日記

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習気をおく

2021年04月20日 | 新日記
いくら無上瑜伽タントラの成就法を実践しても、凡俗の執着も凡俗の顕現も全く無くなる気がしないと不安になることもあるでしょうし、自分の境地が遅々として全く進展しないと嘆かれることもあるでしょう。

まあ、今世今生で成就するのは当然に難しい話であり、焦っても仕方のないところもあります。

それでも、灌頂を頂くことにより大阿より賜った成就へと向けた「習気」(じっけ)は、今世今生以降も途切れることなく続くところであり、今は理解が及ばず、また境地が進まなくても、その「習気」が、きっといずれ役立つものとなり、花が咲く種となるものとなります。

平岡宏一先生が、リンポチェの日本人向けの講義を通訳されていた際に、会場の雰囲気を察して、難しく煩雑となるこの部分は飛ばしましょうと述べたところ、リンポチェは、今は到底理解できなくても、いずれ先にて理解できるようになる習気を心におくことが大切なのであるとして講義を継続なさられたというエピソードがあります。

習気を頂いておくというのは、誠に有り難く尊いことなのであります。

・・

では、生起次第などの成就法にて観想した本尊も、結局はどこまでも凡俗の顕現であって、それではいつまでも境地に進展がないままにならないのか・・

当然に成就法にて、観想してあるイメージの本尊(あるいは空性のイメージ)も凡俗の顕現なるものであり、錯誤したイメージでしかないが、錯誤してはいても、それが本尊(あるいは空性)であると強く信解できる許可を得ている(灌頂)ことによって、様々な清らかな行が可能となり、それらの清らかな行にて、境地をより善いものへと進めていくことができるようになっていくと考えられるところとなります。

でも、結局のところ、錯誤したままなのはそのままで大丈夫なのかということですが、そのイメージは、灌頂や説法により十分にイメージの仕方、注意点等の説明を受け、また、曼荼羅も拝見し、実際の本尊のありようも十分に観察できていることもあり、錯誤はあっても限りなく本尊に近いイメージを観想することができるようになっており、つまり、ほぼ錯誤の無いイメージが可能となっていると考えられるものであります。もちろん、それでもそれは「慢」であるとして諫めた言い方になりますが。

同様のことは「空性」においても言えることで、師から空性についての教えを十分に頂いて理解しておくことが大事なことになるのであります。

・・

凡俗の顕現を対治する有効手段

対象があると認識、把握したその時点で、すでに問題が発生してあるため、そう簡単な有効手段はないのであります。

かといって、対象は無いのかといえば、無いわけではなく、縁起として存在しているわけですから、何もないという絶無、虚無ではありません。

そこで、空性であることを信解作意してモノ・コトを把握していけるようにするために、成就法などにおいては、まず最初に空性を観想するところから色々なモノ・コトを生起させていくのであります。しかし、問題は、凡夫においては観想するそのイメージも凡俗の顕現の対象に過ぎないため、空性を観想しようにも、本来、どうしょうもないのであります。

では、どうすれば正しい観想ができていくのか?

認識が常に錯誤した認識であることを意識することから始めていくようにするとよいのではないだろうと考えています。

現れは、真実においては自分が認識してあるそのとおりでは常にないと。

こうしていくと、凡俗の執着を起こすことがなくなっていくことになります。

こっちを先として、それから全く凡俗の執着を起こすことがなくなってから、次に凡俗の顕現の対治に取り組むという順番が必要であるのだろうと思います。

いきなり凡俗の顕現からと考えるのは、つまり、煩悩障を残したままに所知障をなくそうということであり、ニンニクが残ってあるのに、そのニオイだけを消臭剤で取り除こうとしてもいつまでも無駄であるのと同じことなのであります。

解決の先決はニンニク(煩悩障)の方なのであります。

まあ、最終的に所知障の解決はもっとはるか先の先、五次第の最後の方にならないと無理なのですから。。

・・

「施餓鬼」から始まった一連の考察
https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/e/f2ac67904d60204c87a6af2ac879a06d

極楽浄土への往生について
https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/e/fdf786b2f735761a240f23946285b2f8

開甘露門(施餓鬼のお経について)
https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/e/34b4c7f4598a50c7cd091030d62eed6c

施餓鬼供養の本質について
http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/85135519.html

施餓鬼供養・塔婆について(春彼岸・夏お盆の年2回法会開催)
http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/85052585.html

3/17-3/23・春彼岸「おせがき」供養・3/20・彼岸中日「日想観」法要のご案内
http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/85003156.html

錯誤したイメージ

2021年04月19日 | 新日記
では、生起次第などの成就法にて観想した本尊も、結局はどこまでも凡俗の顕現であって、それではいつまでも境地に進展がないままにならないのか・・

