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「見仏と仏性論」・3

2022年02月28日 | 新日記
日蓮聖人の仏性論は、天台本覚思想的仏種論となりますが、道元禅師、親鸞聖人と同じように整理すれば、(法華経受持の)「題目」=「仏性・仏種」=「見仏」というものとなります。

曹洞宗「坐禅」=「仏性」=「見仏」
臨済宗「見性」=「仏性」=「見仏」
日蓮宗「題目」=「仏種」=「見仏」
浄土真宗「念仏」=「仏性」=「見仏」

ここで拙生が以前から着目しているポイントは、確かに各宗祖方は、それぞれ仏性論についても深く検討はしているものの、それが成道論、つまり、修道論につながっていくものではなく、主には見仏論へと向けたものとして教義的論点の相違になっているということであります。

それが故に、福智二資糧の集積へと向けた根拠や実践といったものではなく、「見仏」を優先させるものとして調えられていると考えることができるということであります。

つまり、実際の修道、成道へと向けては、「見仏」後の取り組みに委ねようという考え方であります。

では、なぜ修道論、成道論に重きを置こうとしなかったのか。

これはいわゆる当時の日本における時代背景である「末法思想」の影響であると考えています。

現世ではもう修行しても無理、無駄だという、ある意味での諦観であります。

このように考えますと、「見仏論」へと依らざるを得なかったのだとある程度納得ができるのであります。

・・

先の「見仏と仏性論」で、道元禅師が、「坐禅」=「仏性」=「見仏」、親鸞聖人が、「念仏」=「仏性」=「見仏」と理解できるとしたわけですが、更に「空性」=「仏性」ではないにしても、それぞれ何が問題になるのか、ということであります。

それは、道元禅師と親鸞聖人、また、「空性」=「仏性」論者ともに、「仏性」におけるはたらきとしての「利他」の面、つまり、仏陀の「色身」の成就へと向けた説明が不足してあるという問題点であります。

要は、ではいかに「色身」を成就して、また、何がその根拠になるのかということであります。

それは、例えば、坐禅だけで、念仏だけで、空性だけで成就できうるのかどうか、また、成就しうるにしてもその根拠となるものは何かということで、智慧と福徳の二資糧が、それぞれ仏陀の法身と色身の根拠であるという通仏教的な原則が、両者ともに曖昧で説明がつかないという点にあります。

仏性論を語るのであれば、法身と色身の根拠も示すのが成道論として、かなり大切なことになります。

そうなると、両教義ともにやはりバランスを欠いてしまっているのではないだろうかというのが拙見解でもあります。

・・

「見仏と仏性論」は非常に難しい論点であります。

しかし、「見仏と空性論」は、そう難しくはありません。

要は煩悩障を断滅した聖者以上における空性理解の境地が、見仏できるかどうかのその分岐点となり、はっきりとしているからであります。

であれば、「仏性」=「空性」とすると、「見仏と仏性論」も同様にわかりやすいものとなるのでありますが、そうは問屋が卸さないところに難しさが控えているのであります。

もし、「仏性」=「空性」であれば、道元禅師の仏性論の説明も「空」論で簡単に説明がつくものとなります。

また、逆に、「仏性」=「空性」であれば、親鸞聖人の仏性論、真実報土に往生しての見仏論は、完全に破綻してしまうことになります。(化身化土への往生論であれば破綻はしないのではありますが、それは別稿にて)

親鸞聖人の仏性論の場合は、「仏性」=「空性」ではもちろんなく、「信心」=「仏性」的な面が強く、その「信心」次第で、「見仏」の可否も問われる独特なものであります。

道元禅師が、(自己の身心および他己の身心をして脱落せしむる)「坐禅」=「仏性」とするならば、親鸞聖人の場合は、(他力の信心决定の)「念仏」=「仏性」と言えるのであります。

両宗共に、「仏性」の問題は、実のところ両教義の根本中枢に控えてあるのであります。

・・

元々、通禅的な「見性」について道元禅師は批判的な立場であり、天台本覚思想的な立場も批判的であります。

道元禅師の仏性論は、最終的には、「仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり」(現成公案)の意とするところとなります。

一見、己事究明と見せかけて、箇事究明と称されることもあるように、全てにおける仏性のありようをいかにして悟るべきであるかというために、坐禅により「自己の身心および他己の身心をして脱落」せしむることによって最終的に仏性を顕らかにすべきであると結論づけていると、拙生は解しているところでありますが、本義的には、「自己の身心および他己の身心をして脱落」せしむる「坐禅」そのものが「仏性」であるともなるのでしょう。

それなら「坐禅=見仏」として、それが本来は正しいということになります。

曹洞宗の葬儀の儀軌も、宗祖の原点に立ち返るとなれば、「坐禅=見仏」を前面に押し出してくるべきであるのでしょうが、そこまではやはり現実的に難しいし、通仏教的に無理があるということでしょう。

在家の方であり、道元禅師の思想についてもそこまで深く知らない方でありますから仕方もないのでもあります。

・・

曹洞宗の引導先は、立宗の早い段階から、元々は極楽浄土にあったことは瑩山清規からも明らかなことながら、道元禅師が浄土教に対して一貫して批判的な立場であったがゆえに、ある時期から祖師の教義原点に立ち返って、極楽往生、極楽引導的な立場は、やがて否定されるに至ったと、かなり前の検討と共に、極楽浄土ではないとして、ではどこへの引導となるのかを、一切如来からの灌頂を受けることのできる天部と、一応は拙生なりに結論付けたわけですが、そうではなく、内なる心の仏との見仏、いわゆる「見性」が引導先(というかその確認念押し)という主張の方との意見交換が、結構長くまだ続いています。

「見性」は、臨済宗で最も重要な教義的立場となります。

ですから、臨済宗の葬儀において、在家は極楽浄土が引導先だが、出家は「見性」と考える方は、かなり立場的に多くあるのも当然のことであります。

内なる心の仏との見仏とは、要は「本覚思想」にも繋がるところであります。

もちろん、拙生の見性についての考えは、内なる空性を見るということであり、それは明らかに仏ではないという立場であります。

空性=仏と考えたら見仏になるのでは、と強く主張されるのだが、空性=仏ではなく、空性≒仏であり、その微妙な差異の理解差が埋まらないところであります。

空性=法身とは言えても、イコール仏ではないのであります。

このあたりは、無上瑜伽タントラを学ぶとよく分かってくる部分になりますが、なかなか難しいところでもあります。

「見仏と仏性論」・2

2022年02月27日 | 新日記
先の「見仏と仏性論」で、道元禅師が、「坐禅」=「仏性」=「見仏」、親鸞聖人が、「念仏」=「仏性」=「見仏」と理解できるとしたわけですが、更に「空性」=「仏性」ではないにしても、それぞれ何が問題になるのか、ということであります。

それは、道元禅師と親鸞聖人、また、「空性」=「仏性」論者ともに、「仏性」におけるはたらきとしての「利他」の面、つまり、仏陀の「色身」の成就へと向けた説明が不足してあるという問題点であります。

要は、ではいかに「色身」を成就して、また、何がその根拠になるのかということであります。

それは、例えば、坐禅だけで、念仏だけで、空性だけで成就できうるのかどうか、また、成就しうるにしてもその根拠となるものは何かということで、智慧と福徳の二資糧が、それぞれ仏陀の法身と色身の根拠であるという通仏教的な原則が、両者ともに曖昧で説明がつかないという点にあります。

