと心配したり、泣きはせぬかと取越した事をあれこれと思いましたが、お蔭にて案じた様な事は一度も無く、此の布薩の行事がどんなにか貧しい日々であったあの頃の心の糧となり、御仏様に捧げ奉るという近親感とか充実感が、日々をささえてくれました事か計り知れ無い大きいものがございました。

谷に子を落す獅子のたとへにはとても遠く、くらべるべくもありませんが、親はいらぬ心配をせぬ事という事も学び得た事でございました。

それから四人の家族が五人となりましても、久しく一つの果実を押し頂いて布薩の夕べを分ち合いました事でございましたでしょうか。

世の中に食べ物がかなりの早さで出廻る様になって、この行事がさして苦も無くさして頂ける様になって参りました頃には、お寺に人の出入りもかなりに多く成り、又夕方遅く迄の来客や泊って行かれる御修行者の方や、又は二ヶ月三ヶ月とお籠りとも、又世直しの行者さんとも言われて、申します処の居候をする人も不思議な程に後を絶たずに有り、食事の仕度や何だかんだと雑務に追われています間に、心にあった大切な事が何時とは無しにおろそかに致してしまいました。

思えば何事にもありますという過渡期でもありました頃に、枝葉にのみとらわれてしまいまして、其の幹となるべき事を忘れて見失った愚さを、どんなにか悔んでも余り有るものがございます。

納戸から取り出して参りました一枚の何の変哲も無い板切れは、表に書かれた布薩という住職の二文字の筆跡を、今は宝物の様な心で眺める私でもございます。

此の小さい板切れに集うて、一度の無理じいも無く、互いに心を一つに致しました幼な子達は、それぞれに身を固め、長男哲秀は岐阜県義濃加茂市伊深の正眼寺様梶浦老師様の元に三年の参禅を致しまして、次期当山を護り育てくれます僧侶となり、又次男長女共に日々感謝の念と御仏様への尊崇浅からぬ者になってくれました。

御寺の御運も漸く御復興へのお陽ざしがそそがれて参りまして、住職発願申し上げましてから三十年の歳月を経まして、其の長く又けわしかった日々を今は有り難く想い起しております。

半歩そして又一歩と牛の歩みにあわせた如くですが、前へ前へと運び始め ました今日、あの布薩の札を眺めましては、御仏への感謝の念を新たに致し度いものとしみじみ思いおります昨今でございます。

そして此の後をささやか乍ら一椀の夕鍋を、月二回の布薩の日に捧げてまいります事を心して誓うものでございます。


あるイベントに行ってきました

2023年09月27日 | ブログ
「十二礼(阿弥陀仏への讃嘆礼拝偈)やりまーす」となっても、お酒が入った人たちに無視されるのは当たり前ということであろう、、

ならば、「新しい領解文について考えてもらいまーす」となっても、無視を通り越して、きっとウザがられるだけなのだろう…思考力ももちろん落ちているし、、

油小路ならば、新選組の内ゲバ事件についてであれば、少しは興味を持ってもらえるかも。

騙し討ちして死体をわざわざ晒し、仲間が引き取りにきたところを更に闇討ちにするという残忍、卑怯な手口…

新選組は仲間内での内ゲバでの死者の方が尊王攘夷派、新政府派に対してよりも圧倒的に多かった。

幕末期のドロドロした人間の所業のおぞましさを知ることができるのである…

それにももちろん「お酒」が大きく絡んでいるのである。

のんでものまれるな、である。

あるイベントに行ってきました
https://luhana-enigma.hatenablog.com/entry/2023/09/25/013145


波羅蜜乗における成仏過程

2023年09月24日 | ブログ
よく考えてみれば、波羅蜜乗における成仏過程(釈尊の成仏)では、色究竟天にて最勝滴女を召して、灌頂、羯磨印を受けて双入に入るということになりますから、無上瑜伽タントラの体系においても、定寂心に至ったものの、生身、中有において明妃を得れない場合は、色究竟天に赴いて、そこで最勝滴女を召喚、勧請して、羯磨印を修すると考えるのが妥当となりますでしょう。