当然に成就法にて、観想してあるイメージの本尊(あるいは空性のイメージ)も凡俗の顕現なるものであり、錯誤したイメージでしかないが、錯誤してはいても、それが本尊(あるいは空性)であると強く信解できる許可を得ている(灌頂)ことによって、様々な清らかな行が可能となり、それらの清らかな行にて、境地をより善いものへと進めていくことができるようになっていくと考えられるところとなります。

でも、結局のところ、錯誤したままなのはそのままで大丈夫なのかということですが、そのイメージは、灌頂や説法により十分にイメージの仕方、注意点等の説明を受け、また、曼荼羅も拝見し、実際の本尊のありようも十分に観察できていることもあり、錯誤はあっても限りなく本尊に近いイメージを観想することができるようになっており、つまり、ほぼ錯誤の無いイメージが可能となっていると考えられるものであります。もちろん、それでもそれは「慢」であるとして諫めた言い方になりますが。

同様のことは「空性」においても言えることで、師から空性についての教えを十分に頂いて理解しておくことが大事なことになるのであります。

・・

凡俗の顕現を対治する有効手段

対象があると認識、把握したその時点で、すでに問題が発生してあるため、そう簡単な有効手段はないのであります。

かといって、対象は無いのかといえば、無いわけではなく、縁起として存在しているわけですから、何もないという絶無、虚無ではありません。

そこで、空性であることを信解作意してモノ・コトを把握していけるようにするために、成就法などにおいては、まず最初に空性を観想するところから色々なモノ・コトを生起させていくのであります。しかし、問題は、凡夫においては観想するそのイメージも凡俗の顕現の対象に過ぎないため、空性を観想しようにも、本来、どうしょうもないのであります。

では、どうすれば正しい観想ができていくのか?

認識が常に錯誤した認識であることを意識することから始めていくようにするとよいのではないだろうと考えています。

現れは、真実においては自分が認識してあるそのとおりでは常にないと。

こうしていくと、凡俗の執着を起こすことがなくなっていくことになります。

こっちを先として、それから全く凡俗の執着を起こすことがなくなってから、次に凡俗の顕現の対治に取り組むという順番が必要であるのだろうと思います。

いきなり凡俗の顕現からと考えるのは、つまり、煩悩障を残したままに所知障をなくそうということであり、ニンニクが残ってあるのに、そのニオイだけを消臭剤で取り除こうとしてもいつまでも無駄であるのと同じことなのであります。

解決の先決はニンニク(煩悩障)の方なのであります。

まあ、最終的に所知障の解決はもっとはるか先の先、五次第の最後の方にならないと無理なのですから。。

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「施餓鬼」から始まった一連の考察
https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/e/f2ac67904d60204c87a6af2ac879a06d

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施餓鬼供養の本質について
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http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/85003156.html

凡俗の顕現を対治する有効手段について

2021年04月18日 | 新日記
凡俗の顕現を対治する有効手段

対象があると認識、把握したその時点で、すでに問題が発生してあるため、そう簡単な有効手段はないのであります。

かといって、対象は無いのかといえば、無いわけではなく、縁起として存在しているわけですから、何もないという絶無、虚無ではありません。

そこで、空性であることを信解作意してモノ・コトを把握していけるようにするために、成就法などにおいては、まず最初に空性を観想するところから色々なモノ・コトを生起させていくのであります。しかし、問題は、凡夫においては観想するそのイメージも凡俗の顕現の対象に過ぎないため、空性を観想しようにも、本来、どうしょうもないのであります。

では、どうすれば正しい観想ができていくのか?

認識が常に錯誤した認識であることを意識することから始めていくようにするとよいのではないだろうと考えています。

現れは、真実においては自分が認識してあるそのとおりでは常にないと。

こうしていくと、凡俗の執着を起こすことがなくなっていくことになります。

こっちを先として、それから全く凡俗の執着を起こすことがなくなってから、次に凡俗の顕現の対治に取り組むという順番が必要であるのだろうと思います。

いきなり凡俗の顕現からと考えるのは、つまり、煩悩障を残したままに所知障をなくそうということであり、ニンニクが残ってあるのに、そのニオイだけを消臭剤で取り除こうとしてもいつまでも無駄であるのと同じことなのであります。

解決の先決はニンニク(煩悩障)の方なのであります。

まあ、最終的に所知障の解決はもっとはるか先の先、五次第の最後の方にならないと無理なのですから。。

・・

「施餓鬼」から始まった一連の考察
https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/e/f2ac67904d60204c87a6af2ac879a06d

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「施餓鬼」から始まった一連の考察

2021年04月18日 | 新日記
「施餓鬼」から始まった一連の考察



まもなく彼岸で忙しくなってしまうため「施餓鬼」から始まった一連の考察はここまでと致します。

とにかく僧俗問わず、仏道を歩む者においては、それはとても非常に厳しい旅路であることを改めて認識し、真摯に向き合い、精進していかなければならないのであります。だからと言って、諦めてしまってはそれまで。一進一退を繰り返しつつも、一歩でも前へと進めていくことが肝要になります。

