日記

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開甘露門・破地獄偈

2022年03月25日 | 新日記
開甘露門・破地獄偈

若人欲了知
三世一切仏
応観法界性
一切唯心造

極楽浄土の化身化土上に往生できても、無明とその習気、業が娑婆時代から何ら変わらず同じままであれば、顕現のあり方も娑婆でのものと変わらないのだったら、例え極楽に赴けても娑婆に生まれるのと同じ輪廻の苦にあることと変わらないのではないかと。

そうです。ただ、違いがあるとすれば、如来在世かどうかということで、それはやはり大きな違い。

報身とは無理でも、化身との見仏の可能性があるため、現在如来不在の娑婆よりかはましだ、ということになります。

結局は、娑婆であろうが極楽であろうが、そこが自分にとって何となるかは、己における無明、その習気、業、つまり、心の状態次第になるのです。

煩悩障、所知障、業の問題に取り組まずに仏道の成就などありえないのであります。それは見仏論、修道論に拘わらずに仏教において至極当然、当たり前のことであるのであります。

唯心造と言うのもそういうことなのです。

拉毛卓瑪氏「ツォンカパの後期中観思想における二諦説の研究」

2022年03月18日 | 新日記
拉毛卓瑪氏の「ツォンカパの後期中観思想における二諦説の研究」が示すところの功績、恩恵は誠に大きい。

特には、

・「離戯論」のあり方における「戯論」の定義の説明
・「離戯論をご覧になる」というあり方の説明
・「ご覧にならない仕方でご覧になる」というあり方の説明
・仏陀の「如実智」のあり方についての説明
・仏陀の「如量智」のあり方についての説明

について、ツォンカパ大師の著作群(顕教部のみ)からの明確な論理的根拠を示されて説明されているのが、誠に業績として素晴らしいのであります。

仏陀の認識論を解析することにより、仏陀と凡夫や聖者とにおける認識の比較がより一層クリアとなり、凡夫や聖者のどこの何に問題、課題があるのかがスッキリしたことで、修道の目標、目的が立てやすくなるという大きな効果が望めるようになったのであります。

更に、認識論から、中観思想、唯識思想に至る仏教思想の潮流の全てを俯瞰することができる利点も。

それは、本覚思想や仏性思想に対しても同じことが言えるのであります。

先に示したように、本覚思想への決定的な批判への論拠も示すことができるようにもなりました。

誠に有り難いのであります。

「ツォンカパの後期中観思想における二諦説の研究」拉毛卓瑪氏
https://otani.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=6784&item_no=1&page_id=13&block_id=28

ロシアのウクライナ侵攻に関して

2022年03月17日 | 新日記
まさに、「ロシアの人もウクライナの人も、中国人も、チベット人もすべての人類が、そしてすべての生きとし生けるものが、心安らかに暮らせるように、」目の前でできる功徳から一つ一つであります。

「ロシアとウクライナの問題、チベットと中国政府のとの問題、そういうことを私たちのような個人が大きく変えることはできません。あの人が悪い、この人が悪い、こうしたらいいなどと言っていまの状況が変わるのならば、そうすればいいでしょう。しかし私たちがそんなことを言ったり思っても現状改善に全く役にたちません。ロシアの人もウクライナの人も、中国人も、チベット人もすべての人類が、そしてすべての生きとし生けるものが、心安らかに暮らせるように、まずは私たち自身が真剣にそれを願わなくてはなりません。それができなければ、世界が平和になることなんてありません。」

世界平和のために、いま私たちにできること
ゴペル・リンポチェより日本のみなさまへ
https://www.mmba.jp/archives/39597

問い「何故この世界は残酷なのでしょうか」
https://hasunoha.jp/questions/59218

拙回答

世界の映え方と追善

私たちから見れば、この世は苦しみに満ち溢れた世界に映えておりますが、悟りを開いた覚者からは、この世界は清浄と映えるものとなります。

正確には、如来、仏陀に映えている(顕現している)世界は、一切は空性なる真理のあり方としての世界のみが映えており、既に汚れる業もなくなっており、清らかなお心を保たれておいででございます。