この場合の最勝滴女は、やはり、補助者、お手伝いの役割になると考えられるかもしれません。

都度に明妃も成仏するなら不在、不足に陥ってしまうかもしれないですし。。

・・

勝義の光明から立ち上がる清浄なる幻身は、仏陀の色身、つまり、仏陀の相好と限りなく近いものとなるため、抱擁の姿でもなく、明妃とは別でそれぞれに持つ身体と考えるのが妥当ではあるでしょう。

しかし、羯磨印には智慧と方便の合一(ヤブユム)という、定寂心の喩えの光明、あるいは勝義の光明へ向けたものとは別の意味合いもあります。

もし、智慧と方便の合一とするならば、自分と明妃が一体となって仏陀になると考えることもできるわけです。

つまり、二人の人格が一つになるということになります。

しかし、これはあくまでも象徴的な表現、比喩と見るのが妥当ではないかとは考えます。

あくまでも羯磨印は、光明への等引のためと考えるのであります。

また、可能性としては、明妃は補助的に手伝うだけとも言えなくはありません。

しかし、理論上、同程度の高い境地にあるわけですから、同じく等引に入る、入れると考えることができるのであります。まあ、入るか入らないかは明妃自身の判断次第とも言えるのでしょうが。。

・・

無上瑜伽タントラにおける幻身の特徴の一つに、三面六臂で明妃を伴うという姿がある。

これについて、明妃はいつの段階に、どこからやってくるのか?という質問を頂いていたのだが、

羯磨印の状態は、いわゆる定寂心の段階、三空、三智(喩えの光明の実現)において必要とされるわけですが、拙生は、勝義の光明の等引へ向けた境地のためにおいてこそ、明妃、羯磨印が必要になるのではないだろうかと考えています。

本来は羯磨印は、幻身同士ではなく、生身同士の場合が想定されてあるものの、互いにそこまで高い境地にあることなど、条件面でも相当に難しいものがあるため、すでに高い境地にある幻身である明妃を、自らの幻身において、浄域、あるいは虚空から召喚、勧請して羯磨印を行うということで、その幻身同士の姿が、三面六臂で抱擁状態にあると考えることができるのではないだろうかと思うのであります。

あるいは、生身同士でも、そのまま同時に幻身を起こした結果としての姿とも、考えられるわけであります。この場合の羯磨印は、いわゆる喩えの光明の実現のためと言えるわけです。

もちろん、まだ有漏、不浄の幻身ではあるのですが。

そして、勝義の光明へと等引すると同時に、不浄の幻身は消え去ることになります。

この際、自分も明妃も、その幻身は、それぞれ消え去ることにはなります。

つまり、二人共に勝義の光明に等引することになるわけですが、次に起こす清浄な幻身は、それぞれ別になるのか、また、三面六臂の抱擁の姿なのか、そこについては私も実はまだよく分かっていないのであります。

おそらくは不浄な幻身の状態だけにおいて、羯磨印が必要となるため、それがゆえに三面六臂の抱擁の姿であるともちろん思うのではありますが、、

いずれにしても羯磨印による成仏では、二人がそれぞれに仏陀になると考えられるわけです。

だから明妃、つまり、女性の姿のままでも成仏できるとチベット密教では考えることになります。

もちろん、必ず羯磨印が成仏には必要なのかどうかについては、色々と諸説はあります。

観想で行う、中有で行う、中有にて観想で行う、幻身で行う、幻身にて観想で行うなど。

ただ拙生の説では、不浄の幻身を起こすことが羯磨印の本来のあり方であるとすれば、先に不浄の幻身を起こしてから、明妃の幻身を勧請するということになり、順序が逆になってしまうのでもあります。