仏性論を語るのであれば、法身と色身の根拠も示すのが成道論として、かなり大切なことになります。

そうなると、両教義ともにやはりバランスを欠いてしまっているのではないだろうかというのが拙見解でもあります。

・・

「見仏と仏性論」は非常に難しい論点であります。

しかし、「見仏と空性論」は、そう難しくはありません。

要は煩悩障を断滅した聖者以上における空性理解の境地が、見仏できるかどうかのその分岐点となり、はっきりとしているからであります。

であれば、「仏性」=「空性」とすると、「見仏と仏性論」も同様にわかりやすいものとなるのでありますが、そうは問屋が卸さないところに難しさが控えているのであります。

もし、「仏性」=「空性」であれば、道元禅師の仏性論の説明も「空」論で簡単に説明がつくものとなります。

また、逆に、「仏性」=「空性」であれば、親鸞聖人の仏性論、真実報土に往生しての見仏論は、完全に破綻してしまうことになります。(化身化土への往生論であれば破綻はしないのではありますが、それは別稿にて)

親鸞聖人の仏性論の場合は、「仏性」=「空性」ではもちろんなく、「信心」=「仏性」的な面が強く、その「信心」次第で、「見仏」の可否も問われる独特なものであります。

道元禅師が、(自己の身心および他己の身心をして脱落せしむる)「坐禅」=「仏性」とするならば、親鸞聖人の場合は、(他力の信心决定の)「念仏」=「仏性」と言えるのであります。

両宗共に、「仏性」の問題は、実のところ両教義の根本中枢に控えてあるのであります。

・・

元々、通禅的な「見性」について道元禅師は批判的な立場であり、天台本覚思想的な立場も批判的であります。

道元禅師の仏性論は、最終的には、「仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり」(現成公案)の意とするところとなります。

一見、己事究明と見せかけて、箇事究明と称されることもあるように、全てにおける仏性のありようをいかにして悟るべきであるかというために、坐禅により「自己の身心および他己の身心をして脱落」せしむることによって最終的に仏性を顕らかにすべきであると結論づけていると、拙生は解しているところでありますが、本義的には、「自己の身心および他己の身心をして脱落」せしむる「坐禅」そのものが「仏性」であるともなるのでしょう。

それなら「坐禅=見仏」として、それが本来は正しいということになります。

曹洞宗の葬儀の儀軌も、宗祖の原点に立ち返るとなれば、「坐禅=見仏」を前面に押し出してくるべきであるのでしょうが、そこまではやはり現実的に難しいし、通仏教的に無理があるということでしょう。

在家の方であり、道元禅師の思想についてもそこまで深く知らない方でありますから仕方もないのでもあります。

・・

曹洞宗の引導先は、立宗の早い段階から、元々は極楽浄土にあったことは瑩山清規からも明らかなことながら、道元禅師が浄土教に対して一貫して批判的な立場であったがゆえに、ある時期から祖師の教義原点に立ち返って、極楽往生、極楽引導的な立場は、やがて否定されるに至ったと、かなり前の検討と共に、極楽浄土ではないとして、ではどこへの引導となるのかを、一切如来からの灌頂を受けることのできる天部と、一応は拙生なりに結論付けたわけですが、そうではなく、内なる心の仏との見仏、いわゆる「見性」が引導先(というかその確認念押し)という主張の方との意見交換が、結構長くまだ続いています。

「見性」は、臨済宗で最も重要な教義的立場となります。

ですから、臨済宗の葬儀において、在家は極楽浄土が引導先だが、出家は「見性」と考える方は、かなり立場的に多くあるのも当然のことであります。

内なる心の仏との見仏とは、要は「本覚思想」にも繋がるところであります。

もちろん、拙生の見性についての考えは、内なる空性を見るということであり、それは明らかに仏ではないという立場であります。

空性=仏と考えたら見仏になるのでは、と強く主張されるのだが、空性=仏ではなく、空性≒仏であり、その微妙な差異の理解差が埋まらないところであります。

空性=法身とは言えても、イコール仏ではないのであります。

このあたりは、無上瑜伽タントラを学ぶとよく分かってくる部分になりますが、なかなか難しいところでもあります。

「見仏と仏性論」

2022年02月27日 | 新日記
「見仏と仏性論」は非常に難しい論点であります。

しかし、「見仏と空性論」は、そう難しくはありません。

要は煩悩障を断滅した聖者以上における空性理解の境地が、見仏できるかどうかのその分岐点となり、はっきりとしているからであります。

であれば、「仏性」=「空性」とすると、「見仏と仏性論」も同様にわかりやすいものとなるのでありますが、そうは問屋が卸さないところに難しさが控えているのであります。

もし、「仏性」=「空性」であれば、道元禅師の仏性論の説明も「空」論で簡単に説明がつくものとなります。

また、逆に、「仏性」=「空性」であれば、親鸞聖人の仏性論、真実報土に往生しての見仏論は、完全に破綻してしまうことになります。(化身化土への往生論であれば破綻はしないのではありますが、それは別稿にて)

親鸞聖人の仏性論の場合は、「仏性」=「空性」ではもちろんなく、「信心」=「仏性」的な面が強く、その「信心」次第で、「見仏」の可否も問われる独特なものであります。

道元禅師が、(自己の身心および他己の身心をして脱落せしむる)「坐禅」=「仏性」とするならば、親鸞聖人の場合は、(他力の信心决定の)「念仏」=「仏性」と言えるのであります。

両宗共に、「仏性」の問題は、実のところ両教義の根本中枢に控えてあるのであります。

・・

元々、通禅的な「見性」について道元禅師は批判的な立場であり、天台本覚思想的な立場も批判的であります。

道元禅師の仏性論は、最終的には、「仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり」(現成公案)の意とするところとなります。

一見、己事究明と見せかけて、箇事究明と称されることもあるように、全てにおける仏性のありようをいかにして悟るべきであるかというために、坐禅により「自己の身心および他己の身心をして脱落」せしむることによって最終的に仏性を顕らかにすべきであると結論づけていると、拙生は解しているところでありますが、本義的には、「自己の身心および他己の身心をして脱落」せしむる「坐禅」そのものが「仏性」であるともなるのでしょう。

それなら「坐禅=見仏」として、それが本来は正しいということになります。

曹洞宗の葬儀の儀軌も、宗祖の原点に立ち返るとなれば、「坐禅=見仏」を前面に押し出してくるべきであるのでしょうが、そこまではやはり現実的に難しいし、通仏教的に無理があるということでしょう。

在家の方であり、道元禅師の思想についてもそこまで深く知らない方でありますから仕方もないのでもあります。

・・

曹洞宗の引導先は、立宗の早い段階から、元々は極楽浄土にあったことは瑩山清規からも明らかなことながら、道元禅師が浄土教に対して一貫して批判的な立場であったがゆえに、ある時期から祖師の教義原点に立ち返って、極楽往生、極楽引導的な立場は、やがて否定されるに至ったと、かなり前の検討と共に、極楽浄土ではないとして、ではどこへの引導となるのかを、一切如来からの灌頂を受けることのできる天部と、一応は拙生なりに結論付けたわけですが、そうではなく、内なる心の仏との見仏、いわゆる「見性」が引導先(というかその確認念押し)という主張の方との意見交換が、結構長くまだ続いています。

「見性」は、臨済宗で最も重要な教義的立場となります。

ですから、臨済宗の葬儀において、在家は極楽浄土が引導先だが、出家は「見性」と考える方は、かなり立場的に多くあるのも当然のことであります。

内なる心の仏との見仏とは、要は「本覚思想」にも繋がるところであります。

もちろん、拙生の見性についての考えは、内なる空性を見るということであり、それは明らかに仏ではないという立場であります。

空性=仏と考えたら見仏になるのでは、と強く主張されるのだが、空性=仏ではなく、空性≒仏であり、その微妙な差異の理解差が埋まらないところであります。

空性=法身とは言えても、イコール仏ではないのであります。

このあたりは、無上瑜伽タントラを学ぶとよく分かってくる部分になりますが、なかなか難しいところでもあります。

「見性」について・2

2022年02月27日 | 新日記
元々、通禅的な「見性」について道元禅師は批判的な立場であり、天台本覚思想的な立場も批判的であります。

道元禅師の仏性論は、最終的には、「仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり」(現成公案)の意とするところとなります。