そして、衆生の苦しみのあり様を、その衆生お一人お一人の心の状態(無明、業の様子)をお覗きになられることにより、どのようにすればその苦しみを取り除くようにできるのかをお図りになられて、お救いを賜われるところとなります。

その実際の救われるための方法をお説き頂くためには、見仏(実際の仏と相見えること)と授記(その者が悟りへと至るための具体的な方法論)が必要となるところであります。

この娑婆世界では、現在如来は不在のため(弥勒仏下生までは)、それが不可能ではありますが、残されてある仏典等や偉大な聖者方による論書等で学び、実践していくことで、悟りへと至る道を歩むことが可能となってございます。また、別の如来在世の世界へと往生を目指すことも可能であります。

そのような中で、現実のこの世のありようを顧みた時に、いったいどのようなことができるのであろうかとなりますが、皆、一様に輪廻にある者全てが苦しんでいるありようには変わりはありません。

ですから、皆が救われるように、悟りの光がもたらされますようにと、功徳の実践を行うことが大切なことになります。

それには例外はありません。プーチンさん、ロシア兵、市民・・皆も苦しみの輪廻の中で喘いでいます。皆が救われるようにと追善することが、私たち一人ひとりにできることであります。

身の回り、日常の中で、身近にできる親切から。妊婦さんや高齢者に席を譲ってあげて安心させてあげることも善い功徳の一つです。アリを踏まないように歩くことも命を救う善い功徳の一つ。ゴキブリを殺さずに外に逃がしてあげることもそうです。

できることは日常の中でもたくさんあります。

そういった一つ一つの功徳を皆の業の浄化へと向けて追善して頂けましたら有り難いことでございます。

合掌

本覚思想・4

2022年03月16日 | 新日記
まあ、要は、本覚思想において、本覚的なものであると誤謬している世俗の顕現における存在というものは、凡夫においての無明とその習気、業により顕れてあるものであるため、それらが、仏、仏性、悟りなわけがあるはずが無いのであります。

また、たとえ第八地以上の菩薩であっても、後得知においての顕れは、習気(所知障)による虚偽なる顕れとなってしまっているのであります。

世俗における虚偽なる顕れがないあり方を認識できるのは、仏陀以外にはありえないのであります。

では、なぜ、如来蔵系の仏典においては、誤解を招くような表現が多出してしまっているのか。

それは、仏典を編纂した聖者方の認識レベルが、まだ後得知においての無明の習気、所知障による虚偽なる顕現の認識レベルであるにも拘らず、それを仏陀の認識にかなり近接したもの、同レベルなものとして解釈して、仏陀の教説を誤って捉えてしまったことによることが考えられるのであります。

つまり、戯論ということなのであります。

そう、実は、仏典も戯論なのです。

だから、中論において龍樹大師が、25章24偈にて、「仏はどこにおいても誰に対しても如何なる法も説かれなかった」と言うことなのであります。

認識対象に真実執着を起こす凡夫において誤解が生じるのは当たり前のことであるからこそ、釈尊は教えの文字化、言語(固定)化を諌められたのであり、それは聖者であってもしかりであったのであります。

その間違った表現を、更に間違って解釈し、その上、真実執着してしまうという、その結果、誤った思想を生み出してしまったのであります。

袴谷先生、松本先生もこのことには気付かれていないのではありますが、真なる本覚思想批判は、仏陀の認識論における私たちの誤謬ということから本来なされるべきなのであります。

この仏陀の認識論を解析することによる本覚思想への決定的な批判点は、拙生が発見したことではありますが、本覚思想批判への最終的なものを突きつけたのは、松本史朗先生からも教えを受けられた福田洋一先生、その教え子であるラモジョマ女史の博士論文であるのであります。あの論文はまさに仏教研究史上における最高峰。早々に本国に帰られたのが、残念でなりません、、

また、そういうことであるため、日本の鎌倉仏教における祖師方の本覚思想、仏性論における誤りも、当然に仕方がないとも言えるのであります。仏典を編纂した聖者であっても誤解するほどに難しいことであったのでありますから。だから、文字化するな、言語(固定)化するなと釈尊はご忠告なさられたのでもあります。

