祖母洒水忌
洒水忌は、閼伽水による罪業の清浄、仏道を歩むための灌頂を受ける忌日になると考えられています。布薩とも似たものであり、この思い出の内容がピッタリとなります。合掌
奥様の思い出 布薩 その二
青葉の最も清々しい頃だと申しますのに、何と無く寒さを覚えます日の朝でございました。つい先程座敷へ子供を呼びました住職の声が聞こえてまいりました。
「二人共よく聞きなさい。これは喰べる物が無いからとか、又少ないからこうするというのでは無いのだよ、月に二回、満月の夜のお月様のまんまるい日だね、そしてしん月といってお月様のみえない暗い夜、つまり一ヶ月に二日だけそういう日があるのだよ。
その日はお昼の御飯を頂いたら身を慎しむといって、兄弟喧嘩をしたり、人に迷惑をかけたり、お前達だったら、いたづらをしたりせずに心を安らかに持って腹をたてたりしない事だね。
ラジオを聞く事もしないで、其の日の夕御飯は、お悟りを開かれるために、つまりね、此の世の中のお金持ちも貧しい人も皆の人々を幸せにというその事のために、大変につらい御修行を永い間して下さった御仏さまの御釈迦様に、有難うございますと感謝を申上げて、お捧げするのだよ。
これは古くから印度という国に伝わっている大切なお寺としてのつとめるべき行事の一つであって、むつかしい言葉でわかりにくいとは思うが布薩というのだよ。
お寺に御縁を頂く事を御法縁といい、その御法縁に依ってこうして毎日を送らせて頂く私達も、今月から家族みんなが此の布薩を行なわせて頂き度いと思うから、お前達も其の通りまもって行く事が出来るね、今言った事がよく判ったね」と、何度も噛んでふくめる様な話し方でございました。
数え年六才と三才の二人の男の子の様子を、そっと物蔭から見ておりますと、やんちゃ盛りの二人も、住職の話の内容の真剣なことが分りましたのか、長男の哲秀がはっきりと「ハイ」と大きい声で返事をしてうなづきますと、次男の明彦も同じ様に兄の顔を見上げ乍らコックリと致しました。
昭和二十六年の五月の其の日から満月祭の布薩が行われる様になりました。
庫裡の正面に仏旗をかかげて、心がひきしまるのを覚えました。前月の終り頃に其の話を聞かされまして、何程と感銘を致しておりましたが、幼な子がという不安はございました。
たった夕方の一食とは申し乍ら、食糧事情が未だ充分で無く、白い御飯が御腹一ぱいによばれる事の出来ない頃とて、お昼に代用食を頂いてから、夜の食事をお捧げ申上げ、翌朝迄となりますと、大人は理解と充実した心で空腹は満して行けると致しましても、育ち盛りの幼な子には、とても無理ではと、それはかなりに案じた事でもございました。
其の翌月から朝の食卓に住職が布薩の手製の小さい立札を置きますと、二人の子は「今夜は御仏様にお捧げして布薩ね」と兄が言えば「フタッフタッ」と弟も唱しました。
自ら納得した幼な子に、其の日は野に咲く花を摘みにやりまして、夕方の食卓を飾り、季節の果物一つを四人でわけて頂きました。
般若心経を御誦え申上げ、ささやかな一椀の食事を謹しんでお捧げ申上げまして、住職の唱えの通りに御礼を申のべ、寺門において頂ける事を感謝致し、お風呂に入らず体を拭ってやすみました。
夜半に目腥めて、お腹が空いたと言いはせぬかと心配したり、泣きはせぬかと取越した事をあれこれと思いましたが、お蔭にて案じた様な事は一度も無く、此の布薩の行事がどんなにか貧しい日々であったあの頃の心の糧となり、御仏様に捧げ奉るという近親感とか充実感が、日々をささえてくれました事か計り知れ無い大きいものがございました。
谷に子を落す獅子のたとへにはとても遠く、くらべるべくもありませんが、親はいらぬ心配をせぬ事という事も学び得た事でございました。