一見、己事究明と見せかけて、箇事究明と称されることもあるように、全てにおける仏性のありようをいかにして悟るべきであるかというために、坐禅により「自己の身心および他己の身心をして脱落」せしむることによって最終的に仏性を顕らかにすべきであると結論づけていると、拙生は解しているところでありますが、本義的には、「自己の身心および他己の身心をして脱落」せしむる「坐禅」そのものが「仏性」であるともなるのでしょう。

それなら「坐禅=見仏」として、それが本来は正しいということになります。

曹洞宗の葬儀の儀軌も、宗祖の原点に立ち返るとなれば、「坐禅=見仏」を前面に押し出してくるべきであるのでしょうが、そこまではやはり現実的に難しいし、通仏教的に無理があるということでしょう。

在家の方であり、道元禅師の思想についてもそこまで深く知らない方でありますから仕方もないのでもあります。

・・

曹洞宗の引導先は、立宗の早い段階から、元々は極楽浄土にあったことは瑩山清規からも明らかなことながら、道元禅師が浄土教に対して一貫して批判的な立場であったがゆえに、ある時期から祖師の教義原点に立ち返って、極楽往生、極楽引導的な立場は、やがて否定されるに至ったと、かなり前の検討と共に、極楽浄土ではないとして、ではどこへの引導となるのかを、一切如来からの灌頂を受けることのできる天部と、一応は拙生なりに結論付けたわけですが、そうではなく、内なる心の仏との見仏、いわゆる「見性」が引導先(というかその確認念押し)という主張の方との意見交換が、結構長くまだ続いています。

「見性」は、臨済宗で最も重要な教義的立場となります。

ですから、臨済宗の葬儀において、在家は極楽浄土が引導先だが、出家は「見性」と考える方は、かなり立場的に多くあるのも当然のことであります。

内なる心の仏との見仏とは、要は「本覚思想」にも繋がるところであります。

もちろん、拙生の見性についての考えは、内なる空性を見るということであり、それは明らかに仏ではないという立場であります。

空性=仏と考えたら見仏になるのでは、と強く主張されるのだが、空性=仏ではなく、空性≒仏であり、その微妙な差異の理解差が埋まらないところであります。

空性=法身とは言えても、イコール仏ではないのであります。

このあたりは、無上瑜伽タントラを学ぶとよく分かってくる部分になりますが、なかなか難しいところでもあります。

「見性」について

2022年02月27日 | 新日記
曹洞宗の引導先は、立宗の早い段階から、元々は極楽浄土にあったことは瑩山清規からも明らかなことながら、道元禅師が浄土教に対して一貫して批判的な立場であったがゆえに、ある時期から祖師の教義原点に立ち返って、極楽往生、極楽引導的な立場は、やがて否定されるに至ったと、かなり前の検討と共に、極楽浄土ではないとして、ではどこへの引導となるのかを、一切如来からの灌頂を受けることのできる天部と、一応は拙生なりに結論付けたわけですが、そうではなく、内なる心の仏との見仏、いわゆる「見性」が引導先(というかその確認念押し)という主張の方との意見交換が、結構長くまだ続いています。

「見性」は、臨済宗で最も重要な教義的立場となります。

ですから、臨済宗の葬儀において、在家は極楽浄土が引導先だが、出家は「見性」と考える方は、かなり立場的に多くあるのも当然のことであります。

内なる心の仏との見仏とは、要は「本覚思想」にも繋がるところであります。

もちろん、拙生の見性についての考えは、内なる空性を見るということであり、それは明らかに仏ではないという立場であります。

空性=仏と考えたら見仏になるのでは、と強く主張されるのだが、空性=仏ではなく、空性≒仏であり、その微妙な差異の理解差が埋まらないところであります。

空性=法身とは言えても、イコール仏ではないのであります。

このあたりは、無上瑜伽タントラを学ぶとよく分かってくる部分になりますが、なかなか難しいところでもあります。

「自らを灯明と化した菩薩たちの願い」10年前の拙考

2022年02月27日 | 新日記
丁度10年前のチベット焼身抗議の拙論。チベット仏教高僧中の高僧のご遺言について扱わせて頂いております。ご参照頂けましたら有り難くに存じます。合掌

「自らを灯明と化した菩薩たちの願い」
~チベット問題・焼身抗議を考える~

「焼身抗議をなされたトゥルク・ソバ・リンポチェ師のご遺言からチベット問題・焼身抗議を考える」

最初に・・

2008年3月10日にチベット・ラサで発生した大規模抗議行動からもう4年になる。これまでも半世紀にわたる中国政府による耐えかねる弾圧・圧政により、命を奪われ、また、自ら命を絶ったチベット人が数多くいる中で、自らに火を放ち、焼身してまで抗議の声を叫ぶに至ったチベット本土における最初の犠牲者とされるのが、2009年2月27日、チベット・アムド地方アバ・キルティ僧院の僧侶・タペー師の焼身抗議である。

以来、現在(2012年2月8日)までに、チベット本土で焼身抗議を行った者は、既に20名を超え、そのうち少なくとも14名が亡くなり、数名が行方不明のままである。また、これまでの抗議への弾圧により、凶弾に倒れた者、不当逮捕・投獄された者、行方不明となっている者は数え切れないほどになってしまっています。

チベット問題の起因は、第二次世界大戦後、中華人民共和国の建国に伴って、中国がチベット支配・統治を進めるために様々な弾圧を進めてきたことにあります。特に、1949年からの軍事侵攻や飢餓などにより命を落としたチベット人犠牲者の数は100万人を超えているとされ、大量虐殺と共に、著しい人権侵害があり、民族・文化・宗教破壊、思想強要が行われているとして、現在においても国際的に解決・改善が必要な問題として扱われるように提起がなされています。

特に凄惨さを極める圧政・弾圧の嵐の中で、1959年3月のラサ民衆蜂起においてダライ・ラマ14世法王猊下がインドへと亡命し、亡命政府を樹立するに至ったことは象徴的な出来事となり、チベット人たちの心の支えである拠り所、チベット仏教界の指導的立場である法王猊下を失った打撃は計り知れないものとなりました。その後も中国共産党による民主改革や文化大革命、改革開放政策の下で、チベット人たちへの蹂躙は絶え間なく続き、主に挙げるだけでも、チベットへの漢族大量移民による民族浄化問題、チベット人大量失業・貧困化問題、チベット語・文化・芸術・教育の破壊問題、信教・言論の自由への侵害問題、環境問題・核開発問題などと、多くの圧政・弾圧による弊害がいまだに生じてしまっている状況となっています。

このような中で、ダライ・ラマ14世法王猊下は、亡命以来、チベット問題改善を国際社会に広く訴えられてこられたものの、いまだ十分な成果を得られることはできずのままであり、また、本土でもチベット人たちによる激しい抗議行動が繰り返されてきましたが、ことごとく封殺されてしまい、一向に改善されること なく今日に至っています。

近年の本土でのチベット人による抵抗運動においては、法王猊下の意向を汲んで、非暴力的な抗議行動が行われていますが、それでも激しい弾圧は依然として続き、ついには自らに火を付けて訴えるという手段を行うまでになってしまうほど状況は追いつめられており、2009年2月の僧侶・タペー師による焼身抗議以来、特に2011年3月からのここ一年にわたっては焼身抗議が続発している異常な事態となってしまっています。

このような中で、平成24年1月8日には、チベット仏教界の高僧であるトゥルク・ソバ・リンポチェ師による焼身抗議が行われてしまいました。次に、師の残されたご遺言を挙げさせて頂きまして、内容に関しまして、是非、皆様にもお知り頂きまして、チベットの現状とチベット仏教の理解にほんの少しでもお役に立てましたら幸いでございます。