このあたりが、まだ考察中ですが、成仏は一人でなく、明妃と二人で、となるとなんだか面白いと思うのであります。

東大阪市・市長選・市議選に思う

2023年09月22日 | ブログ
お寺は彼岸期間中ながら、東大阪市は、市長選、市議選の最中である。

街宣車からのマイクの声が山内にけたたましく響いて、こだましている。

拙弟、川口泰弘は、現職二期目を目指すことになる。議会活動、政策実施、陳情処理、四年間の成果、真価が問われることになる。

また、拙生の学生時代、もう25年も前のことになるが、塩川正十郎事務所で共に書生にあった浅川拓郎さんは、今回いよいよ初陣になる。

当時、関学大院、総合政策で学ばれていた。いつかは議員にと。懐かしい思い出である。ようやくに、ようやくに、ご出陣である。

しかし、東大阪は政治的な「おもし」がなくなってしまって久しいように思う。

いわゆる本当の高い志や強い理念のある「重鎮」と言える存在が、政治内外を問わず不在となってしまっているように思える。

塩川正十郎先生のご健在な時代は、色々な意味で政治的な緊張感にいつも溢れていた。まあ、活気が常にあったのである。政策論争も盛んだった。共産、公明も強かった。しかし、今やもう遠い昔のことに思えるのである。

議会にあった良い意味での緊張感が失われると、政策論争、行政監視が緩み、官僚を中心とした政治となり、保身的、踏襲的、定型的な行政となり、市政の停滞を招きかねない。

まだ東大阪に政治的「おもし」のあった遠い時代に、共に政治を語り合った戦友の健闘をお山から祈るのである。


祖母以芳忌

2023年09月22日 | ブログ
祖母以芳忌

芳は良い香りという意がありますが、故人の遺薫を香ぐということで、遺徳を偲ぶことが大切となります。

復興への道遠しの日々・・蔵書を売らなければ、お寺が維持できなかった貧しい時代・・先代の労苦を思います。

半世紀以上前のことですが、天牛書房さんには、今でも先代の売った本が並んだままになっているかもしれないですね・・

合掌

寺史より思い出シリーズを抜粋・・

奥様のことども 思い出 その一

当山筆頭信徒総代・責任役員川口三樹子氏というのが奥様の肩書きである。かねがね現住和尚は当山第一番の信徒は自分だと申され、第二番は奥様だと申される、これは当初より貫かれた御信念である。以下奥様の原稿を掲載することになる。

此の度各方面の皆様方の御力添えを頂きまして、住職念願の一つでございました処の寺史を出さして頂く運びと成りこんなに嬉しい事はございません。皆々様に厚く御礼を申上ます。

住職並びに関係者の方々が何か一筆をと仰せ頂きましたが、とてもとてもと存じ御辞退を申上ておりました処、たって仰せ下さいますので振りかえりました三十五年の間には苦しかった事、忘れられない事も随分とございますが、その想い出と共に、此の後も此のお寺に御法縁を得まして置いて頂けます限り、続けさして頂き度いと念ずる事を、一つ一つ拙ない言葉ではございますが綴らせて頂く事に致しました。

御判読をたまわりますれば幸に存じ上ます。

庫裡の玄関の畳の上に所せましと広げられた大風呂敷の上に無雑作に本が積まれていきます。

奥の書籍棚からこちらの本箱から書院の廊下の戸棚から淡々として無神経の様な表情をして住職が仏書を運んで参ります。

「これはこれは又得難い御本を」と千日前の天牛書房の番頭さんが御世辞をひとこと二こと言い乍ら大きい手帳に仏教大辞典何巻〇〇円国訳一切経の内何巻〇円と本の名前と価を書き込んで本をパラパラとくり乍ら「何と美しくお扱いで」と書き込み文字も落丁も無く命の次に大切に大切に守って来た住職の分身の様な本を一冊ずつたしかめては一人うなづいております。

玄関の衝立の傍に中腰になり庁手を畳について体の重心をとり天牛さんの動く手許を住職はうつろな思いのにじむ目で見ていました。

蝉しぐれが人の心に迄必み込んでくる晩夏の夕方近くでした。

大阪でも老舗のお店の人らしく、木綿の筒袖の上っ張りと裾をしぼったモンペのいでたちの番頭さんは「こちら様とは古いお馴染で充分に頂戴をさして頂いとります」と言って住職の前へお金を並べました。