それから四人の家族が五人となりましても、久しく一つの果実を押し頂いて布薩の夕べを分ち合いました事でございましたでしょうか。
世の中に食べ物がかなりの早さで出廻る様になって、この行事がさして苦も無くさして頂ける様になって参りました頃には、お寺に人の出入りもかなりに多く成り、又夕方遅く迄の来客や泊って行かれる御修行者の方や、又は二ヶ月三ヶ月とお籠りとも、又世直しの行者さんとも言われて、申します処の居候をする人も不思議な程に後を絶たずに有り、食事の仕度や何だかんだと雑務に追われています間に、心にあった大切な事が何時とは無しにおろそかに致してしまいました。
思えば何事にもありますという過渡期でもありました頃に、枝葉にのみとらわれてしまいまして、其の幹となるべき事を忘れて見失った愚さを、どんなにか悔んでも余り有るものがございます。
納戸から取り出して参りました一枚の何の変哲も無い板切れは、表に書かれた布薩という住職の二文字の筆跡を、今は宝物の様な心で眺める私でもございます。
此の小さい板切れに集うて、一度の無理じいも無く、互いに心を一つに致しました幼な子達は、それぞれに身を固め、長男哲秀は岐阜県義濃加茂市伊深の正眼寺様梶浦老師様の元に三年の参禅を致しまして、次期当山を護り育てくれます僧侶となり、又次男長女共に日々感謝の念と御仏様への尊崇浅からぬ者になってくれました。
御寺の御運も漸く御復興へのお陽ざしがそそがれて参りまして、住職発願申し上げましてから三十年の歳月を経まして、其の長く又けわしかった日々を今は有り難く想い起しております。
半歩そして又一歩と牛の歩みにあわせた如くですが、前へ前へと運び始め ました今日、あの布薩の札を眺めましては、御仏への感謝の念を新たに致し度いものとしみじみ思いおります昨今でございます。
そして此の後をささやか乍ら一椀の夕鍋を、月二回の布薩の日に捧げてまいります事を心して誓うものでございます。
洒水忌は、閼伽水による罪業の清浄、仏道を歩むための灌頂を受ける忌日になると考えられています。布薩とも似たものであり、この思い出の内容がピッタリとなります。合掌
奥様の思い出 布薩 その二
青葉の最も清々しい頃だと申しますのに、何と無く寒さを覚えます日の朝でございました。つい先程座敷へ子供を呼びました住職の声が聞こえてまいりました。
「二人共よく聞きなさい。これは喰べる物が無いからとか、又少ないからこうするというのでは無いのだよ、月に二回、満月の夜のお月様のまんまるい日だね、そしてしん月といってお月様のみえない暗い夜、つまり一ヶ月に二日だけそういう日があるのだよ。
その日はお昼の御飯を頂いたら身を慎しむといって、兄弟喧嘩をしたり、人に迷惑をかけたり、お前達だったら、いたづらをしたりせずに心を安らかに持って腹をたてたりしない事だね。
ラジオを聞く事もしないで、其の日の夕御飯は、お悟りを開かれるために、つまりね、此の世の中のお金持ちも貧しい人も皆の人々を幸せにというその事のために、大変につらい御修行を永い間して下さった御仏さまの御釈迦様に、有難うございますと感謝を申上げて、お捧げするのだよ。
これは古くから印度という国に伝わっている大切なお寺としてのつとめるべき行事の一つであって、むつかしい言葉でわかりにくいとは思うが布薩というのだよ。
お寺に御縁を頂く事を御法縁といい、その御法縁に依ってこうして毎日を送らせて頂く私達も、今月から家族みんなが此の布薩を行なわせて頂き度いと思うから、お前達も其の通りまもって行く事が出来るね、今言った事がよく判ったね」と、何度も噛んでふくめる様な話し方でございました。
数え年六才と三才の二人の男の子の様子を、そっと物蔭から見ておりますと、やんちゃ盛りの二人も、住職の話の内容の真剣なことが分りましたのか、長男の哲秀がはっきりと「ハイ」と大きい声で返事をしてうなづきますと、次男の明彦も同じ様に兄の顔を見上げ乍らコックリと致しました。