以下より、トゥルク・ソバ・リンポチェ師のご遺言全文日本語訳の内容について・・

『内外の全てのチベット人同胞600万人へ。チベット人の幸福と、内外に引き裂かれた600万のチベット人が再び相まみえるために、その身を犠牲にした勇者トゥプテン・ンゴドゥップ氏を初めとする内外の勇者・勇女全てに感謝の意を表明する。私はすでに40歳を越えたが、これまで彼らのような勇気を奮い立たせることもなく過ごして来た。もっぱらチベットの伝統的文化と宗教を周りの人々にできるだけ伝える事に努力し続けて来た。』・・本文より

まず冒頭においてトゥルク・ソバ・リンポチェ師は、全てのチベット人たちに呼び掛けられる形にて、チベット人の幸福と、チベット本土内・外に引き裂かれて別れて暮らしているチベット人全ての人々が、再びチベットの地にて相まみえることを願われて、1998年4月27日にインドの首都デリーにて焼身抗議により犠牲となられたトゥプテン・ンゴドゥップ師を初めとするこれまでの内外の全ての抗議者に対して感謝の意を表明されます。

そして、師は既に40歳を越えられたものの、これまでの抗議者のように勇気を奮い立たせて抗議することはなく、チベットの伝統的文化と宗教について、周りの人々に伝える事に努力してこられたことを述べられています。

『21世紀に入った現在、今年(チベット暦ではまだ2011年)は命を捧げた勇者・勇女が沢山いた年だった。そこで私は彼らの血肉を象徴するために、己の身と命を投げ打ち(これまでの全ての有情の悪業の)許しを請うのである。全ての有情は父、母でなかったものはいない。計り知れぬ有情が野蛮人のように法に反する力に屈し、不善なる大きな業を為しつつある。心から彼ら(中国)の悪業を浄化したい。また、ノミやシラミに至まで、呼吸する全ての、この天空に満ちる有情全てが、死の苦しみを逃れ阿弥陀如来の下に生まれ、全智至上の完全な仏の位を得るために、己の命を供養物として捧げる次第である。』・・ 本文より

21世紀に入って、特に2011年の3月からのここ一年にわたっては、身命を賭した焼身抗議が続発している中で、命を捧げた犠牲者たちの覚悟や思いを象徴するためにも、自らも身命をなげうって、これまでの一切有情(輪廻の苦にある衆生)たち全てにおける悪業のお許しを頂きたいと願われます。それはどうしてであるのかとして、全ての有情は、幾前世かにおいて、かつての自身の父、母であったのかもしれないというチベット仏教の慈悲心・菩提心を起こすための基本的な考え方を述べられ、まさに、本来であれば怒り・憎しむべきであろう、チベット人たちを陵辱して危害を加え、仏法に反する不善を成す敵とも言える存在である弾圧・圧政を行う中国当局の人々に対してさえも、大いに慈悲の心を起こして、彼らの悪業による輪廻の迷い苦しみを取り除いてあげたい、悪業の原因である煩悩・無明を浄化させてあげたいと述べられ、更には彼らだけのみならず、ノミやシラミや小さな生き物たちも含めて、あらゆる一切有情が生死輪廻の世界から離れ、阿弥陀如来様の極楽浄土のもとへと往生し、完全なる一切智者としての悟りの境地を得られるようにするために、己の命を御供養するのだとして、大いなる慈悲による菩提心の決意が述べられているのであります。もちろん一切有情に例外はありません。それは生きとし生ける者たち全てであり、私も皆さんも当然にその中に含まれているのであります。

このように、この度のトゥルク・ソバ・リンポチェ師の御供養は、一切有情たち全てへと向けられており、その中には、この浅学菲才の未熟者なる愚拙も含まれ、この本文を読んでおられる皆様ももちろんで、実に有り難く、誠に尊いことであります。このように、皆、トゥルク・ソバ・リンポチェ師の御供養においての関わりがあり、この御供養と関係のない有情などこの世にいないのであります。

ゆえにも、私たちは、この度におけるチベットの問題についても決して無関心であってはいけないと強く思っております。一人一人が何らかの形でトゥルク・ソバ・リンポチェ師の御供養にお応えしていくことが望まれると考えております。

それは、本御供養により、一番には、仏教への帰依に繋がり、出離心、慈悲心、菩提心の滋養へとなれば最善なることでありますでしょうが、そうではなくても、チベットの現状を憂いてできること、例えば、チベット情勢の改善を願い、祈りを捧げること、これまでの全ての犠牲者たちを追悼すること、チベット関連の支援団体へ何らかの協力・援助をすること、活動・イベントなどに参加すること、抗議活動に参加すること、ツイッターやブログ、フェイスブックでチベット問題を取り上げたりすることなどでも良いでしょう。

何らかの形にてほんの少しでもトゥルク・ソバ・リンポチェ師のお志にお応えすることが非常に大切であると強く感じております。

『そして、至上の人の姿をした仏神であるダライ・ラマ法王を始めとするラマやトゥルク全てが永遠の命を保たれるよう、私の身と命をマンダラと化し捧げる。

<大地に香水を撒き散華し、須弥山、四大陸、太陽と月により荘厳し、これを仏の浄土と見なし捧げ奉るが故に、全ての有情が清浄なる浄土を享受できますように。自他の身口意と三世の功徳の集積と、宝の如しマンダラを普賢菩薩供養と共に、心に生起しラマと三宝に捧げ奉る。慈悲の心でお受け取りになり我に加持を与えたまえ。オーム・イダムグル・ラトナマンダラカム・ニルヤタヤミ>』・・本文より

次に、観音菩薩様の化身であられるダライ・ラマ14世法王猊下を始めとして、ラマ、転生化身ラマ・トゥルクたちが、尚も転生を繰り返し、大いなる菩提心により、菩薩の化身として輪廻の迷い苦しみの中にある一切衆生の教化・救済にあたることができますようにとして、香水を捲いて、散華し、須弥山、四大陸、太陽と月を現じてマンダラを荘厳し、観想にて仏国土を現前に顕わさせしめて、その宝の如き心に生起させたるマンダラを慈悲の菩薩である普賢菩薩様の御供養と併せて、三宝(仏・法・僧)に捧げ奉り、一切衆生が清浄な悟りの境地、仏国土へといざなわれるようにと、諸仏諸菩薩がこの御供養を慈悲の御心でお受け取りになられて、加持(大いなる菩提心により輪廻の迷い苦しみの中にある一切衆生の教化・救済にあたることができる力)をお与え下さいとして、最後に真言を述べられておられます。

『この行為は自分1人のためになすのではなく、名誉のためになすのでもない、清浄なる思いにより、今生最大の勇気を持って、(ブッダのように、子トラたちを救うために飢えた)雌トラに身を捧げるようになすのだ。私のようにチベットの勇者・勇女たちもこのような思いで命を投げ出したに違いない。しかし彼らは 実行の際、怒りの感情と共に死んだ者もいるかもしれない。そうであれば彼らが解放の道を辿れるかどうかは怪しい。故に、様々な悟りへの道を思い出させてくれる船頭のような導師と、このような供養を捧げる善行の力に依って、将来、彼らを含めた全ての有情が全智至上の仏の位に到ることを祈願しながら行うのだ。 また、内外のラマ、トゥルク全ての長寿と就中ダライ・ラマ法王をポタラの玉座にお迎えして、チベットの政教を司ることができますようにと祈願する。』・・ 本文より