畳についていた手を少しあげてあちらへと言う様に私の方を見ました。番頭さんは心得た顔でお金を手帳に乗せてこちらへ向いて「どうぞお納めを」と差出されました。「頂きます」と小さく言って押頂いたお金でございました。

馴れた手付きで大風呂敷に本をとても上手に包んで、中ぐくりの紐を掛けて上りかまちに包を下して土の上に立膝をして、誰の手もかりないで「どっこいしょ」と重い荷物と感じられない程に軽々と立上って胸の前にも一くくりを下げて「おおきに、又どうぞよろしくお願いします」と叮寧に言って夕映えの中へ出て行かれました。

じっと見送っていた住職の白衣が衝立のそばから座敷の方へ消えた時、何年では無理でも何十年かかっても必ず今日手放したあの本を元の書棚へもどさねばと、境内を背の荷をゆすり乍ら遠ざかって行く影を何時迄も見送り、その風呂敷を胸に残した私でした。

お金を御仏様にお供え申上げて本屋さんのお湯呑みを片づけている時その中に始めて提を切った様にこぼれる涙が自分でも愕く程に以外に水かったのを今だに忘れる事が出来ません。

中学生の頃から若い日の情熱を数々の仏書や得難い御経本を集める事に賭け続けて、つくった蔵書の事等をかねがね聞かされていました丈に、いくら戦後のきびしい生活のためとは申し乍らもと、とめどない涙の中で再び求める日を改めて誓った事でございました。

けれども其の心とはうらはらにそれから三度どうしても天牛さんに来て頂かねばならない事がつづき、其の都度淋しいとも空しいとも表わし様の無い思いを噛みしめ、手を合わせて去り行く荷を拝んだ事もございました。

あれから 三十年近くが過ぎました。

心の片隅に何時もはなれないで有りました事が此処五年程前からぼつぼつと形となって現われてまいる様になりました。

月に一冊、二冊づつですが、処々がらんとして淋しかった書棚が少しずつ並んでまいりました。

元通り迄は未だまだ程遠い事ですが、近頃では本に埋ずまって本を読む住職の姿も見受ける事が出来る様になりました。

あの哀しい迄に美しかった夕映えの中に小さくゆれ乍ら消えて行った木綿の包みを忘れない限り本を求めて参る事でございましょう。

今は老僧と呼ばれる年齢になりました住職と共に一冊又一冊と増す蔵書であります事を念じ大きい喜びと存じております。

羯磨印とヤブユム

2023年09月22日 | ブログ
勝義の光明から立ち上がる清浄なる幻身は、仏陀の色身、つまり、仏陀の相好と限りなく近いものとなるため、抱擁の姿でもなく、明妃とは別でそれぞれに持つ身体と考えるのが妥当ではあるでしょう。

しかし、羯磨印には智慧と方便の合一(ヤブユム)という、定寂心の喩えの光明、あるいは勝義の光明へ向けたものとは別の意味合いもあります。

もし、智慧と方便の合一とするならば、自分と明妃が一体となって仏陀になると考えることもできるわけです。

つまり、二人の人格が一つになるということになります。

しかし、これはあくまでも象徴的な表現、比喩と見るのが妥当ではないかとは考えます。

あくまでも羯磨印は、光明への等引のためと考えるのであります。

また、可能性としては、明妃は補助的に手伝うだけとも言えなくはありません。

しかし、理論上、同程度の高い境地にあるわけですから、同じく等引に入る、入れると考えることができるのであります。まあ、入るか入らないかは明妃自身の判断次第とも言えるのでしょうが。。

・・

無上瑜伽タントラにおける幻身の特徴の一つに、三面六臂で明妃を伴うという姿がある。

これについて、明妃はいつの段階に、どこからやってくるのか?という質問を頂いていたのだが、

羯磨印の状態は、いわゆる定寂心の段階、三空、三智(喩えの光明の実現)において必要とされるわけですが、拙生は、勝義の光明の等引へ向けた境地のためにおいてこそ、明妃、羯磨印が必要になるのではないだろうかと考えています。

