昨日紹介した中央の歌碑には天平3年(731)に肥後国益城郡の大伴熊凝が京都に向かう途中安芸国佐伯郡高庭駅家で亡くなり、不幸にも道中で亡くなった熊凝の心になり変わって筑前国主の山上憶良は六首の和歌を詠んでおりその一首が刻されている。
万葉集の原文には「出弖由伎斯 日乎可俗閉都々 家布々々等 阿袁麻多周良武 知々波々良波母」とあり、碑文には訓読みの「出でてゆきし 日を数へつつ 今日今日と 吾を待たすらむ 父母らはも」と刻されている。
昨日紹介した中央の歌碑には天平3年(731)に肥後国益城郡の大伴熊凝が京都に向かう途中安芸国佐伯郡高庭駅家で亡くなり、不幸にも道中で亡くなった熊凝の心になり変わって筑前国主の山上憶良は六首の和歌を詠んでおりその一首が刻されている。
万葉集の原文には「出弖由伎斯 日乎可俗閉都々 家布々々等 阿袁麻多周良武 知々波々良波母」とあり、碑文には訓読みの「出でてゆきし 日を数へつつ 今日今日と 吾を待たすらむ 父母らはも」と刻されている。