このような身命を三法に御供養する行為は、自分一人だけが悟りを得ようとするために行うものではなく、また、当然に避けるべき世間八法(利得、損失、称賛、非難、誉れ、誹謗、楽、苦)の一つである名誉のために行うものでもない、お釈迦様の前世物語の中にあるように、かつてのお釈迦様が、狩りができずに雌トラが飢えによりお乳が出ず、子どものトラが衰弱して死んでしまうことを憐れみて、身体を雌トラに捧げられたように、私もそのようなお釈迦様の前世にておこなわれた清浄なる慈悲の御心に添うように全力で身命を捧げるのだと述べられておられます。

そして、もちろん、これまで焼身抗議を行ってきたチベット人の勇敢なる善男子・善女子たちもこのような清浄なる慈悲の心にて身命を捧げたに違いないであろうと思われるものの、もしかするとその中には、怒りや憎しみなどの悪い感情(悪業)を抱えて亡くなってしまった者もあるのかも知れないとして、もしもそうであれば、その悪業による心相続の薫習、習気により、悟りへの道を歩むのは難しくなってしまい、悪趣(畜生・餓鬼・地獄)輪廻へと赴いてしまいかねないことを危惧なされておられ、その者たちにも、悟りへの道を再び歩めていけるようにと、ダライ・ラマ14世法王猊下やラマ、転生化身ラマのトゥルクなど導師たちに教化を願い、この度の善行の加持(大いなる菩提心により輪廻の迷い苦しみの中にある一切衆生の教化・救済にあたることができる力)によって、彼らも含めて、全て一切の輪廻の苦にある衆生たち有情が、悟りへと至らしめられるようにと、祈願のために御供養するのだと述べられておられます。

更には、内外のラマ、転生化身ラマ・トゥルクたち全ての長寿と、チベット人たちの願いであるダライ・ラマ14世法王猊下をポタラ宮殿の玉座にお迎えして、チベットの政教を司ることができますようにと祈願なされるのであります。

『<雪山に囲まれしこの聖域の、全ての福利の源である、観音菩薩であられるテンジン・ギャンツォよ、濁世が終わるまで存命されますように。その加持の力が 天空の如く行き渡らんことを。間違った思いにより祖国に対し、危害を及ぼす黒い形を持つもの、持たないもの、思いと行動が邪悪な侵入者が、三宝の真理の力により根こそぎにされますように>

[かくの如し善なる…の二偈と、祈願の王と呼ばれる…等の一偈と、これと三世…等の一偈。タドヤタ、パンチャタライヤ(三宝)に三度礼拝する]』・・本文より

高い山々に囲まれたこのチベットという聖域の全ての福利、幸せの源である観音菩薩様の化身であられるテンジン・ギャンツォ(ダライ・ラマ14世法王猊下のお名前)師、どうかこの煩悩・無明に覆われてしまっているこの世が、悟りの光に充ち満ちるまで、ご存命なされますように、その大いなる菩提心により菩薩の化身として輪廻の迷い苦しみの中にある一切衆生の教化・救済にあたることができる力により、悟りの光がこの世の隅々にまで行き渡らんことを願い、煩悩・無明によって、危害を及ぼす悪業を持つ者、持たない者たちも含めて、チベットに対して危害を及ぼす動機と行動が邪悪なる侵入者たちが、どうか三宝の力(煩悩・無明を排撃する力)により、その者たちの煩悩・無明が根こそぎに絶やされて涅槃へと到れますようにと述べられて、各偈を読まれて、三宝に礼拝なされておられます。

あらゆる一切衆生の到涅槃へのいざないのためになさった、トゥルク・ソバ・リンポチェ師の焼身御供養。もちろん、御供養を賜った者の一人として、この拙生も、この御供養を真摯に受けとめなければならないと僭越ながらにも存じております。

『ここで、金剛同士たち、各地におられる信者たちに願う。みんな一致団結し手を取り合い、チベット人たちが将来輝きに満ちた一つの国家を取り戻すために奮闘せよ。これが命を捧げた勇者・勇女たちの願いだ。故に、土地や水等のことで争ったりせず、思いを一つにすべきだ。若者たちはチベットの文化を尊重し学び、年輩の者たちは自らの身口意を善なるものとし、チベット人の慣習と気質、言語等が衰退しないようにチベット人としてのアイデンティティーを保持し続けねばならない。同時に、チベット人の幸福と、全ての有情が解放と全智の位を得るために清浄なる仏法を行ずることが重要である。タシデレ(吉祥なる幸運を)。』・・本文より

三宝に帰依し、別解脱戒、菩薩戒、密教戒を授かって仏道を歩む者たち、また各地におられる師の信者たちに対して、この聖なるチベットの地にチベット人たちの願っている輝ける希望の光に満ちた国家の自治が叶うように、一致団結して手を取り合って協力し、奮闘するようにと述べられておられます。

それが、これまでに身命を賭して焼身を行い抗議し訴えてきた犠牲者たちの願いであり、つまらない世間八法(利得、損失、称賛、非難、誉れ、誹謗、楽、苦)の中での小さなことで内々で争ったりはせずに、思いを一つにするべきであると述べられ、また、若者たちは、チベットの文化を尊重して学び、また年輩の者たちは、身・口・意の三つの善なる行いを成し、チベット古来の言葉・文化・芸術・慣習・思想などが衰退してしまわないように、チベット人としての誇りを忘れずに、アイデンティティーを保持するようにと願われておられます。

そして、チベット人の幸福のみならず、あらゆる一切の輪廻の苦にある衆生たち有情に、悟り、涅槃へのいざないがあるように清浄なる仏道の歩みを進めることが大切であると述べられて、祝福の言葉を掛けられておられます。

『そして、家族、同郷の人たち、友人たち、特に**[1人の名前を言うが聞き取れず]等みんなに伝えておく。私には隠してある財産など何もない。あるものはすべて以前より三宝に捧げ切っている。死後、大金が見つかったとか、ああだった、こうだったとか財産のことで噂する必要はない。兄弟姉妹、親戚、友人、各地の檀家たちもこのことを心得ておいてほしい。他、私が担保した財産や物品等は檀家たちが、地域の人たちやラマ、トゥルクたちによろしく分け与えてほしい。』・・本文より

そして、トゥルク・ソバ・リンポチェ師は、近しい人たちに対して、自身はトゥルクとして本来から私人として当然に無所有であり、僧侶として仏法による布施などにより得たるものは、全て既に仏法のために三宝に捧げきっていると述べられて、死後に僧院などにおいて、これはトゥルク・ソバ・リンポチェ師のお金ではないか、このお金はこうだ、ああだとくだらないことで噂することは全く必要ないので、兄弟姉妹、親戚、友人、各地の檀家たちもこのことをしっかりと理解しておくようにとして、自らの僧侶としての遺品については、形見分けとして、檀家たちにより、地域の者たち、ラマ、トゥルクたちに分け与えておいてほしいとなされておられます。

この遺品の数々は、次のソバ・リンポチェ師のトゥルク・転生者を探索する際に必要となる品々となるのでありますでしょう。

『それでは、自他の三世に渡り積んだ功徳の全てを母なる全ての有情、特に地獄等で苦しみを味わいつつあるものたちが解放を得られますようにと、以下の如く祈願する。

[祈願の王...など一偈。今生と三世の…など一偈を唱える]

最後に、内外の法友男女すべてに言いたい。悲しまないでほしい。ラマである善友に対し一心に祈るのだ。菩提を得るまで一瞬たりと離れることはない。老人たち、全ての人々よ、楽な時も苦しい時も、良い時も悪い時も、喜しい時も悲しい時も、如何なる時にも三宝以外に望みを託す対象はない。これを忘れないように。タシデレ。』・・本文より