本来は羯磨印は、幻身同士ではなく、生身同士の場合が想定されてあるものの、互いにそこまで高い境地にあることなど、条件面でも相当に難しいものがあるため、すでに高い境地にある幻身である明妃を、自らの幻身において、浄域、あるいは虚空から召喚、勧請して羯磨印を行うということで、その幻身同士の姿が、三面六臂で抱擁状態にあると考えることができるのではないだろうかと思うのであります。

あるいは、生身同士でも、そのまま同時に幻身を起こした結果としての姿とも、考えられるわけであります。この場合の羯磨印は、いわゆる喩えの光明の実現のためと言えるわけです。

もちろん、まだ有漏、不浄の幻身ではあるのですが。

そして、勝義の光明へと等引すると同時に、不浄の幻身は消え去ることになります。

この際、自分も明妃も、その幻身は、それぞれ消え去ることにはなります。

つまり、二人共に勝義の光明に等引することになるわけですが、次に起こす清浄な幻身は、それぞれ別になるのか、また、三面六臂の抱擁の姿なのか、そこについては私も実はまだよく分かっていないのであります。

おそらくは不浄な幻身の状態だけにおいて、羯磨印が必要となるため、それがゆえに三面六臂の抱擁の姿であるともちろん思うのではありますが、、

いずれにしても羯磨印による成仏では、二人がそれぞれに仏陀になると考えられるわけです。

だから明妃、つまり、女性の姿のままでも成仏できるとチベット密教では考えることになります。

もちろん、必ず羯磨印が成仏には必要なのかどうかについては、色々と諸説はあります。

観想で行う、中有で行う、中有にて観想で行う、幻身で行う、幻身にて観想で行うなど。

ただ拙生の説では、不浄の幻身を起こすことが羯磨印の本来のあり方であるとすれば、先に不浄の幻身を起こしてから、明妃の幻身を勧請するということになり、順序が逆になってしまうのでもあります。

このあたりが、まだ考察中ですが、成仏は一人でなく、明妃と二人で、となるとなんだか面白いと思うのであります。

幻身の三面六臂で明妃を伴うという姿について

2023年09月21日 | ブログ
無上瑜伽タントラにおける幻身の特徴の一つに、三面六臂で明妃を伴うという姿がある。

これについて、明妃はいつの段階に、どこからやってくるのか?という質問を頂いていたのだが、

羯磨印の状態は、いわゆる定寂心の段階、三空、三智(喩えの光明の実現)において必要とされるわけですが、拙生は、勝義の光明の等引へ向けた境地のためにおいてこそ、明妃、羯磨印が必要になるのではないだろうかと考えています。

本来は羯磨印は、幻身同士ではなく、生身同士の場合が想定されてあるものの、互いにそこまで高い境地にあることなど、条件面でも相当に難しいものがあるため、すでに高い境地にある幻身である明妃を、自らの幻身において、浄域、あるいは虚空から召喚、勧請して羯磨印を行うということで、その幻身同士の姿が、三面六臂で抱擁状態にあると考えることができるのではないだろうかと思うのであります。

あるいは、生身同士でも、そのまま同時に幻身を起こした結果としての姿とも、考えられるわけであります。この場合の羯磨印は、いわゆる喩えの光明の実現のためと言えるわけです。

もちろん、まだ有漏、不浄の幻身ではあるのですが。

そして、勝義の光明へと等引すると同時に、不浄の幻身は消え去ることになります。

この際、自分も明妃も、その幻身は、それぞれ消え去ることにはなります。

つまり、二人共に勝義の光明に等引することになるわけですが、次に起こす清浄な幻身は、それぞれ別になるのか、また、三面六臂の抱擁の姿なのか、そこについては私も実はまだよく分かっていないのであります。