・・

では、仏陀の「如量知」とはどのようなものとなるのか。

実は、仏陀の知において、仏陀の側では「如実知」も「如量知」も実は違いがなく、一つの知、つまり、「仏智」となります。

阿羅漢以上、第八地以上の菩薩などの聖者には、「等引知」と「後得知」がありますが、仏智には、後得知はなく、世俗のあり方をご覧になられる場合でも、あくまで等引知の状態にてご認識をなさられるのであります。

その世俗のあり方を仏陀がご覧になられている知の状態を、一応は「如量知」と私たちの側から分けて言っているだけに過ぎないのであります。

元々、空性を直観知で認識なさられておられるだけのあり方が、本来の仏智というものとなります。

この空性を直観知で認識なさられている、その状態においては、私たち凡夫が認識しているような世俗で顕現しているものは、実は存在していないものであります。

なぜなら、世俗で顕現しているものは、凡夫の無明とその習気、業の状態によって顕現しているものであるからであります。

仏陀には、無明、その習気、業も無いため、私たちが認識している世俗の事物、事象の顕れといったものは、何も映えられておられず、ただ空性の真理しか映えられておられないのであります。

このただ空性の真理しか映えられておられない状態での仏智の状態におけることを、私たち凡夫が捉えている世俗の事物、事象の顕れに、真理、悟りが映えているものとして、私たちが勘違いをして、それを真理、悟りの顕現、仏の顕現、仏性の顕現と誤って理解して捉えてしまっているのが、本覚思想における解釈の過ちに繋がってしまっているものであると考えられます。

より詳しく述べるとすれば、世俗の事物、事象の顕れは、本来、無明とその習気、業のある凡夫にしか生じていないのであります。一方、仏陀はただ空性の真理しか認識なさられておられないのであります。

それを私たちが認識している世俗の事物、事象の顕れを、仏陀も同じように認識なさられていると勘違いしてしまっているために、それが本覚思想的な解釈の誤りになってしまっているのであります。

世俗の顕現(凡俗の顕現)は、私たち凡夫に真実執着、諦執を起こさせてしまうもの(凡俗の執着)で、それは迷い苦しみの顕現そのものでしかない、「虚偽の顕れ」なのであります。

その顕現を、仏だ、仏性だ、悟りだ、真理だとしてしまうと、仏智と同じように世俗の顕現を私たちも認識できていると思っていることと、それらの世俗の顕現を真実の顕れだと思ってしまうことの二重の意味での間違いになり、更にそれに真実執着することにより、余計に業を汚してしまうことになるのであります。

元々全ては悟っているのだから何もしなくても良いとか、逆に、元々全ては仏そのもの、悟りそのものなのだから何をしても良いとか、全てが悟り、真理、仏であるのだからそのまま、あるがままで良いとか、あるがままそのままを受け入れようとか、などなど。このように仏教を根本から破壊する解釈へと帰結してしまうのであります。

少し話を戻して、では、仏陀は世俗のものを認識なさられないのか、と申しますとそうではありません。世俗のありようが認識できなくては、慈悲による善巧方便が成り立たなくなってしまうからであります。

そこで、仏陀の「如量知」のあり方とは、どのようなものになるのかということでありますが、仏陀にとっては、既に、私たち凡夫における世俗に顕現しているようなものは何も存在しておらず、当然に、仏智には映えないものであります。

しかし、仏陀は、もちろん、元々は無明とその習気、業があった凡夫の頃、菩薩の修行時代があったはずで、おおよそ、どのように凡夫に世俗が映えているのかは当然に知っておられるわけで、だいたいのことは想像がお付きである次第となります。

そして、実際に凡夫お一人お一人の認識に、どのように世俗が顕現しているのかを、凡夫の状態に応じての、その凡夫の認識のあり方を通じて、世俗の顕現をお知りになられるのであります。

ですから、それぞれの凡夫において、何が迷い苦しみの原因となっているのかは、凡夫の捉えている認識のありようを詳しくご覧になることで、ご理解をなさられるのであります。