次に、トゥルク・ソバ・リンポチェ師は、自らの過去・現在・未来の三世にわたる功徳、また他の者たちによる三世にわたる功徳の全てを、幾過去世においての母であった一切全ての有情たち、また、その中でも悪業により、悪趣(畜生・餓鬼・地獄)などで苦しみにある者たちにも及ぼせられて、悟り、涅槃への到りがありますようにとして、各偈を唱えられて祈願なされておられます。

そして、チベット内・外の法友たち全てに対して、どうか悲しまないでほしいと述べられ、法友たちのみならず、ラマ・僧侶たちに向けても、悟りへのいざないのあらんことを一心に供養して祈るものであるのだとおっしゃられ、自他共に全ての一切衆生、有情たちが悟りを得るまで、皆のもとを一瞬たりとも離れることはないとして、楽な時も苦しい時も、良い時も悪い時も、喜しい時も悲しい時も、いかなる時にも、世間八法(利得、損失、称賛、非難、誉れ、誹謗、楽、苦)におけることにて惑わされることなく、仏・法・僧の三宝以外に望みを託す対象はないのだとして、決してこのことを忘れないようにと述べられて、最後に祝福の言葉を掛けられて、いよいよ焼身御供養を成されるに至られたのであります。

・・・・・・

ああ、自らを灯明と化されたトゥルク・ソバ・リンポチェ師の大慈大悲の御心の御供養にふれられた今、この時、どうして仏・法・僧の三宝への帰依の念が生じないでいられようか。

ああ、自らを灯明と化されたトゥルク・ソバ・リンポチェ師の大いなる菩提心により、輪廻の迷い苦しみの中にある一切衆生を救わんと御供養なされた師の加持力にふれられた今、この時、どうして菩提心が生じないことなどあろうか。

ああ、自らを灯明と化されたトゥルク・ソバ・リンポチェ師の御供養の加持力によって、一切の衆生たちの到涅槃へのお導きがあらんことを心から冀い奉らないことなど果たしてあるのだろうか。

どうか、自らを灯明と化されたトゥルク・ソバ・リンポチェ師の御祈願が円満成就なされて、無明を撃ち破る悟りの光が一切衆生へと及ぼされんことを強く懇願申し上げ奉ります。

深遠なる大いなる慈悲の御心にて、一切有情に御供養なされたトゥルク・ソバ・リンポチェ師に最敬礼申し上げます。どうか再び人間界に御転生なされまして、輪廻の迷い苦しみにある一切衆生を到涅槃へとお導き賜れますように心からお願いを申し上げ奉ります。

(平成24年2月17日)


・・

最近に日本とチベットの入定仏について比較検討をhasunohaの問答とは別に簡単に回答させて頂く機会があった。

ロシアのウクライナ侵攻に関することで、チベットにおける焼身自殺について先に言及させて頂いたが、実は、日本でも過去には同様な自殺が行われていたのでもあります。それが日本の入定仏であります。いわゆる人身御供としてのミイラというものとなります。

ですから、チベット人だから、チベット仏教だからという特別なわけでも実はないのであります。仏教であれば当然の考え方の一つということなのであります。

・・

チベットの入定仏と日本の入定仏との比較検討について

チベットの入定仏とは、主にはトゥクタムの状態であることを示すものとなります。

トゥクタムとは、チベット密教における無上瑜伽タントラを修めている行者が、死後の中有(次の生までの中間の存在・中陰)の状態において、死の光明状態を保ち、瞑想修行している段階というものとなります。

簡単に申せば、仏教における最高の智慧である「空性」の真理を悟るために、中有の状態を利用して修行しているものとなります。

この間、医学的には明らかに心臓も肺も活動しておらず死亡していますが、身体は温かく、腐らない状態となります。あるチベットの高僧では最長で3週間に及んだ例もあります。

この中有における修行にて境地が進めば、悟りへと至れることもありますし、天や浄土へと赴けるようになって、見仏へと前進できることもあります。また、娑婆の衆生世界に戻って修行(菩薩行)に励むことのできるように、衆生を救うことができるように、自分の来世の行き先をコントロールできることもあります。(化身ラマ・リンポチェのように)

・・中略・・

更には、この中有にて幻身の身体を得ることもあり、その際、古い肉体は消え去ることもあります。あるいは、痕跡を弟子に示すために髪の毛や爪だけをわざと残してその境地の完成を示すこともあります。

そして、トゥクタムが終わったあとは、たいていの場合は荼毘に付しますが、遺言等にて即身仏として祀るようにされることもあります。この場合の即身仏は、前に述べたように抜け殻的なものとなりますが、高い境地へ至ったという痕跡として見習うようにという意で、残されてある即身仏を供養するというものとなります。

日本の入定仏も高い境地へと至ったという痕跡として見習うようにという意で残される趣旨もあるにはあるでしょうが、どちらかと言えば、弥勒下生信仰において、弥勒仏が数十億年後に下生された際に、自分もまたこの世界にこの肉体へと生まれるということで、残しておきたいという意図もあります。

日本の場合は、無上瑜伽タントラは伝わっておらず、トゥクタム、その修行方法も知らない状態ではありましたが、弘法大師空海は、即身成仏義も著されてあるように、トゥクタム的なことはその天才的な密教の見識から理解していた可能性はあります。しかし、どちらかと申せば、弥勒下生までここに肉体を置いておいて、再び娑婆に戻ることを企図しての入定と言えるのではないだろうかとは存じます。

あとは、苦行の一つとして入定して身体をミイラ化するということもあります。一番の私たちの執着物である身体への執着をなくすために、身体を捨てる行の一環としてミイラ化するということです。

そして、日本において最も多いのは、人身御供としてのミイラということであります。

捨身飼虎、施身聞偈が玉虫厨子に描かれてあるように、人々を救うために身体を布施するという行為であります。

飢饉や疫病、戦災から人々を救うという目的のために高僧が身体を神仏に布施するためにミイラ化するということであります。

・・以下略

・・

自らを灯明と化した菩薩たちの願いとは何か

チベット人、僧侶たちが多く焼身自殺したが、それは弾圧蹂躙する中国の者に対しての慈悲からのものでもあった。

もちろん中には純粋に抗議というためにということもあったであろうが、チベット、中国に拘らず、全ての衆生、皆の悟りへと向けて身体を布施する供養、功徳という意味合いがほとんどで、そんな悪いことはしたらあかんよ、と中国の者たちを諭すための慈悲の想いからのものでもあった。

それは、悪いことをしてる者たちの悪業を、我が身をもって功徳、供養により浄化させるということである。

例えば、今ならプーチンさんへも慈悲をかけて、身体を布施するということであります。

もちろん、身体を布施するまでの功徳、供養は、誰もができることではありませんが、身近な功徳、追善はできることがたくさんあります。

問い「戦争が怖い。侵略が怖い。強い者が怖い。」
https://hasunoha.jp/questions/58961

問い「人類を見限るべきでしょうか」
https://hasunoha.jp/questions/58938


人身御供としての入定仏

2022年02月26日 | 新日記
最近に日本とチベットの入定仏について比較検討をhasunohaの問答とは別に簡単に回答させて頂く機会があった。

ロシアのウクライナ侵攻に関することで、チベットにおける焼身自殺について先に言及させて頂いたが、実は、日本でも過去には同様な自殺が行われていたのでもあります。それが日本の入定仏であります。いわゆる人身御供としてのミイラというものとなります。

ですから、チベット人だから、チベット仏教だからという特別なわけでも実はないのであります。仏教であれば当然の考え方の一つということなのであります。

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チベットの入定仏と日本の入定仏との比較検討について

チベットの入定仏とは、主にはトゥクタムの状態であることを示すものとなります。

トゥクタムとは、チベット密教における無上瑜伽タントラを修めている行者が、死後の中有(次の生までの中間の存在・中陰)の状態において、死の光明状態を保ち、瞑想修行している段階というものとなります。