おそらくは不浄な幻身の状態だけにおいて、羯磨印が必要となるため、それがゆえに三面六臂の抱擁の姿であるともちろん思うのではありますが、、

いずれにしても羯磨印による成仏では、二人がそれぞれに仏陀になると考えられるわけです。

だから明妃、つまり、女性の姿のままでも成仏できるとチベット密教では考えることになります。

もちろん、必ず羯磨印が成仏には必要なのかどうかについては、色々と諸説はあります。

観想で行う、中有で行う、中有にて観想で行う、幻身で行う、幻身にて観想で行うなど。

ただ拙生の説では、不浄の幻身を起こすことが羯磨印の本来のあり方であるとすれば、先に不浄の幻身を起こしてから、明妃の幻身を勧請するということになり、順序が逆になってしまうのでもあります。

このあたりが、まだ考察中ですが、成仏は一人でなく、明妃と二人で、となるとなんだか面白いと思うのであります。

安居論題、早期発表を 懸席者有志、勧学寮に申し入れ 本願寺派

2023年09月21日 | ブログ
本願寺派には、三業惑乱の時にもそうだったように、岡本さん、稲城さん、木下さんら法義を護らんとして奮闘なさる志士がたくさんいらっしゃる。親鸞聖人もきっとお慶びのことでしょう。

安居論題、早期発表を 懸席者有志、勧学寮に申し入れ 本願寺派

祖母初願忌・祖母の原稿を記す

2023年09月15日 | ブログ
祖母初願忌。祖母の原稿を記す。

六 廻る宿縁に誘われて 昭和五十六年九月(岩瀧山往生院六萬寺史 別巻壹 p241-246 )

奥様の思い出 「宿縁と業と その十」 (川口芳樹[三樹子・芳樹法尼])


先の中巻出版に際しまして、拙い文章を綴り、数々の想い出を載せて頂き本当に有難い事でございます。身に余る幸せと感謝致しております。

本来ならば此の一文を一番始めに書かせて頂くべきでありましたと存じますが、些か現代を離れた前世と今生そして業につきましてのお話でございますので後記に致しました。

丁度昭和二十二年の初秋でありましたかと記憶を致します。荒廃もこれ以上はと云える程に、堂宇はもとより境内の樹木はのび、揺れるすすきの穂さへうら悲しい荒れるに任せた、どん底の月日でございました。

昔楠木今は乃木と申しまして、煽りに煽った軍国主義の戦力増強へのうたい言葉として、七生報国のはち巻きと共に楠公精神昂揚と申して、戦中は数多くの団体、菊水会、楠薫会、小楠公会等々の人々や押し立てる会旗で埋まりました境内に、石を持たんばかりの心で佇む人さへございました。

敗戦後の空しい心を抱いた人の多い日々でございました。「楠公さんの御守りとはち巻きを身に付けて、いくさに行ったのに戦争は敗ける、息子は戦死する、こんな事って有りますやろか」と涙声で何度も何度もかきくどく言葉や遺族の涙を我事以上に悲しく受け止めたものでございました。

住職は傾く堂宇を柱で支えたり、波打つ畳の床へもぐり込んで、終日黙々と束を入れたり、屋根瓦の差し替えにのぼったりして、托鉢の合間に孤軍奮闘の毎日でございました。

来山の人影一つ無い境内の草むしりの時に石蔭からのぞく雨蛙や草むらを飛ぶ虫にさえ人なつかしく語りかけたあの頃でございました。

此の様な或る日の黄昏時でございました。何の前ぶれも無く御来山になられた一行がございました。

お供を三名程お連れになり、他に二名程が御一緒で庫裡玄関に立たれて、院主に是非お目にかかり度いと御名刺を出されました。私が承りまして取次ぎますと、書院で片づけ事を致しておりました院主は「ほう」と小首をかしげて座敷へお上り頂く様にと申しました。

其の時、先生らしいお方は御本堂の前にお在ででございました。桧の大本の下でじっと生駒の山脈を仰いで見ておられたと覚えて居ます。お供の人が先生と申し乍ら走って行かれるのをみて、私は机の囲りにお座ぶとんを出し、お茶の仕度に下っておりました。

用意と申しましても、ほんの粗茶のみで、お菓子とて無くお持ち致しますと、誰方もお在でになりません。御本堂へお詣りになられたのではと存じ、何気なく本当に何気なく書院の方へ入ってまいりました。座敷から書院、御本堂と廊下つづきでございました。