要は、凡夫の無明、その習気と業の状態をご覧になられることで、具体的な善巧方便をなさられるというわけであります。

この凡夫に顕現している世俗のありようをご覧になられるあり方を「如量知」として、一応便宜的に分けているに過ぎないということなのであります。

・・

仏陀の認識論において重要な概念となるのが、「如実知」と「如量知」となります。

「如実知」は、いわゆる無漏の三昧知、等引知であり、これは空性しか認識していない状態で、「虚空の如き空性」と世俗的に表現されます。

この無漏の三昧知・等引知は、煩悩障を断じた聖者以上の段階において可能な認識状態となります。

ただ、仏陀との違いは、三昧・等引から離れる「後得知」においては、「幻の如き空性」と表現されるように、空性であることは十分に了解していても、事物・事象は、まだ実体があるかのように顕れてきてしまっているのであります。

もちろん、実体があるかのように顕れが認識において起こってしまう(真実執着・諦執)ものの、それによりもはや汚れる業は既に無いため、業は清らかさを保ってある状態で、真実執着・諦執の障りとなっている「所知障」の断滅へと向かってゆくことになるのであります。

では、聖者の後得知に対応する世俗の顕れを認識する仏陀の「如量知」とはいかなるものであるのか、ということが次に問われるところとなります。

この仏陀の「如量知」のあり方に対しての錯覚とも言える誤解が「本覚思想」の間違った解釈に繋がってしまっているものであると考えられるのであります。

・・

本覚思想において、「山川草木悉皆成仏」、「山川草木悉有仏性」として、全てのものは、仏の顕れである、仏であると、一般的に解されることになりますが、もし全てが仏であるとするならば、皆、もう最初から既に救われていなければおかしなことになりますし(輪廻の衆生は全く存在しないことになる)、全てには、当然に自分自身も含まれることになるため、自分においても何も迷い苦しみはなく、全てのことを知り尽くしているはずであります(一切知)が、全くそうではありません・・

また、もしも、そのあたりにある石ころが、如来・仏陀であるとするならば、法身と色身の二身を成就しているはずであり、私たちを救って下さるはたらき(慈悲による具体的な善巧方便)があるはずですが、そんなはたらきを見せることも当然にありません。

では、なぜ華厳経や法華経、その他多くの如来蔵系の経典にて「本覚思想」的な立場が説かれているのか。

以前にも仏陀の認識論からこのことを説明させて頂いておりますが、また改めてまとめてみたいと思います。

本覚思想・3

2022年03月15日 | 新日記
では、仏陀の「如量知」とはどのようなものとなるのか。

実は、仏陀の知において、仏陀の側では「如実知」も「如量知」も実は違いがなく、一つの知、つまり、「仏智」となります。

阿羅漢以上、第八地以上の菩薩などの聖者には、「等引知」と「後得知」がありますが、仏智には、後得知はなく、世俗のあり方をご覧になられる場合でも、あくまで等引知の状態にてご認識をなさられるのであります。

その世俗のあり方を仏陀がご覧になられている知の状態を、一応は「如量知」と私たちの側から分けて言っているだけに過ぎないのであります。

元々、空性を直観知で認識なさられておられるだけのあり方が、本来の仏智というものとなります。

この空性を直観知で認識なさられている、その状態においては、私たち凡夫が認識しているような世俗で顕現しているものは、実は存在していないものであります。

なぜなら、世俗で顕現しているものは、凡夫の無明とその習気、業の状態によって顕現しているものであるからであります。

仏陀には、無明、その習気、業も無いため、私たちが認識している世俗の事物、事象の顕れといったものは、何も映えられておられず、ただ空性の真理しか映えられておられないのであります。

このただ空性の真理しか映えられておられない状態での仏智の状態におけることを、私たち凡夫が捉えている世俗の事物、事象の顕れに、真理、悟りが映えているものとして、私たちが勘違いをして、それを真理、悟りの顕現、仏の顕現、仏性の顕現と誤って理解して捉えてしまっているのが、本覚思想における解釈の過ちに繋がってしまっているものであると考えられます。