たった今世の数年、10年、20年取り組んだからと言っても、とても前に進められるようなものではなく、本来は、数万年単位、数億年単位、劫単位で取り組まなければならないほどに、その問題の根本は深刻であることを十分に理解しておかなければならないものなのであります。

例え、今世、仏縁があって「僧侶」と名の付く者であっても、金襴豪華な袈裟を分不相応にも纏って、偉そうに曲彔に座りふんぞり返って導師を気取る、講釈を垂れることなど、本来は恥ずかしくこの上ないことなのであります。真に葬儀において引導が行える、執行できる資格のある者など、この日本広し、数多の僧侶がいると言えども、数人あるか無いかぐらいのものでありますでしょう。

お経を読めて、葬儀の儀軌、作法は扱えても、常にその資質、資格などほとんどないことぐらいは、しっかりと認識しておくべきでしょう。法話や説法を行う際も。(自戒・自省を十分にこめて)

追記補遺・・

僧俗共に、私たち仏教徒においては、「仏陀の教えとはどういうものなのかを理解した上で信心すべきことを知るべきであり、これは大変重要な点である。正直で開かれた心を持ち、懐疑心を持って詳しく調べ分析することにより、その理由を探究し、根拠を確かめた上で、智慧に支えられた信心」により仏道を歩むべきなのであります。

『近代の世界における科学技術や工業製品の発展には目覚ましいものがあるが、一方では、今世のあらゆる思惑に心が大きくかき乱されていることも確かなことである。このような時代には仏陀の教えに従う者たちが、仏陀の教えとはどういうものなのかを理解した上で信心すべきことを知るべきであり、これは大変重要な点である。正直で開かれた心を持ち、懐疑心を持って詳しく調べ分析することにより、その理由を探究し、根拠を確かめた上で、智慧に支えられた信心を生じるためには、広く知られている「世界の六人の荘厳と至高なる二人と呼ばれる方々や、ブッダパーリタ(仏護)、アーリヤ・ヴィムクティセーナ(解脱軍)などの手による特に優れた甚深・広大な卓越した著作はなくてはならないものと見て、「世界の六人の荘厳と至高の二人」には以前からの伝統的な仏画の描き方の伝統があったため、甚深・広大の流れを汲む九人の偉大な導師たちを新たに加えて、「ナーランダー僧院の十七人の偉大な成就者たち」の仏画を新たに作成したいと考えたのである。』

「映えあるナーラーンダー僧院の十七人の成就者たちへの三種の信心による祈願文」(造 ダライ・ラマ法王猊下)
http://media.dalailama.com/Japanese/texts/praise-17-nalanda-masters-JP.pdf

・・

なぜ無上瑜伽タントラによることでなければ成仏できないのか?

波羅蜜乗や下位のタントラでは成仏できない理由を、ツォンカパ大師は「五次第明灯」の中で明確におっしゃられていますが、その最大の理由が、波羅蜜乗や下位のタントラの修行、それと無上瑜伽タントラの生起次第だけの修行では「所知障の対治ができない」ためであるとはっきりとご説明なさられておられます。

このことは、先に書いた「最後有(十地)の菩薩の所知障による相好と無上瑜伽タントラの幻身の相違とは?」の内容に最終的にリンクすることになりますが、例えば、いかに波羅蜜乗や下位のタントラ、生起次第において瞑想・禅定修行に通達したとしても、心に現れる顕れ、あるいは、三昧・等引から出ての外界の顕れも完全に浄化することが不可能であるからであります。

それらの顕れを完全に浄化することは、波羅蜜乗や下位のタントラ、それと無上瑜伽タントラの生起次第にどれだけ取り組んだとしても絶対にありえないとツォンカパ大師は強く断言なさられておられるのであります。

それほどに、その顕現が、実体があるかのように現れるあり方というのは相当にきついのであります。

この実体があるかのように現れてくるたとえとして、ある容器に入ってあるニンニクを取り除いても(どれほどに空性を十分に理解できていたとしても、煩悩(障)を無くせたとしても)、その容器に染み付いたニンニクの臭い(実体があるかのように現れてくる習気、所知(障))までは消すことができないということであります。

その染み付いた臭い(実体があるかのように現れてくる習気)を取り除くためには、綺麗な水(普通の瞑想や禅定)だけではなく、専用の強力な洗剤(無上瑜伽タントラにおける倶生の大楽、楽空無差別智、光明、幻身など)が必要になるということであります。