丁度其の時、御本堂から皆さんが廊下へ出てこられました。私は慌てて引返しもなりませず、お一人づつ目礼を致して、皆さんのお通り過ぎを待っておりました。

少し遅れて先生とおぼしきお方が下りて来られました。お通りを待つ私の前でピタリと足をとめられました。それは本当にピタリと云う言葉がそのままの感じでございました。

先生の白い足袋が頭を下げた私の目に飛び込んでまいりました。其のお方は小柄なお体を単衣の和服に包まれ絽の羽織、こげ茶の袴を付けておられました。柔和なお顔立ちで、鼻下にたくわえられたお髯が上品な印象を受けました。

突然に低いお声で「現御住職は楠木正行公の霊の生れ変ったお姿です。この堂宇を再興に来られました。これ迄幾度かそれを念じて、此の世には出られたが果せ無かった。機も熟さず、従う者に恵れなかった。本陣を構えたが故に焼かれた寺院の再興を、此の度こそは果されます。一通りでは無い労苦をあなたは背負っています。でも境内のあちこちに武具を付け薙刀を持つ兵士が今も犇いておりますぞ。彼等の霊魂に六百年余の星霜は無いのです」呆然と聞く私の顔を見る瞳が、するどい光を一ぱいに湛え「必ず成る。今生成さねば幾百年余の願望水泡と去る。うん、あなたは...」と申されかけた時です、私は何是か無意識に静に頭を下げました。

それは今以って自身にも判断が出来ませんもの乍ら、自己の前世が何であったかは承らない方がと願ったものなのかも知れません。

不思議な心の動きとしか表わし様がございません。或は先生は全然別の事をお話し下され様となさったのかも判りませんでしたのに「うんよしよし」と一人で三度うなづかれ、書院を出て行かれました。

二人の方が少し離れて立って居られつづかれました。御本堂内のお燈明をしめし、お線香の後仕末をして、火の元をたしかめて堂内を出て参りました院主は一番うしろでございました。それはほんの二分位にも満たない短い間の事でございました。

畳の上に糊で張りつけられでも致した様に、足を動かす事が出来ません。頭の中と心は平静なのに、膝から下が感覚が無かったのか、すぐに歩るく事が、あの時どうしても出来ませんでした。

座敷は素通りなさったらしく、庫裡の玄関にやっとのことで出ました時には行者堂の階段の下辺りで、其の方達のお姿が見えましたが、院主一人がすぐに帰って参りました。

来山から下山迄十分足ずででもございましたでしょうか、今一度お引返えし下さるものと存じていました為に、私は御見送りも申上げませんままに、三十数年間、いえいえ生涯のお別れとなりました。

「誰方でしょうか」との問いに「関東ではお名の聞えた霊媒家でお名は壁瀬さん、特に前世と今生をみられる。一昨日大阪の特志家にたってと請われて来阪、今日霊位に招じられて当山へ来山。御復興にと金一封を捧げられ、これから東京へと帰えられる由。眼通力がお有りで何でも目のあたりの御様子」と申しました。

六十才はとっくに過ぎておられましたでしょうか、小柄で品の良いお方でございました。特にお変りになられた処等はございませんでしたが、背筋をしゃんと延ばして、両手首は結んでお在ででした。

けれども一瞬のお目に宿ったするどい光。閉じて開いた時のやさしい泉のような温かさ、低い乍ら人の心の底迄くみ透るようなお声を、今も判切りと想い浮べることが出来ます。

「何か特にお話が有ったのか」と尋ねられ「いえいろいろと大変だろうが」とか極く普通のお話で、と申したのみでございました。

三十五年を経過致した今日も、あの二分足らず乍らも、心にやき付いたお言葉の内容は申してはおりません。こう申上げて参りますと、それからは一心不乱に頑張ったのだなと、お思いに成るかも存じませんが、仲々に此の事に心して懸命に御復興へと精進を重ねた次第ではございません。