より詳しく述べるとすれば、世俗の事物、事象の顕れは、本来、無明とその習気、業のある凡夫にしか生じていないのであります。一方、仏陀はただ空性の真理しか認識なさられておられないのであります。

それを私たちが認識している世俗の事物、事象の顕れを、仏陀も同じように認識なさられていると勘違いしてしまっているために、それが本覚思想的な解釈の誤りになってしまっているのであります。

世俗の顕現(凡俗の顕現)は、私たち凡夫に真実執着、諦執を起こさせてしまうもの(凡俗の執着)で、それは迷い苦しみの顕現そのものでしかない、「虚偽の顕れ」なのであります。

その顕現を、仏だ、仏性だ、悟りだ、真理だとしてしまうと、仏智と同じように世俗の顕現を私たちも認識できていると思っていることと、それらの世俗の顕現を真実の顕れだと思ってしまうことの二重の意味での間違いになり、更にそれに真実執着することにより、余計に業を汚してしまうことになるのであります。

元々全ては悟っているのだから何もしなくても良いとか、逆に、元々全ては仏そのもの、悟りそのものなのだから何をしても良いとか、全てが悟り、真理、仏であるのだからそのまま、あるがままで良いとか、あるがままそのままを受け入れようとか、などなど。このように仏教を根本から破壊する解釈へと帰結してしまうのであります。

少し話を戻して、では、仏陀は世俗のものを認識なさられないのか、と申しますとそうではありません。世俗のありようが認識できなくては、慈悲による善巧方便が成り立たなくなってしまうからであります。

そこで、仏陀の「如量知」のあり方とは、どのようなものになるのかということでありますが、仏陀にとっては、既に、私たち凡夫における世俗に顕現しているようなものは何も存在しておらず、当然に、仏智には映えないものであります。

しかし、仏陀は、もちろん、元々は無明とその習気、業があった凡夫の頃、菩薩の修行時代があったはずで、おおよそ、どのように凡夫に世俗が映えているのかは当然に知っておられるわけで、だいたいのことは想像がお付きである次第となります。

そして、実際に凡夫お一人お一人の認識に、どのように世俗が顕現しているのかを、凡夫の状態に応じての、その凡夫の認識のあり方を通じて、世俗の顕現をお知りになられるのであります。

ですから、それぞれの凡夫において、何が迷い苦しみの原因となっているのかは、凡夫の捉えている認識のありようを詳しくご覧になることで、ご理解をなさられるのであります。

要は、凡夫の無明、その習気と業の状態をご覧になられることで、具体的な善巧方便をなさられるというわけであります。

この凡夫に顕現している世俗のありようをご覧になられるあり方を「如量知」として、一応便宜的に分けているに過ぎないということなのであります。

・・

仏陀の認識論において重要な概念となるのが、「如実知」と「如量知」となります。

「如実知」は、いわゆる無漏の三昧知、等引知であり、これは空性しか認識していない状態で、「虚空の如き空性」と世俗的に表現されます。

この無漏の三昧知・等引知は、煩悩障を断じた聖者以上の段階において可能な認識状態となります。

ただ、仏陀との違いは、三昧・等引から離れる「後得知」においては、「幻の如き空性」と表現されるように、空性であることは十分に了解していても、事物・事象は、まだ実体があるかのように顕れてきてしまっているのであります。

もちろん、実体があるかのように顕れが認識において起こってしまう(真実執着・諦執)ものの、それによりもはや汚れる業は既に無いため、業は清らかさを保ってある状態で、真実執着・諦執の障りとなっている「所知障」の断滅へと向かってゆくことになるのであります。

では、聖者の後得知に対応する世俗の顕れを認識する仏陀の「如量知」とはいかなるものであるのか、ということが次に問われるところとなります。

この仏陀の「如量知」のあり方に対しての錯覚とも言える誤解が「本覚思想」の間違った解釈に繋がってしまっているものであると考えられるのであります。

・・

本覚思想において、「山川草木悉皆成仏」、「山川草木悉有仏性」として、全てのものは、仏の顕れである、仏であると、一般的に解されることになりますが、もし全てが仏であるとするならば、皆、もう最初から既に救われていなければおかしなことになりますし(輪廻の衆生は全く存在しないことになる)、全てには、当然に自分自身も含まれることになるため、自分においても何も迷い苦しみはなく、全てのことを知り尽くしているはずであります(一切知)が、全くそうではありません・・