簡単に申せば、仏教における最高の智慧である「空性」の真理を悟るために、中有の状態を利用して修行しているものとなります。

この間、医学的には明らかに心臓も肺も活動しておらず死亡していますが、身体は温かく、腐らない状態となります。あるチベットの高僧では最長で3週間に及んだ例もあります。

この中有における修行にて境地が進めば、悟りへと至れることもありますし、天や浄土へと赴けるようになって、見仏へと前進できることもあります。また、娑婆の衆生世界に戻って修行(菩薩行)に励むことのできるように、衆生を救うことができるように、自分の来世の行き先をコントロールできることもあります。(化身ラマ・リンポチェのように)

・・中略・・

更には、この中有にて幻身の身体を得ることもあり、その際、古い肉体は消え去ることもあります。あるいは、痕跡を弟子に示すために髪の毛や爪だけをわざと残してその境地の完成を示すこともあります。

そして、トゥクタムが終わったあとは、たいていの場合は荼毘に付しますが、遺言等にて即身仏として祀るようにされることもあります。この場合の即身仏は、前に述べたように抜け殻的なものとなりますが、高い境地へ至ったという痕跡として見習うようにという意で、残されてある即身仏を供養するというものとなります。

日本の入定仏も高い境地へと至ったという痕跡として見習うようにという意で残される趣旨もあるにはあるでしょうが、どちらかと言えば、弥勒下生信仰において、弥勒仏が数十億年後に下生された際に、自分もまたこの世界にこの肉体へと生まれるということで、残しておきたいという意図もあります。

日本の場合は、無上瑜伽タントラは伝わっておらず、トゥクタム、その修行方法も知らない状態ではありましたが、弘法大師空海は、即身成仏義も著されてあるように、トゥクタム的なことはその天才的な密教の見識から理解していた可能性はあります。しかし、どちらかと申せば、弥勒下生までここに肉体を置いておいて、再び娑婆に戻ることを企図しての入定と言えるのではないだろうかとは存じます。

あとは、苦行の一つとして入定して身体をミイラ化するということもあります。一番の私たちの執着物である身体への執着をなくすために、身体を捨てる行の一環としてミイラ化するということです。

そして、日本において最も多いのは、人身御供としてのミイラということであります。

捨身飼虎、施身聞偈が玉虫厨子に描かれてあるように、人々を救うために身体を布施するという行為であります。

飢饉や疫病、戦災から人々を救うという目的のために高僧が身体を神仏に布施するためにミイラ化するということであります。

・・以下略

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自らを灯明と化した菩薩たちの願いとは何か

チベット人、僧侶たちが多く焼身自殺したが、それは弾圧蹂躙する中国の者に対しての慈悲からのものでもあった。

もちろん中には純粋に抗議というためにということもあったであろうが、チベット、中国に拘らず、全ての衆生、皆の悟りへと向けて身体を布施する供養、功徳という意味合いがほとんどで、そんな悪いことはしたらあかんよ、と中国の者たちを諭すための慈悲の想いからのものでもあった。

それは、悪いことをしてる者たちの悪業を、我が身をもって功徳、供養により浄化させるということである。

例えば、今ならプーチンさんへも慈悲をかけて、身体を布施するということであります。

もちろん、身体を布施するまでの功徳、供養は、誰もができることではありませんが、身近な功徳、追善はできることがたくさんあります。

問い「戦争が怖い。侵略が怖い。強い者が怖い。」
https://hasunoha.jp/questions/58961

問い「人類を見限るべきでしょうか」
https://hasunoha.jp/questions/58938


自らを灯明と化した菩薩たちの願いとは何か

2022年02月26日 | 新日記
チベット人、僧侶たちが多く焼身自殺したが、それは弾圧蹂躙する中国の者に対しての慈悲からのものでもあった。

もちろん中には純粋に抗議というためにということもあったであろうが、チベット、中国に拘らず、全ての衆生、皆の悟りへと向けて身体を布施する供養、功徳という意味合いがほとんどで、そんな悪いことはしたらあかんよ、と中国の者たちを諭すための慈悲の想いからのものでもあった。

それは、悪いことをしてる者たちの悪業を、我が身をもって功徳、供養により浄化させるということである。

例えば、今ならプーチンさんへも慈悲をかけて、身体を布施するということであります。

もちろん、身体を布施するまでの功徳、供養は、誰もができることではありませんが、身近な功徳、追善はできることがたくさんあります。

問い「戦争が怖い。侵略が怖い。強い者が怖い。」
https://hasunoha.jp/questions/58961

問い「人類を見限るべきでしょうか」
https://hasunoha.jp/questions/58938


『 正しいお通夜とお葬式へ向けて 』令和4年3月 春彼岸施餓鬼法要 配布資料

2022年02月24日 | 新日記
 令和4年3月 春彼岸施餓鬼法要 配布資料

『 正しいお通夜とお葬式へ向けて 』

このところ小さなお葬式、小さな家族葬、格安葬、一日葬、直葬と、葬儀のあり方の変化が目まぐるしい中でございます。

本来の葬儀とは、どのようなものであるべきか。以前にもまとめて配布した資料がございますが、今一度、考える時期にあるのではないかと思い、改めてまとめてみることにしました。

葬儀の一番の目的は、亡者を浄土へと送ることにあります。(但し、浄土真宗の現在の教義においての葬儀の目的は、阿弥陀仏への仏恩報謝となっています)

では、なぜ、浄土へと送らなければならないのか、ということでありますが、まず、仏教においては、正しい悟りへの道、仏道を歩んでいくにあたっては、直接に、既に悟りを開いた仏・如来からのご指導を頂く必要がございます。

現在、この娑婆世界では、釈尊の最勝応身(凡夫でも相見えられることのできる仏のお姿の一つ)が入滅されて以来、仏・如来は不在となってしまっています。

仏の教えは、元来、対機説法、善巧方便として、一人ひとりに合ったカタチで説かれるのが基本となります。それが可能なのは、一切智者である仏・如来でなければできないことであります。(仏典・経典は、釈尊入滅後に弟子たちによってまとめられてあるもので、あくまでも八万四千ある釈尊の教えの代表的な要約に過ぎないものとなっています)

現在の娑婆世界においては、仏典や経典、その解説の論書、またそれらを説明する僧侶により、ある程度、仏教を学び修していくことはできても、やはり、どうしても限界があるものとなります。

そのため、足りない点や正確性を補うために、実際に仏・如来が在世されていて教えを直接に頂けるところへと赴くことが望まれるのであります。

それが、「見仏(仏と直接に相見えること)と授記(個々人へと説かれる悟りへと至るための教え)」となります。

釈尊はご自身の最勝応身の入滅にて、その見仏と授記が、娑婆世界ではしばらくの間できなくなること(弥勒仏下生まで)を憂慮なさられて、他の浄土世界を色々とご紹介されて、そちらへと赴くことを促されたのであります。代表的には、阿弥陀経にて説かれてある阿弥陀仏・極楽世界です。(但し、娑婆世界であっても見仏と授記を頂く方法としては、密教における灌頂があります)

以上のことから、死後において、次の生まれ先を、この娑婆世界ではなく、直接に仏・如来から教えを頂ける浄土世界へと送るために執り行われるのが、葬儀ということになるのであります。

まず、その条件を調えるために行われるのが、通夜式での「授戒」となります。

過去世・生前からの悪業を悔い改め、しっかりと仏の道を歩んでいくためのルールを守る誓いを立てさせて、正式な仏の弟子とならしめるのが通夜式の役割となります。

そして、葬儀式においては、引導として、浄土へと送り出していくことになるのであります。

葬儀式で最も大切となるのが、引導文・引導法語となります。

これは浄土へと向けた一種のパスポート(渡航証)的な役割を果たすもので、悟りへと向けた大切な心構え、決意的なことが示さるところとなります。血脈(仏教の正しい教えを受け継いできた証)と共に、浄土への入国許可証と言えます。

