日記

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アポーハ論・2(メモ置き)

2021年06月10日 | 新日記
アポーハ論・2(メモ置き)

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仏教認識論・論理学の学僧たちの中でも、特にダルマキールティ大師が苦心なさったのも、いかにして仏教の重要な概念、思想を正確に伝えて、それを信解作意してもらえて、仏道を迷うことなく進められるようになるか、そのための認識論・論理学の発展であったと言えるでしょう。

その中でも、ダルマキールティ大師が最終的に最も眼目をおいたのは、意外にも誰もがたやすく理解できるであろうと思われる仏教の基本中の基本、基礎中の基礎である「四聖諦」なのであります。

しかし、それは「四聖諦」であっても、この生涯を通じて、いや、輪廻を通じて、その正しい理解ができる者が実は少ないと言い得るからであります。

それだけ過去世から阿頼耶識に熏習された習気、業による強烈な無明を打ち破るのは非常に困難であり、仏教の色々な重要概念(例えば、空や縁起など)を正しく理解するというのも、本来、とても難しいのは、ある意味で仕方がないと言えるのであります。

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過去世からの心(の阿頼耶識)に薫習された習気(薫りが染み付いたようにそのモノコトを捉える習性)が、そのモノを捉えているが故に、誰一人として(外界における)同じモノ・コトを同じように認識することはない。

これはhasunohaで価値観の捉え方の違いについての回答内で述べたことであるが、このことを「アポーハ論」と組み合わせて考えるとどうなりますか、ということを別で聞かれた。

アポーハ論は、他者の排除、A性と非A性を分別するための論と認識しているが、結局、厳密に言えば、A性も非A性も、そのことを認識する者には、上記のために微妙な差異が生じるため、A性と非A性の境界を線引するのは不可能であると考えます。

つまり、A性と非A性にも実体が無いということで「空」ということです。

まあ、唯識が中観を補完するという奇妙な関係ではありますが、唯識も突き詰めていけば、認識主体側における実体性を否定せざるを得ないため、中観に帰結するとも言えるのですが。

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アポーハ論は、要するに認識に対しての共通項を導き出すということをもって概念をより鮮明化して把捉するための論ということになるのでしょうが、問題は、その共通項、A性にせよ非A性にせよ、多少の社会通念上の普遍的な概念は導き出せるとしても、根本的には、実は、認識のありようは一人ひとりで微妙にも異なってしまっているため、本当はそんな共通項は導き出せないということなのであります。

では、なぜ概念の正確な抽出にこだわる必要があるのか。

ここに仏教思想の概念を相手に正確に伝えるためには、当然に伝える側と伝えられる側の共通認識となるもの(概念)が必要であるという至極当然の要請によるところからであると考えられます。

後代の仏教認識論・論理学の学僧たちが、このことにこだわったのも、一切知者である如来ではない一凡夫としても仏教による済度の使命を果たすためには仏教を正確に相手に届ける、そのための土台を要することを理解していたからではないだろうかと思われます。

特に対機説法という仏教のあり方からも、相手の機根、それは相手の過去世から今までの阿頼耶識に熏習されてある習気のありようまでも知ってこそ、真なる対機説法が可能であり、そのようなところまで、つまり、相手の阿頼耶識のありようまでも知り得ることができるのは、一切知者である如来以外には不可能であるからであります。

我々凡夫が対機説法、善巧方便としていくら教化に努力しても、当然に失敗が多く、限界があるため、その失敗を防ぎ、限界に挑戦するためには、認識に対しての共通項を導き出すことが必要であったのだということなのであります。

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前回までの考察・・
https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/e/b9a2d9817f8874916339496acaf64810