日記

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そもそも本覚思想・如来蔵思想の問題とは何か

2022年10月08日 | ブログ
そもそも本覚思想・如来蔵思想というものは、何が問題であるのか、ということを聞かれたのですが、

一番の問題は、修道論の破壊です。

迷いから悟りへと向けた因果関係の破綻、もしくは論理の飛躍です。

仏性内在論→修行必要

仏性顕在論→修行不要

仏性修現論→修行必要

仏性自力論→修行必要 仏種論 種(菩提心)を撒き育てていく必要がある

仏性他力論→修行不要 無種論 種(菩提心)を撒く必要さえもない

この中で問題となるのは、仏性顕在論と仏性他力論であり、悟りの基盤、根拠、因縁が極端に薄くなります。

特に問題となるのが、仏陀・如来の誓願力・本願力・加持力・救済力・方便力は、修行を増進、増上させる悟りへと向けた「縁」、つまり、条件の一つであるにも拘わらず、誓願力・本願力・加持力・救済力・方便力そのもののみにて悟りへと至れることができるという論理の飛躍であります。この論理の飛躍の代表例が、「煩悩即菩提」・「生死即涅槃」・「俗諦即勝義諦」というものであります。

(本来の般若中観思想の示す相即関係とは、空と縁起の相即関係を示し、そして、何よりも空・無自性であるからこその縁起、つまり、因果・因縁の正しさを論証するためのものであり、決して、迷いと悟りが同じであるとか、世俗諦と勝義諦が同じであるとか、そういうことを示しているものではないのであります。)

論理の飛躍であるため、論理的根拠も当然に薄くなるのであります。

もしも、仏陀・如来の誓願力・本願力・加持力・救済力・方便力のみで悟りへと至れる、仏陀・如来となれる、あるいはそれが約束されるものなのであれば、既に全ての衆生、有情は、有無を言う間もなく、仏陀・如来であるはずなのであります。

ならば、全ての世界は仏陀・如来で既に埋め尽くされてあるはずであり、この一つの三千大千世界中も仏陀・如来の誓願力・本願力・加持力・救済力・方便力で満たされてあるはずで、輪廻の衆生などはもはや生じようがないのであります。

とにかく、今、現在、人として生じてある自分自身でさえも、これほどに迷い苦しんである存在なのですから、そんなはずがないと、誰もがすぐに理解できるはずなのであります。

親鸞の還相回向・従果還因の根拠

2022年10月01日 | ブログ
親鸞聖人の還相回向、従果還因の根拠は、要は第二十二願の本願にあり、方便法身を得る根拠も第二十二願の本願に依拠しているのであります。曇鸞の解釈とは全く違うということです。

親鸞聖人は、曇鸞の「論註」や道綽の「安楽集」から二種回向や二種法身の論を引いては来るものの、その解釈は、曇鸞や道綽とは全く異なるものであることを理解しておかないと、無用な議論をすることになってしまいかねないのであります。

簡単に双方の違いを分けるとすれば、曇鸞や道綽は、まだ悟りへと向けた福智二資糧の集積、つまり、自力的要素がかなり残ってあるということで、その自力的要素の一切を排除する論を見出したのが、親鸞聖人ということなのであります。

二種回向も、自力的要素を含むものなのか、含まないものなのかということを考えると双方の違いがよく分かるのであります。