昭和二十六年の五月の其の日から満月祭の布薩が行われる様になりました。
庫裡の正面に仏旗をかかげて、心がひきしまるのを覚えました。前月の終り頃に其の話を聞かされまして、何程と感銘を致しておりましたが、幼な子がという不安はございました。
たった夕方の一食とは申し乍ら、食糧事情が未だ充分で無く、白い御飯が御腹一ぱいによばれる事の出来ない頃とて、お昼に代用食を頂いてから、夜の食事をお捧げ申上げ、翌朝迄となりますと、大人は理解と充実した心で空腹は満して行けると致しましても、育ち盛りの幼な子には、とても無理ではと、それはかなりに案じた事でもございました。
其の翌月から朝の食卓に住職が布薩の手製の小さい立札を置きますと、二人の子は「今夜は御仏様にお捧げして布薩ね」と兄が言えば「フタッフタッ」と弟も唱しました。
自ら納得した幼な子に、其の日は野に咲く花を摘みにやりまして、夕方の食卓を飾り、季節の果物一つを四人でわけて頂きました。
般若心経を御誦え申上げ、ささやかな一椀の食事を謹しんでお捧げ申上げまして、住職の唱えの通りに御礼を申のべ、寺門において頂ける事を感謝致し、お風呂に入らず体を拭ってやすみました。
夜半に目腥めて、お腹が空いたと言いはせぬかと心配したり、泣きはせぬかと取越した事をあれこれと思いましたが、お蔭にて案じた様な事は一度も無く、此の布薩の行事がどんなにか貧しい日々であったあの頃の心の糧となり、御仏様に捧げ奉るという近親感とか充実感が、日々をささえてくれました事か計り知れ無い大きいものがございました。
谷に子を落す獅子のたとへにはとても遠く、くらべるべくもありませんが、親はいらぬ心配をせぬ事という事も学び得た事でございました。
それから四人の家族が五人となりましても、久しく一つの果実を押し頂いて布薩の夕べを分ち合いました事でございましたでしょうか。
世の中に食べ物がかなりの早さで出廻る様になって、この行事がさして苦も無くさして頂ける様になって参りました頃には、お寺に人の出入りもかなりに多く成り、又夕方遅く迄の来客や泊って行かれる御修行者の方や、又は二ヶ月三ヶ月とお籠りとも、又世直しの行者さんとも言われて、申します処の居候をする人も不思議な程に後を絶たずに有り、食事の仕度や何だかんだと雑務に追われています間に、心にあった大切な事が何時とは無しにおろそかに致してしまいました。
思えば何事にもありますという過渡期でもありました頃に、枝葉にのみとらわれてしまいまして、其の幹となるべき事を忘れて見失った愚さを、どんなにか悔んでも余り有るものがございます。
納戸から取り出して参りました一枚の何の変哲も無い板切れは、表に書かれた布薩という住職の二文字の筆跡を、今は宝物の様な心で眺める私でもございます。
此の小さい板切れに集うて、一度の無理じいも無く、互いに心を一つに致しました幼な子達は、それぞれに身を固め、長男哲秀は岐阜県義濃加茂市伊深の正眼寺様梶浦老師様の元に三年の参禅を致しまして、次期当山を護り育てくれます僧侶となり、又次男長女共に日々感謝の念と御仏様への尊崇浅からぬ者になってくれました。
御寺の御運も漸く御復興へのお陽ざしがそそがれて参りまして、住職発願申し上げましてから三十年の歳月を経まして、其の長く又けわしかった日々を今は有り難く想い起しております。
半歩そして又一歩と牛の歩みにあわせた如くですが、前へ前へと運び始め ました今日、あの布薩の札を眺めましては、御仏への感謝の念を新たに致し度いものとしみじみ思いおります昨今でございます。
そして此の後をささやか乍ら一椀の夕鍋を、月二回の布薩の日に捧げてまいります事を心して誓うものでございます。