この実体があるかのように現れてくる習気までも取り除いてこそ、真に迷いがなくなる、苦しみがなくなる、とらわれや執着がなくなると言えることになるのでもあります。

たまに、波羅蜜乗や下位のタントラにおける瞑想・禅定にて、解脱したとか、悟りを開いたとか、不二・非二元の体験をしたとか、まるで自分が至高の境地に至ったかのようにおっしゃる方が極まれにいらっしゃいますが、よくよく観察してみれば、所知障どころか煩悩障さえも断滅できているわけではなく、結局は、その瞑想・禅定から出れば、相変わらず煩悩はそのままであるし、当然に実体があるかのように現れてくる習気もそのままであるため、することなすこと、凡夫は凡夫のままで何も大したことはないのであります。

その勘違いしていることも分からずに、どうだ、私は解脱したぞ、悟ったぞ、悩みが無くなったぞ、苦しみが無くなったぞ、などと、自慢げに本に書いたり、ネットに上げたりと世に出したりしてあるのを見ると、なんだかとても哀れで可哀想に思うのであります。また、それで解脱できる、悟れる、悩みが無くなる、苦しみが無くなるかのように信じ込まされる方も可哀想に思うのであります・・まあ、余計なお世話であるかもしれませんが、、

・・

ツォンカパ大師をはじめとした成就者たちについて

まず、前回に高僧方の成就のお話を出しましたが、即身成仏という言葉に引っ張られて語弊が生じかねないため、断っておかなくてはいけませんが、ツォンカパ大師をはじめとした成就者たちは、それで即座に如来・仏陀となられたというわけではなく、より多くの菩薩行が可能となる心身を調えられることができ、そして、浄土や様々な世界へと自身の意思で赴けるほどの境涯になられたというのが正解であると言えるでしょう。

完全なる悟りへと向けて、ようやく如来や菩薩など諸尊に相まみえられるようになり、また、教えも直接に頂けるぐらいになられたということであります。

私たちも、もし、本当に浄土や兜率天などの天界へと至りたいと思うのであれば、それぐらいの境地にまで至っていなければ実は難しいのであります。

送る側(導師)も、送られる側(故人)も。

形式的に葬送儀軌などを調えれば、お経を読めば、真言を唱えれば、念仏を唱えれば、それで簡単に浄土へと行けるかのように思いがちですが、現実実際はそんな簡単で生易しいものでは全くないということであります。

そのように浄土へと赴けるようになるほどの境地は、無上瑜伽タントラの成就法を生涯、60年以上にわたり真摯に取り組まれた高僧方であっても非常に難しいことなのでありますから、私たち凡夫であるならば当然に推して知るべしなのであります・・

もちろん、リンポチェ方のように、余程、過去世で強力な仏縁と福智二資糧の集積があっての今世であるならば話はまた変わって参りますが・・

・・

無上瑜伽タントラにおける性瑜伽について

よくチベット密教、無上瑜伽タントラにおいては、何かアヤシイ、イカガワシイ性的な修行のイメージをもって嫌悪なさられる方がいらっしゃいます。

ヤブユムという性的結合した尊格が多数あることから、それをそのまま世間一般の性交と同じく考えて、そして、アヤシイ、イカガワシイイメージをもってしまっている場合がありますが、これは完全な誤解となります。

そして、灌頂や成就法の実践において、ホントウにそのような行為が必要であり、実践しているのか、と思われるかもしれませんが、現実的には、幾つかの厳しい条件をクリアしなければならず、また、絶対に必要というわけでもなく、現在においては、それを観想的なものとして行い、それも、性的な表現はあれども、アヤシイ、イカガワシイイメージはなく、重要な仏教思想における観念の融合的なものとして修習していくことになります。

代表的なものが、ヤブユムの場合では、智慧と方便、智慧と慈悲などになりますが、無上瑜伽タントラの場合であれば、当然に光明と空性、光明と幻身などの一体を表わすためのものとなります。

では、なぜそれが人間の快楽の象徴である性交として表されることになったのか?

言ってみれば、性交は、生命にとって種を残そうとする根源的な意味合い、つまり、最重要なものとなるのであります。その最重要な行為とその行為における快楽は、もちろん、次元は異なりますが、光明と空性の融合による悟りへと向けた仏教における至高となる楽、大楽と似た構造、目的を持っているからではないだろうかと私見ながら考えております。

光明は、まさに私たちの輪廻を司る根源的な意識とも関係してくるところであり、そういう有情の根源的なところ、深遠な部分であることの確認ができるのではないだろうかと存じます。

また、これも拙見解ながら、やはり生身の人間の肉体のまま(有漏の身体)においては、俱生の大楽智の顕現、光明の顕現は相当に難しいことであり、有漏の身体の影響を完全に排除させることは不可能に近いことであると思われます。その有漏の身体のままに成仏、いわゆる即身成仏を果たすのであれば、有漏の身体を浄化させるための相当な力が必要になると考えられます。

その必要となる相当な力を生命の根源的な力と言える性交の力を借りることで、有漏の身体を乗り越えて、俱生の大楽智の顕現、光明の顕現、幻身の顕現を目指そうとする意図があるのではないだろうかと思われます。