また、もしも、そのあたりにある石ころが、如来・仏陀であるとするならば、法身と色身の二身を成就しているはずであり、私たちを救って下さるはたらき(慈悲による具体的な善巧方便)があるはずですが、そんなはたらきを見せることも当然にありません。

では、なぜ華厳経や法華経、その他多くの如来蔵系の経典にて「本覚思想」的な立場が説かれているのか。

以前にも仏陀の認識論からこのことを説明させて頂いておりますが、また改めてまとめてみたいと思います。

本覚思想・2

2022年03月14日 | 新日記
仏陀の認識論において重要な概念となるのが、「如実知」と「如量知」となります。

「如実知」は、いわゆる無漏の三昧知、等引知であり、これは空性しか認識していない状態で、「虚空の如き空性」と世俗的に表現されます。

この無漏の三昧知・等引知は、煩悩障を断じた聖者以上の段階において可能な認識状態となります。

ただ、仏陀との違いは、三昧・等引から離れる「後得知」においては、「幻の如き空性」と表現されるように、空性であることは十分に了解していても、事物・事象は、まだ実体があるかのように顕れてきてしまっているのであります。

もちろん、実体があるかのように顕れが認識において起こってしまう(真実執着・諦執)ものの、それによりもはや汚れる業は既に無いため、業は清らかさを保ってある状態で、真実執着・諦執の障りとなっている「所知障」の断滅へと向かってゆくことになるのであります。

では、聖者の後得知に対応する世俗の顕れを認識する仏陀の「如量知」とはいかなるものであるのか、ということが次に問われるところとなります。

この仏陀の「如量知」のあり方に対しての錯覚とも言える誤解が「本覚思想」の間違った解釈に繋がってしまっているものであると考えられるのであります。

・・

本覚思想において、「山川草木悉皆成仏」、「山川草木悉有仏性」として、全てのものは、仏の顕れである、仏であると、一般的に解されることになりますが、もし全てが仏であるとするならば、皆、もう最初から既に救われていなければおかしなことになりますし(輪廻の衆生は全く存在しないことになる)、全てには、当然に自分自身も含まれることになるため、自分においても何も迷い苦しみはなく、全てのことを知り尽くしているはずであります(一切知)が、全くそうではありません・・

また、もしも、そのあたりにある石ころが、如来・仏陀であるとするならば、法身と色身の二身を成就しているはずであり、私たちを救って下さるはたらき(慈悲による具体的な善巧方便)があるはずですが、そんなはたらきを見せることも当然にありません。

では、なぜ華厳経や法華経、その他多くの如来蔵系の経典にて「本覚思想」的な立場が説かれているのか。

以前にも仏陀の認識論からこのことを説明させて頂いておりますが、また改めてまとめてみたいと思います。

本覚思想・1

2022年03月13日 | 新日記
本覚思想において、「山川草木悉皆成仏」、「山川草木悉有仏性」として、全てのものは、仏の顕れである、仏であると、一般的に解されることになりますが、もし全てが仏であるとするならば、皆、もう最初から既に救われていなければおかしなことになりますし(輪廻の衆生は全く存在しないことになる)、全てには、当然に自分自身も含まれることになるため、自分においても何も迷い苦しみはなく、全てのことを知り尽くしているはずであります(一切知)が、全くそうではありません・・

また、もしも、そのあたりにある石ころが、如来・仏陀であるとするならば、法身と色身の二身を成就しているはずであり、私たちを救って下さるはたらき(慈悲による具体的な善巧方便)があるはずですが、そんなはたらきを見せることも当然にありません。

