開甘露門・破地獄偈
若人欲了知
三世一切仏
応観法界性
一切唯心造
極楽浄土の化身化土上に往生できても、無明とその習気、業が娑婆時代から何ら変わらず同じままであれば、顕現のあり方も娑婆でのものと変わらないのだったら、例え極楽に赴けても娑婆に生まれるのと同じ輪廻の苦にあることと変わらないのではないかと。
そうです。ただ、違いがあるとすれば、如来在世かどうかということで、それはやはり大きな違い。
報身とは無理でも、化身との見仏の可能性があるため、現在如来不在の娑婆よりかはましだ、ということになります。
結局は、娑婆であろうが極楽であろうが、そこが自分にとって何となるかは、己における無明、その習気、業、つまり、心の状態次第になるのです。
煩悩障、所知障、業の問題に取り組まずに仏道の成就などありえないのであります。それは見仏論、修道論に拘わらずに仏教において至極当然、当たり前のことであるのであります。
唯心造と言うのもそういうことなのです。
若人欲了知
三世一切仏
応観法界性
一切唯心造
極楽浄土の化身化土上に往生できても、無明とその習気、業が娑婆時代から何ら変わらず同じままであれば、顕現のあり方も娑婆でのものと変わらないのだったら、例え極楽に赴けても娑婆に生まれるのと同じ輪廻の苦にあることと変わらないのではないかと。
そうです。ただ、違いがあるとすれば、如来在世かどうかということで、それはやはり大きな違い。
報身とは無理でも、化身との見仏の可能性があるため、現在如来不在の娑婆よりかはましだ、ということになります。
結局は、娑婆であろうが極楽であろうが、そこが自分にとって何となるかは、己における無明、その習気、業、つまり、心の状態次第になるのです。
煩悩障、所知障、業の問題に取り組まずに仏道の成就などありえないのであります。それは見仏論、修道論に拘わらずに仏教において至極当然、当たり前のことであるのであります。
唯心造と言うのもそういうことなのです。