このように考えますと、通夜式は、娑婆世界からの出国手続き、葬儀式は、浄土世界への入国手続きと言えるのではないだろうかと存じます。

この両方の手続きを正式に調えるために行われるのが、通夜式・葬儀式となるわけであり、浄土世界への出国へと向けた航海の無事、安全を祈り、送り出すことと共に、その手続きに不備がないか、間違いがないかを、しっかりと見届けるのも、ご遺族、会葬者の役割になります。

その手続きのためには、やはり省略ができないお経、回向があります。ですから、通夜式1時間(儀式40分・法話20分)、葬儀式1時間(儀式40分間・法話10分・告別10分)は、最低でも必要となります。また、法話では、通夜と葬儀の簡単な役割について、戒名の由来、引導の内容等の説明をしっかりと頂くことも大切なことになります。法話がないというのは論外であり、僧侶はしっかりと法話によって、導師として、葬儀についての説明責任を果たすことが求められるものでもあります。

以上のことから、仏式でお葬式をするということであれば、いくら小さく、短く、安くと言っても、限界があり、一日葬であれば、最低でも1時間半、直葬であれば、1時間(かなり巻き気味になる)は儀式の時間を取って行うことが望ましいものとなります。

祭壇や備品、お供え物等においては、多少なりとも負担を抑えるのは当然に構いませんが、時間と導師だけは、小さく、短く、安く、また、誰でもいい、適当で、というわけにはいかないことは、十分に認識しておくべきであると存じます。

やはり、僧侶、導師によっては、修行不足、作法の修練不足などにより、適当、いい加減、儀軌を間違ってしまっている者も中にはおります。上記で述べたように、手続きに不備がないか、間違いがないかを、しっかりと見届けるのが、ご遺族、会葬者の役割でもあります。確かな導師、僧侶に儀式の執行をお願いできるように、その資質を見極める、内容に間違いがないかをチェックするのも大切なことになります。

以前の配布資料の参照・・

『葬儀と供養の意義について』平成29年8月・お盆施餓鬼法要配布資料
ネット検索で全文ご覧いただけます→「葬儀と供養の意義について お盆」検索

各宗派における葬儀の要諦について(抜粋・加筆修正)

天台宗・・阿弥陀如来の極楽浄土へと向けた引導式。儀礼・・法華懺法(ほっけせんぽう)(法華経を読誦し、無明・煩悩・悪業を滅するための法)と例時作法(阿弥陀経を読誦し、極楽浄土への往生のための法)と光明供(光明真言を読誦し、浄土への引導・成仏へ向けた法)。密教印契、密教法具も用いられる。

真言宗・・弥勒菩薩の兜率天(とそつてん)、あるいは大日如来の密厳浄土への引導式。儀礼・・灌頂形式。理趣経・真言・陀羅尼等が読誦され、密教印契、密教法具が用いられる。三密加持(御仏の身・口・意の三業の清浄)、本尊との一体化、浄土への引導へ向けた灌頂儀式。

浄土宗・・阿弥陀如来の極楽浄土へと向けた往生式。儀礼・・序分(諸仏をお迎えする儀式)・正宗分(引導式)・流通分(諸仏・故人を見送る儀式)の三部構成。主には阿弥陀経・無量寿経・念仏が読誦される。

浄土真宗・・阿弥陀如来への仏徳讃嘆・仏恩報謝(ぶっとんほうしゃ)の儀式。授戒・引導を扱わない。故人は臨終後即座に極楽浄土へと往生したもの(即得往生)とみなされるため、故人へと向けた供養・回向は扱わず、あくまでも阿弥陀如来を対象とした儀礼となる。正信偈・念仏・和讃が読誦される。授戒式は無く、仏弟子としての帰依者に与えられる名前は、戒名ではなく「法名」と称されている。

曹洞宗・臨済宗・・もともと禅宗における修行途中に亡くなった僧侶への葬儀法が、在家葬送のためにも援用され、「没後作僧」(もつごさそう)として各宗派の葬儀法へも影響を与えていくことになった。没後作僧とは、死後に授戒し、正式な仏弟子(僧侶)とならせて、仏の助けを得て、浄土引導、成仏させるという考え方。臨済宗は、阿弥陀如来の極楽浄土へと向けた引導式。曹洞宗は、具体的な引導先は明らかとなっていないが、一切如来から教えを頂ける浄土への引導になると推測される。大悲心陀羅尼・観音経・舎利礼文などが読誦される(曹洞宗の場合・修証義や法華経の寿量品なども)。

日蓮宗・・久遠実成釈迦如来の霊山(りょうぜん)浄土への往詣(おうけい)のための儀式。法華経・題目などが読誦される。日蓮宗では、法華経に帰依信心すること(法華経の受持)、そのことが持戒そのもの(妙戒)であると考えられているため、授戒式は無く、仏弟子としての帰依者に与えられる名前は、戒名とは言わずに「法号」と称されている。

日蓮宗の葬儀にて往詣先となる霊山浄土は釈尊の報身報土なのか、化身化土なのか

2022年02月18日 | 新日記
日蓮宗の葬儀にて往詣先となる霊山浄土は釈尊の報身報土なのか、化身化土なのか。

日蓮宗における葬儀の要訣は、葬儀儀軌の最後の回向に示すところで、「願わくは霊也、今一乗の妙訣を聴受し、此の宝乗に乗じて直ちに寂光の宝刹に至り、親(まのあた)り仏祖の顔貌(げんみょう)を拝して妙法を聴受し、四徳波羅蜜現在前して、三身円満の大果を成ぜんことを。」であります。

寂光の宝刹=寂光浄土=霊山浄土へと至り、釈尊のお顔を拝して、法華経の教えを頂くことを往詣としていることが伺えます。

要は見仏して教えを頂くということであります。

それから悟りへと向けて仏道を成就することを目指すことになります。

では、その見仏へ向けた条件となっているものは何かとなれば、それは何よりも「法華経の受持」となります。

その受持したる法華経は、仏の三身でもあり、「煩悩業苦の三道、法身般若解脱の三徳と転じて、三観三諦即一身に現れ、その人所住の所寂光土なり。能居所居、身土色心、倶体倶用無作の三身、本門寿量の当体蓮華の仏」と受持したる者を表すのでもあります。

要は、法華経そのもの自体との見仏という独特のあり方を示すところでもありますが、実際の霊山浄土への往詣では日蓮上人が案内係として見仏に取り次いで頂けることにもなっています。

では、その見仏の釈尊は、報身であるのか、化身であるのかとなれば、法華経自体を仏の三身とするならば、その教えを説かれている釈尊は法華経そのものとして、三身と見仏しているということにはなります。

しかし、それでは通仏教的な観点とは色々と異なることにもなってしまいます。

ただ、臨済宗や曹洞宗と同様に、授戒の段階にて一気に境地を上げて報身仏との見仏を成さしめるとも言えなくはありません。

要は、仏の三身と等しい法華経を受持させることで報身仏との見仏を可とするわけであります。

しかし、凡夫がいきなり法華経を、例えば葬儀における儀軌だけで真に受持することができるかどうかはやはり難しいものでもあります。

ですから、現実的には、報身ではなく、久遠実成釈迦如来の化身との見仏となり、更に日蓮上人がその仲介をして頂けると考える方が妥当ではないだろうかと存じます。

また、天台宗と同様に「諸法従本来 常自寂滅相 仏子行道已 来世得作仏」として、娑婆も寂光土も何処も諸法は常に悟りの相を示してあるものですよ、として、日蓮宗では、往詣後の見仏と授記(法華経の教え)により頂いた仏道をそれぞれの赴き先にて更に歩み進めて、仏と成れるように調えましょうということになるのであります。