しかし、実際に行うには、かなり厳しい条件があり、また、例え、行者がその厳しい条件をクリアしていたとしても、パートナーにも厳しい条件があるため、更に厳しくなるのは言うまでもありません。

また、歴代高僧においては、既に十分に修習を終えており、これを実践することで即身成仏が可能であったとしても、弟子たちの誤解を避けるために、わざと避けて、死後の中有においてダーキニー・明妃を召喚して行われて成就なさられたという例がたくさん報告されてあります。

むしろ、生身の有漏の身体においては難しいものの、中有の身体であれば行いやすいものであると言えるのかもしれないですね。

更に、絶対条件ではないということは、より修習に熟練した行者においては、その必要もなく中有において清浄なる幻身と清浄なる光明の実現が可能であると考えることもできるのではないだろうかと思います。

とにかく、世間における誤解により、深遠な無上瑜伽タントラの教えが遠のいたものになってしまっているとすれば、誠に残念至極なことこの上ないと思うのであります。

・・

楽空無差別について

楽空無差別とは何か?

これは無上瑜伽タントラの中でも特に難解な解釈を有すると断言できます。

空は、もちろん空性のことであるが、問題は、その空性と一体、無差別とする「楽」が何かである。

まあ、もし、この楽が、私たちの世間で使われるような普通の苦楽の楽であるならば、そんな楽はたくさんあるため、それと空性を合わせることで、高次の境地へ到達できるとするのであれば、こんな簡単なことはない。ある程度の行者であれば、空性を信解作意することはできる。それは凡夫でもできないことはない。そして、その信解作意した空性と普通の楽を無差別とすることもできなくはない。しかし、そうであれば、誰もがある程度この境地に至れることになっているはずであるが、実際のところは全くそうではない。

楽は、そんな普通の楽ではないのである。

では、例えば、行者の禅定による心一境性の境地はどうであろうか。例えば、三昧智、等引智と言われる境地である。この境地は楽と言えるのではないか。

しかし、これもある程度の行者、まれに凡夫であっても可能と言えば可能になる。しかし、そうであれば、同じように高次の境地へ到達するものが多くあってもおかしいことではない。ところがそうではない。

では、性的な快楽の楽であるのか?

それなら、普通の人でも十分あり得るし、その快楽と信解作意した空性を合わせることで高次の境地へ到達することができるのであれば、行者どころかもっと普通の人でも高い境地に至ってあってもおかしくないことになる。もちろん、実際はそんなことはない。

では、何だということですが、この楽は、根源的な微細な輪廻を司る意識の覚醒のことであると無上瑜伽タントラでは説明されるところとなります。

それはつまり、「光明」への近接による「楽」というわけであります。

では、なぜ、光明への近接が「楽」になるのか、それはつまり、悟りという我々にとっての一番の「大楽」に向けて近づくことになるからであります。

まあ、死も言ってみれば、死の光明へと近づくことになりますから、本当は楽に近づくと表現することもできます。

しかし、凡夫は、もちろん、それが死の光明であると認識することはほぼ不可能で、更に、煩悩障、所知障、業によって、その光明は有漏の光明であるため、空性を正しく認識できることもなく、そのまま次の輪廻へと向かってゆくことになるのではありますが。

それでも、一時僅かな瞬間でも、悟りへと近づける機会であり、その間は、どちらかと言えば、楽であるとも言えます。死は苦であると皆は思うでしょうが、逆に行者は死を楽しみにしているのも、悟りへと近づくチャンスがあると考えるため、そういう理由から楽しみで仕方がないのであります。

根源的な微細な輪廻を司る意識の覚醒を無上瑜伽タントラでは、「俱生の大楽」と言いますが、これを疑似的に行うのが、風・ルンを中央脈管・アヴァドゥーティーに入れて住し染み込ませることで、その生じさせた俱生の大楽智と空性を重ね合わせて一致させるということが、「楽空無差別」ということになるのであります。

これは、やがて悟りへといたるための光明と空性を重ね合わせて一致させることへと繋げる前段階の修行であるのであります。

この前段階まで進んで、ようやく生起次第から次の究竟次第へと修行を進めていくことになるのであります。

・・

施餓鬼のお経「開甘露門」の考察から、まさかここまで続くことになるとは正直、思っていなかった・・

しかし、考えてみれば、全て一貫した論理で繋がっているのですよね・・

空と縁起、智慧と福徳、光明と幻身、法身と色身・・

無上瑜伽タントラの理論から仏教全体を俯瞰していけば、全てこの四つの項目へと集約することができるのです。

迷いから悟りへ。顕密共に中観から論理一貫性を果たすこと、それがツォンカパ大師が成し遂げられた真なる大偉業であるのであります。

・・

本尊瑜伽・本尊生起について

密教の修行、成就法において、まず取り組むことになるのが本尊瑜伽・本尊生起になります。

これは自分自身を本尊と一体化させて行う修行となります。一般的な考え方では、身口意のそれぞれを一体化させることで、三業を清浄することを目指すところとなります。

しかし、どうして三業の清浄になるのか、そこを考えるのが重要となります。

本尊瑜伽・本尊生起は、主には、「空・文字・声・色・印・相」を順次修習する六種本尊になります。

ただ、問題は、そのように順次自分を本尊と共相、イメージするだけでは、三業の清浄に繋がるわけではなく、三業の清浄に向けた、特に仏教の智慧と福徳の修習にならないといけないことになります。

