この表のより詳しい説明をということで・・
これは、仏教認識論の基本となる「凡夫と阿羅漢と仏陀の認識のあり方」についての対比である。
「真実執着」は、本来、一切は「空性」なるにもかかわらず、「まるであたかも実体として成立してあるかの如くに顕れてきているモノ・コトを、実体としてあるかのように囚われてしまうありよう」を示す言葉である。
間違った捉え方であるため、「迷乱知」、「転倒知」とも言うわけです。
「虚偽の現れ」とは、「あたかも実体として成立してあるかの如くの現れのこと」になります。もちろん、本来は「空性」であるため、その現れは間違ったもの、偽のものとなるわけです。
その間違った現れ、偽の現れに囚われることになるから、迷乱知、転倒知となるわけでもあります。
真実執着の原因は、「煩悩障」となります。
間違った現れ、偽の現れを、正しい現れ、本当の現れと騙されて反応することになります。
特に三毒の「貪瞋癡」となります(根本煩悩、貪・瞋・癡・慢・疑・悪見)。
当然に煩悩により、心が汚れた反応となり、その反応による行いは、悪い業となって、迷い苦しみの生死輪廻に多大なる影響を与えることになります。
三毒、根本煩悩を対治することから、仏道修行において、まず取り組まないといけないことになります。その第一が「持戒」となるわけです。他に、「布施」、「忍辱」、「精進」、「禅定」、「智慧」とバランスよく進めていくことが必要にもなります。
仏道修行により、三毒、根本煩悩を完全に対治できれば、阿羅漢果、菩薩の第八地にまで至ることができます。
この煩悩障の対治においては、空性の理解も相当なレベルが必要となります。智慧の開発をしっかりと進めなければなりません。
そして、やがて、禅定における三昧知、等引知において、仏陀と同様の空性を現量(直観知)で了解しているレベルにまで至ることにより(虚空の如き空性)、煩悩障を完全に断滅させることができることになるのであります。
しかし、その三昧、等引より出ると、もはや煩悩は起こらなくなってはいますが、「虚偽の現れ」は、まだ現れ続けてしまうのであります。
でも、凡夫のように、間違った反応はもうしなくなっており、業も汚されることはなく、清らかに保てるため、迷い苦しみに輪廻することも無くなっており、解脱した存在と言えるわけであります。
この三昧、等引より出て認識するありようを「後得知」と言うわけです(幻の如き空性)。
但し、まだ「虚偽の現れ」が現れ続けている原因があり、それが「所知障」で、「無明の習気」として、過去世、何刧にもわたる輪廻にある中で、煩悩と業により汚され続けてしまった(熏習された、染み付いた)ガラスの「曇り」、「垢」のようなものと言えるでしょう。
要は、認識するための最後のガラス(メガネ)が、汚れて曇っているため、空性を最後の最後に見えなくして隠してしまっているラスボスと考えると良いでしょう。
この「所知障」を断滅する、つまり、最後の曇り、汚れを拭き取らないと、悟りへは至れないのであります。
この強烈な曇り、汚れをきれいにするには、智慧の力と共に、福徳(功徳)の力も欠かせないものとなるのであります。普通では三阿僧祇刧もかかる福徳の修行集積が必要となります。
また、智慧の力は、仏陀の法身を得るために、福徳の力は、仏陀の色身(衆生を救済するためのお身体)を得るためにも、それぞれ必要となるわけです。
智慧の力と共に円満な福徳の力によって、「所知障」を断滅することで、ようやくに「虚偽の現れ」も打ち破ることができるのであります。
その仏陀による認識のあり方、仏陀の知は、基本的には、空性現量了解の状態だけでありますが、その状態から、世俗のモノ・コトを、どのように仏陀が認識されることになるのかということで、「如量知」、「如実知」と、それぞれを便宜的に分けて述べるわけですが、「離戯論のみをご覧になる」とか、「ご覧にならない仕方でご覧になる」とか、まあ、よく分からないような表現を使わないと説明できないような感じでもあります。
より詳しくには、下記論文の精読をお勧め致します。
「ツォンカパ後期中観思想における二諦説の研究」拉毛卓瑪氏
https://otani.repo.nii.ac.jp/records/6784