では、なぜ華厳経や法華経、その他多くの如来蔵系の経典にて「本覚思想」的な立場が説かれているのか。

以前にも仏陀の認識論からこのことを説明させて頂いておりますが、また改めてまとめてみたいと思います。

「見仏と仏性論」・4

2022年03月10日 | 新日記
前回に見たように、日本の仏教は、「見仏論」に重点が置かれてあり、「修道論」が疎かになってしまったゆえに、戒・定・慧の実践、布施や持戒などの六波羅蜜の実践も軽視されてしまっている感が強くあります。

しかし、それでは通仏教的な因果律、特に七仏通誡偈の大原則が守られず、ただ、見仏へと向けた(実際にそれで可能であるのかどうかは別問題として)実践のみに偏ってしまっていることの弊害も見受けられるのであります。

もちろん、「見仏論」へと依らざるを得なかった事情はあるとしても、何よりその見仏のためには、当然に修道も欠かせないものであります。

特に、見仏へと向けては、その基本として、声聞や独覚の阿羅漢、または、第八地以上の菩薩とならなくては難しいものであります。(煩悩障の断滅・業の浄化・輪廻からの解脱)

もちろん、如来在世の浄土における化身化土への往生ということであれば、さほどの境地に至らなくても可能ではありますが、それさえも、多少は、修道による智慧と福徳の資糧は当然に必要となります。

やはり、釈尊在世時に、釈尊の応身より直接にご指導を頂けた者たちの多くも、それ相応に過去世における福智二資糧があったからでもあります。

何も因縁のないところに結果は生じません。見仏へと向けた結果のためにも、それなりの因縁は必要となるのであります。 

今一度、日本の仏教は、修道論をその基本から見直すべきであると改めて思う次第であります。その点で、ツォンカパ大師の菩提道次第論を学ぶ意義は計り知れなく大きいのであります。

・・

日蓮聖人の仏性論は、天台本覚思想的仏種論となりますが、道元禅師、親鸞聖人と同じように整理すれば、(法華経受持の)「題目」=「仏性・仏種」=「見仏」というものとなります。

曹洞宗「坐禅」=「仏性」=「見仏」
臨済宗「見性」=「仏性」=「見仏」
日蓮宗「題目」=「仏種」=「見仏」
浄土真宗「念仏」=「仏性」=「見仏」

ここで拙生が以前から着目しているポイントは、確かに各宗祖方は、それぞれ仏性論についても深く検討はしているものの、それが成道論、つまり、修道論につながっていくものではなく、主には見仏論へと向けたものとして教義的論点の相違になっているということであります。

それが故に、福智二資糧の集積へと向けた根拠や実践といったものではなく、「見仏」を優先させるものとして調えられていると考えることができるということであります。

つまり、実際の修道、成道へと向けては、「見仏」後の取り組みに委ねようという考え方であります。

では、なぜ修道論、成道論に重きを置こうとしなかったのか。

これはいわゆる当時の日本における時代背景である「末法思想」の影響であると考えています。

現世ではもう修行しても無理、無駄だという、ある意味での諦観であります。

このように考えますと、「見仏論」へと依らざるを得なかったのだとある程度納得ができるのであります。

・・

先の「見仏と仏性論」で、道元禅師が、「坐禅」=「仏性」=「見仏」、親鸞聖人が、「念仏」=「仏性」=「見仏」と理解できるとしたわけですが、更に「空性」=「仏性」ではないにしても、それぞれ何が問題になるのか、ということであります。

それは、道元禅師と親鸞聖人、また、「空性」=「仏性」論者ともに、「仏性」におけるはたらきとしての「利他」の面、つまり、仏陀の「色身」の成就へと向けた説明が不足してあるという問題点であります。

要は、ではいかに「色身」を成就して、また、何がその根拠になるのかということであります。

それは、例えば、坐禅だけで、念仏だけで、空性だけで成就できうるのかどうか、また、成就しうるにしてもその根拠となるものは何かということで、智慧と福徳の二資糧が、それぞれ仏陀の法身と色身の根拠であるという通仏教的な原則が、両者ともに曖昧で説明がつかないという点にあります。