本尊瑜伽・本尊生起も当然に仏道の智慧と福徳の修習にならなければ、ただ本尊を思い浮かべるだけでは悟りへ向けた具体的な対治にはならないのであります。

では、どのようなことで、本尊瑜伽・本尊生起は智慧と福徳の修習になるのか。

これは、「空性と縁起」の理解を本尊との一体化により深めることで、それが行者の智慧と福徳の力を増幅させて前進させることに繋がると考えるからであります。

空の理解が深まれば、真理を観る智慧の力となり、縁起の理解が深まれば、迷い苦しみある衆生の様々な因縁を見通して、その解決へ向けた因縁(方便)も自在に提示できるところとなり、福徳の実践の力(方便力)になるということであります。

無相瑜伽と有相瑜伽も、言ってみれば、それぞれ空と縁起ということになり、それぞれが仏陀の法身と色身の成就へと繋がると言えるのであります。

・・

光明について

光明とは何か?

光明は、主体の光明と客体の光明があり、客体、つまり認識対象の光明ということですが、これは勝義の空性のことを意味します。

次に、主体、つまり、認識側の光明ということですが、これは空性を認識する知、心のことを意味するところとなります。

しかし、普段の私たち凡夫においては、空性を認識する知、心は活動を停止していると共に、その空性を認識する知、心の邪魔、障りとなっているものがあり、それが煩悩障と所知障とになります。

この煩悩障と所知障、そして、様々な業の因縁により、私たち凡夫は、空性を正しく認識することができなくされてしまっていますが、本来は、皆、正しく空性を認識できる知、心の可能性があるのであります。

この、本来は、皆、正しく空性を認識できる知、心の可能性があることを「仏性」とか、あるいは「如来蔵」と言うのであります。

これはもともと悟っている、悟ってあるとか、そういうものではなく、あくまでも正しく空性を認識するための素地がそれぞれ皆(有情)にはあるということになります。

ですから、仏道修行により、正しく空性を認識していくための修行というものが必要になるということであります。(智慧資糧)

この光明は、死の際にも現れること(死の光明)になりますが、しかし、その光明は、煩悩障と所知障、業により汚されたもの、有漏の光明の状態であり、例え、それが光明であると確認できた(凡夫がそれが光明であると認識できることはほぼ無い)としても、その知・心によって正しく空性を認識することはできないのであります。ですから、そのまま業縁の力により次の輪廻の生まれへと向かってゆくことになるのであります。

・・

三身修道について

前回に、成仏における心(光明)から幻身を立ち上げることの必要性、重要性について書かせて頂きました。

心(光明)から幻身を立ち上げる、そのための修行が無上瑜伽タントラにおける「三身修道」になります。

「三身修道」は、死、中有、生の過程を疑似的に体験していくことで、心(微細な意識)・光明(死の光明)への核心に近づくことを目指すところがありますが、もう一つは、その心(微細な意識)・光明から身体を立ち上げる、つまり、疑似的な幻身を立ち上げることの練習も含まれてあると考えることができます。

高僧は、このコントロールをある程度、修行により進められるようになることで、中有の心から次の生に向けて、自らの意思に添うように(衆生を救済するために)、次の生の身体、境涯を調えられるようにすることができるようになり、そして「生まれ変わり」を果たすことができるようになるのであります。

ダライ・ラマ法王猊下をはじめとする活仏と言われるリンポチェ方は、そのようにこの三身修道を調えることで転生していると言えるのであります。

一方、凡夫の中有における様態は非常に不安定なもので、自分の意思で中有をコントロールすることは全くできず、過去世以来に蓄積されてある業の力を中心とした様々な縁の作用によって、やがて次の生へと向かうことになります。

もちろん、高僧方においては、幻身を成就できるぐらいに修行が進めば、死、中有の過程を利用して、成仏できることもあり得るのであります。

あるいは、今のそのままの姿においても、要は、「即身成仏」できることも可能な場合も。

もしかすると、既に、いつでも浄・不浄の幻身を立ち上げることはできるけれども、この娑婆世界におけるこの宇宙のこの地球にて、人間という姿で、あえて縁の強くある衆生たちの救済にまずあたるために、わざと成仏せずに転生している菩薩がいてもおかしくないのであります。(ダライ・ラマ法王猊下さま)

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最後有(十地)の菩薩の所知障による相好と無上瑜伽タントラの幻身の相違とは?