檀家さんは無く、親しいお寺から差しのべて下さる収入へのお誘いは片っ端からお断りして、昼は托鉢修行に、夜は座禅と読経に明け暮れる住職に随分不満を抱きました。

清貧に甘じるのも程々にして欲しいとも考えました。愚かな事でございました。あの日のあの修行と読経の偉大な功徳が、今日につながるものである事を押し計る事が出来ませんでした。いえ其の原動力であった事すらわきまえなかった私なのでございました。

托鉢の帰えりに釘とか針金をぐっすりと買い込んで参り「御復興用材料だから大切になおしておく様に」と申します。

支払いは先日からのと今日の此の浄財で済ます様と云い付けられましたが、とてもとても三度の食事にもこと欠く折とて其の余裕はございません。

一事が万事すべてが此の通りで、生活を度外視した資材の買付けがございました。貧苦を未来への光明として、明日への道を切開いた住職と、貧苦を最大の苦として狭い視野の中でもがいていた私との違いでありました様に考えられます。

夜を徹して編物の内職を致しました。時間の許す限りお昼は托鉢に参りました。ミシンを踏む仕事も知人に頼んでさせても頂きました。住職は過労からお昼は床に着いておりましたが、夜は堂内や山辺にござを敷いて座禅と読経の絶えること無い歳月が続きました。

でも十棟に余る建物は雨が残り、床がゆるみ、少しの風雨にも被害が続出を致して、心休まる日とてございませんでした。心身の疲労から体調をそこねて、思い思い此処を去り度い等と申出た私でございました。

一枚の紙切れが渡されました「復水は盆にかえらず、願わくば車の轍である事を望む。両輪でこそ前進するものだ」と有りました。

其の時の住職の目が、壁瀬さんが最後に「うんよしよし」と三度うなづかれた時の目の光と全く同じであったのには驚愕を致しました。

そして其の言葉を今一度じっくりと想い起したのでございます。

菊水の旗に導かれ、今又轍として心を新たに致して以来、どの様な貧しさにもいろいろな苦しい出来事にも、此の一段を登るのだ、此の手と足が前に行かねばと、あやめも判らない闇路から陽のさす坂道へとさしかかる為の永いとし月でございました。

生駒山麓の緑濃い山なみの中に延々と築いた石垣。大雄宝殿の甍が聳え、堂宇を囲む棟門と塀がつづき、前に礼堂棟門、みどりの上段高く奥之院が建ち、そして今校倉が後一ヶ月を以って円成を致します。来年内には仁王門が落慶の予定でございます。庫裡に掲げた完成予想図を其のままに一つ一つと形を成して参りました。

あの荒廃の草むした日に、今日の姿を確信して駄馬の私にも鞭を当て乍ら歩み続けた住職でございます。壁瀬さんに私の前世のことは、あの時よう承りませんでしたが、私なりに必々と往生院六萬寺堂宇の総てを焼討ちにした将兵からの下知を受けて、心ならずも火矢を射かけた雑兵の一人ではなかったのかと考えます。菊水の旗を持って走った忠誠な雑兵であったものか定かでは無い乍らも、南北朝のいくさに果てたであろう事は何是か信じることが出来るのでございます。

こうして御復興の其の一端を承り、前世の償いがさせて頂けたと喜びおります。前世から今生へ、そして来世へと姿を変え、形は異っても受け継がれ行く霊の因縁と、編まれた縄の如くの宿縁は、不滅のものであると存じます。

其の中でも今生における毎日の行いの中にこそ、最も大きく果して行かねばならない約束ごとが秘められていると私は信じております。

如意輪堂を後にして、楠木家と御縁浅からぬ山腹の寺院を本陣と構え四條縄手に華と散った若き武者、涙をのんで射かけた火矢、立場は違えど結果は一つでございました。

今生其の宿縁を果さんものとふるいたつ武将の再現と、自己の業を償はんとこれに従う雑兵と、来世を願い今生を信じて残された日々を生きぬき度いと存じております。

遠い遠い昔の思い出である。

今日少し什器片付けるも足痛み中止。

気息懊恨漸く暮色を見る。

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往生院(川口家)関連年表更新を更新。祖母の逝去を追記。他少し修正
http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/91394525.html