仏性論を語るのであれば、法身と色身の根拠も示すのが成道論として、かなり大切なことになります。

そうなると、両教義ともにやはりバランスを欠いてしまっているのではないだろうかというのが拙見解でもあります。

・・

「見仏と仏性論」は非常に難しい論点であります。

しかし、「見仏と空性論」は、そう難しくはありません。

要は煩悩障を断滅した聖者以上における空性理解の境地が、見仏できるかどうかのその分岐点となり、はっきりとしているからであります。

であれば、「仏性」=「空性」とすると、「見仏と仏性論」も同様にわかりやすいものとなるのでありますが、そうは問屋が卸さないところに難しさが控えているのであります。

もし、「仏性」=「空性」であれば、道元禅師の仏性論の説明も「空」論で簡単に説明がつくものとなります。

また、逆に、「仏性」=「空性」であれば、親鸞聖人の仏性論、真実報土に往生しての見仏論は、完全に破綻してしまうことになります。(化身化土への往生論であれば破綻はしないのではありますが、それは別稿にて)

親鸞聖人の仏性論の場合は、「仏性」=「空性」ではもちろんなく、「信心」=「仏性」的な面が強く、その「信心」次第で、「見仏」の可否も問われる独特なものであります。

道元禅師が、(自己の身心および他己の身心をして脱落せしむる)「坐禅」=「仏性」とするならば、親鸞聖人の場合は、(他力の信心决定の)「念仏」=「仏性」と言えるのであります。

両宗共に、「仏性」の問題は、実のところ両教義の根本中枢に控えてあるのであります。

・・

元々、通禅的な「見性」について道元禅師は批判的な立場であり、天台本覚思想的な立場も批判的であります。

道元禅師の仏性論は、最終的には、「仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり」(現成公案)の意とするところとなります。

一見、己事究明と見せかけて、箇事究明と称されることもあるように、全てにおける仏性のありようをいかにして悟るべきであるかというために、坐禅により「自己の身心および他己の身心をして脱落」せしむることによって最終的に仏性を顕らかにすべきであると結論づけていると、拙生は解しているところでありますが、本義的には、「自己の身心および他己の身心をして脱落」せしむる「坐禅」そのものが「仏性」であるともなるのでしょう。

それなら「坐禅=見仏」として、それが本来は正しいということになります。

曹洞宗の葬儀の儀軌も、宗祖の原点に立ち返るとなれば、「坐禅=見仏」を前面に押し出してくるべきであるのでしょうが、そこまではやはり現実的に難しいし、通仏教的に無理があるということでしょう。

在家の方であり、道元禅師の思想についてもそこまで深く知らない方でありますから仕方もないのでもあります。

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曹洞宗の引導先は、立宗の早い段階から、元々は極楽浄土にあったことは瑩山清規からも明らかなことながら、道元禅師が浄土教に対して一貫して批判的な立場であったがゆえに、ある時期から祖師の教義原点に立ち返って、極楽往生、極楽引導的な立場は、やがて否定されるに至ったと、かなり前の検討と共に、極楽浄土ではないとして、ではどこへの引導となるのかを、一切如来からの灌頂を受けることのできる天部と、一応は拙生なりに結論付けたわけですが、そうではなく、内なる心の仏との見仏、いわゆる「見性」が引導先(というかその確認念押し)という主張の方との意見交換が、結構長くまだ続いています。

「見性」は、臨済宗で最も重要な教義的立場となります。

ですから、臨済宗の葬儀において、在家は極楽浄土が引導先だが、出家は「見性」と考える方は、かなり立場的に多くあるのも当然のことであります。

内なる心の仏との見仏とは、要は「本覚思想」にも繋がるところであります。

もちろん、拙生の見性についての考えは、内なる空性を見るということであり、それは明らかに仏ではないという立場であります。

空性=仏と考えたら見仏になるのでは、と強く主張されるのだが、空性=仏ではなく、空性≒仏であり、その微妙な差異の理解差が埋まらないところであります。

空性=法身とは言えても、イコール仏ではないのであります。

このあたりは、無上瑜伽タントラを学ぶとよく分かってくる部分になりますが、なかなか難しいところでもあります。