まず、最後有(十地)の菩薩の所知障による相好と不浄の幻身は有漏の身体であるのは両者とも同じである。

では、何が違ってくるのか?

まず、最後有(十地)の菩薩の場合、無漏の等引智から戻った際に、所知障の影響ある相好・身体のせいで、結局は、その智がまた有漏に戻ってしまうのであります。

等引智で正しく空性を理解していたけれど、所知障の影響ある相好・身体はそのままであるため、無漏の等引智を出たら、いつまでも現われは実体があるかのように現れ続けてしまうのであります。もちろん、その現われに実体が無いことは十二分にも理解はしているのではありますが。

しかし、いつまでもこの状態では、菩薩としての救済活動にも当然に限界があり、所知障の影響ある相好・身体とは別にて、無漏の等引智に入り、その無漏の等引智から、新たに立ち上げる身体が必要になるのであります。

それが幻身となるのであります。

心(光明)からその幻身を立ち上げる。このために無上瑜伽タントラの灌頂(幻身にかかる灌頂は秘密灌頂)と修行(成就法の修習)があるのであります。

まずは、有漏の光明から立ち上げる不浄の幻身、そして、無漏の光明から立ち上げる清浄の幻身。

有漏の光明から立ち上げる不浄の幻身は、無漏の光明への等引のために立ち上げた身体で、無漏の光明への等引によりその存在の根拠を失って、無漏の光明に溶け込むように消えてなくなります。

そして、次に無漏の光明から立ち上げる清浄の幻身(無漏の幻身)、これが仏陀の相好へとそのまま続くものになるのであります。

(もしも、最後有(十地)の菩薩の場合、そのままの相好・身体で、無上瑜伽タントラにおける無漏の光明(勝義の光明)へ無理やりに等引に入ったならば、その後に無漏の光明の存したいとする相好・身体は無く、そのまま相好・身体が無いままとなり、つまり、法身のみの成就になるということであります。これはもちろん無いとは言えませんが、皆の救済のために悟りを目指すという大乗仏教の菩提心からは、法身のみの成就ではなく、実際の衆生の救済に役立つ色身の成就も果たさなければならないものとなります。この色身を成就するためには、光明から身体を立ち上げるための修行、過程が必要になるということであります。)

最後有(十地)の菩薩では、この仏陀の相好へと続く根拠となるもの、無上瑜伽タントラの清浄の幻身(無漏の幻身)が立ち上げられないため、最後の最後、成仏の際には無上瑜伽タントラに依らなければならないということになるのであります。

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光明真言(不空大灌頂光真言)について

曹洞宗の甘露門には、先に色々と考察した大宝楼閣善住秘密陀羅尼と共に諸仏光明真言灌頂陀羅尼(光明真言)も読誦されています。

曹洞宗の甘露門について
https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/e/72de11ab38ae8e8b64614487df7e78dc


大宝楼閣善住秘密陀羅尼からの関連考察
https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/e/26c3f9984fe03ee8f2af0d57050719b4

曹洞宗において光明真言は、施餓鬼では読誦されますが、葬儀では読誦されません。引導に関わる陀羅尼として、葬儀でも読まれる大宝楼閣善住秘密陀羅尼から色々と考察しましたが、葬儀では読まないものの、光明真言についてからも考えることで、より引導後について明確化することができることになるのではないかと考えます。

光明真言の内容は、不空成就如来、大日如来、阿閦如来、宝生如来、阿弥陀如来の金剛界五仏、つまり、五智如来から光明(悟りへの光を照らす、五智如来の智慧のお加持のお力)を賜るため(頂くための祈願)の真言となります。

これは、つまり、もう正式名からも分かるように五智如来から灌頂を賜るための真言となるのであります。

大宝楼閣善住秘密陀羅尼も一切如来(一応、考察では五智如来と最終的にしました)からの灌頂を頂戴するための陀羅尼であり、光明真言も五智如来からの灌頂を賜るための真言であることから、両者を鑑みれば、当然に五智如来からの灌頂を頂くということが想定されるものとなります。

無上瑜伽タントラの枠組みで考えれば、四つの灌頂の一番目、瓶灌頂となるのであります。

瓶灌頂の内容は、大きく二つに分けることができ、一つは「明灌頂」、もう一つが「阿闍梨灌頂」となります。

その「明灌頂」において、五智如来の悟りの智慧のお加持のお力を頂戴する灌頂があり、それぞれ

水灌頂 阿閦如来 大円鏡智
宝冠灌頂 宝生如来 平等性智
金剛杵灌頂 阿弥陀如来 妙観察智
鈴灌頂 不空成就如来 成所作智
名灌頂 大日如来 法界体性智

となります。

この瓶灌頂の前段の灌頂が「明灌頂」とあるように、「明」というのは、悟りのこと、一方、その逆は無明で迷いのこと、無明に悟りの光を照らすということで「(光)明灌頂」ということで、「光明」というまさにその真言の名の通りとなるのであります。

ですから、光明真言は、そのまま五智如来から灌頂を頂くというための真言となるのであります。

そして、「阿闍梨灌頂」に続き、先にも考察した「不退転灌頂」が「阿闍梨灌頂」に含まれてあるのであります。

まさにそのまま「瓶灌頂」を頂くためとなり、曹洞宗の引導の目的もそれになるということで間違いないというものとなります。

さて、ここで、この光明真言について説かれてあるお経「不空羂索毘盧遮那仏大灌頂光真言」において、実は、真言の功徳として、極楽浄土への往生について説かれてあります。

とするならば、光明真言による引導先、つまり、灌頂を受ける先として考えられるのは、阿弥陀如来の極楽浄土となる可能性もあります。

大宝楼閣善住秘密陀羅尼による考察からは、曹洞宗の引導先は、色究竟天上に荘厳された大宝楼閣曼荼羅(世界)としましたが、阿弥陀如来の極楽浄土も引導先として考えられなくないということには一応なります。

もしかすると、元々の曹洞宗の葬送儀軌には、実は大宝楼閣善住秘密陀羅尼と共に光明真言もあったのかもしれません。

しかし、極楽往生的な要素を近代になり排除して形式を調えた際に、極楽往生が想定される光明真言を省いた可能性があるのかもしれません。これはあくまでも推測ですが。

このあたりは天台宗の引導が、阿弥陀如来の極楽浄土であり、阿弥陀経が読誦され、光明供修法(来迎を迎える儀式)があり、そして、重要な引導の陀羅尼として光明真言が読誦されることから、光明真言は、やはり極楽浄土への引導に向けた陀羅尼と考えても妥当なところとなります。

そのため、極楽往生的な要素を排除するためとして、曹洞宗は葬儀において、この光明真言を読まなくなった可能性はあるのではないだろうかと思われます。

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波羅蜜乗と無上瑜伽タントラの決定的な差とは何か?

これは簡単に述べれば、仏陀の色身を得るためには、最終的には無上瑜伽タントラに依らなければならないということになります。

仏陀の法身を得る道は、波羅蜜乗でも密教でも変わりはありません。もちろん、そのスピードの差異は相当にありますが。

問題は、最後の最後で、仏陀の色身を得るための最終的な根拠が波羅蜜乗では見当たらなくなるのであります。

もちろん、波羅蜜乗では三阿僧祇劫の福徳資糧がその根拠にはなりますが、しかし、その資糧だけを以って仏陀の色身を得るのが不可能なのであります。

なぜか?

要は、資糧は積んでいても、最後有の菩薩(十地の菩薩)から如来の色身へと至るための架け橋となるもの、続くものの根拠が無いからであります。

なぜなら、最後有の菩薩の相好は、まだ所知障が残ってある状態での相好であるからであり、有漏の身体であるからであります。

そのため、その有漏の身体から仏陀の色身へと繋げるために、その有漏の身体を浄化して、新たに仏陀の色身へと繋がるものを実現しなければならないのであります。

それが無上瑜伽タントラの「幻身」となるのであります。

しかし、なぜ、最後有の菩薩(十地の菩薩)は仏陀の色身を得られないのか?

所知障を滅せられたら、その滅した意識から清浄な身体を立ち上げることはできないのか?

問題は、波羅蜜乗の菩薩は、所知障を滅せられるのかどうかであります。

所知障の(影響)ある意識(と身体)が、そもそも真に所知障の無い意識(と身体)を実現できるのか・・

要は汚い手で、汚い手自身のヨゴレを拭うことができるのか?ということですが、それはできないのであります。

もし、汚れた手を綺麗に拭うには、綺麗な手、別に綺麗な布でも良いでしょうが、その綺麗にするための「モノ」が必要となるのであります。

その綺麗にさせるための架け橋、媒体となるのが無上瑜伽タントラにおける「幻身」となるのであります。

正確には、それは無漏の幻身、「清浄な幻身」となります。

仏陀の色身へと続くこの「清浄な幻身」の実現が、成仏には必ず必要となるのであります。

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極楽浄土への往生について
https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/e/fdf786b2f735761a240f23946285b2f8

開甘露門(施餓鬼のお経について)
https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/e/34b4c7f4598a50c7cd091030d62eed6c

施餓鬼供養の本質について
http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/85135519.html

施餓鬼供養・塔婆について(春彼岸・夏お盆の年2回法会開催)
http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/85052585.html

3/17-3/23・春彼岸「おせがき」供養・3/20・彼岸中日「日想観」法要のご案内
http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/85003156.html