青空世界

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シャハーダ

2017年03月21日 | Weblog
「アシュハド アッラー イラーハイッ ラッラー 

 ワアシュハド アンナ ムハンマダン ラスールッラー


(アッラーのほかに神はなく、

 ムハンマドがアッラーの使徒であることを私は証言します)」


イスラム教徒の「信仰告白」です。アラビア語です。


これさえ覚えて、唱える事ができていたら、命を長らえる事ができた人々がいました・・・・

テロリストは、敬虔な本物のイスラム教徒 ムスリム ではありません。


しかし、この時代、自分のために、唱える事ができるのは、大切な事だと思われます。



アル ラー は、アマテラスと似ていませんか?

アッラーは「99の呼び名」をもっています。


神道は八百万 やおよろずの神。

でも、裏神道では、アマテラス一神です。


私達日本人にはなじみがなく、非常に解りにくいのだけれど、

案外、私達日本人には、理解できる絶対者なのではないでしょうか。


このアラビア語の言葉は、なんと美しい響きを持っていることでしょうか(^^)


       アシュハド アッラー イラーハイッ ラッラー 

       ワアシュハド アンナ ムハンマダン ラスールッラー





以下より一部転載させていただきます
http://muslimnewspaper.org/kaori-nakata/yasashi-islam-2/islam-2-1
ムスリム新聞
日本人ムスリム(イスラム教徒)向け月刊ミニコミ誌 ムスリム新聞社のウェブサイト

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  信仰告白
 ムスリムになるのは大変簡単で、口で「アシュハドアッラーイラーハイッラッラー ワアシュハドアンナムハンマダンラスールッラー(アッラーのほかに神はなく、ムハンマドがアッラーの使徒であることを私は証言します)」と言えばそれだけで十分です。

 この「証言する」に相当するアラビア語の完了形が「シャヒダ」で、その名詞形が、「シャハーダ(信仰告白)」です。なにかの免状、つまり証明書もシャハーダと呼ばれます。

 ムスリムはなによりもまず口で、つまり口による行為によって信仰を宣言するのです。もちろん、神は私たちが秘める心の中もすべてお見通しの方ですから、敢えて声に出して信仰を明言しなくても神御自身はそれぞれの信仰の有無はご存知です。一方、私たちには人が心に何を抱いているかわかりませんから、ともかく口で表現したものを本心として受け止めるほかありません。「ラーイラーハイッラッラー」、心にもない信仰告白の言葉を口にする者があっても、そしてそれが虚偽の信仰告白であることが明白であっても、私たちはその言葉をとりあえずは受け入れ、その言葉を口にした者をムスリムとして遇し、たとえそれがムスリム戦士の剣の下で命惜しさに言われたものであっても、彼はムスリムとして命と財産と名誉の権利は保証されます。そして、このシャハーダの言葉と共にムスリムとなった者には残りの四つの義務が生じるのです。

  証言すること
 ムスリムの信仰告白は、「信じます」ではなく、「証言します」というものです。「信仰」はアッラーに向けた心の行為ですが、「証言」は自分以外の者に向けた宣言です。なにかを証言するには、それに先立ってその証言する事柄に立ち会っている必要があります。交通事故の証人になるには、その事故現場に居合わせていなければならないのです。実際、アラビア語の「シャヒダ」には、証言するという意味のほかに、「居合わせる」「立ち会う」という意味があり、動詞の第四形「シャーハダ」には「目撃する」という意味があります。目撃者でなければ、証言者にはなれないのです。

 「アッラーのほかに神はないと私は信じます」と言うなら、それはあなたの個人的な思い入れでしょう、と反論されてもしかたありませんが、「アッラーのほかに神はないと私は証言します」と言うなら、個人的な思い込みではなく、「アッラーのほかに神はない」という事実は私が信じようが信じまいがすでに確定していて、私はその事実を事実として知っている、それが真実だとわが身を持って保証する、つまり自ら責任を取る、と宣言することです。


 目撃証言
 私たちの五感ではアッラーは捉えられません。知覚できないアッラーをどうやって目撃し、その目撃証言をすることができるのでしょうか。

 私たちは、太陽がさんさんと輝いている日には、窓から首を伸ばして太陽を目で確認しなくても、太陽が出ていることがわかります。外が明るく、お日様の光が家の中に差し込んでいれば、それだけで今日は晴天だとわかるのです。アッラーも同じです。

      私たちにはアッラーご自身の姿を捉えることはできませんが、

      アッラーの存在を証明する紛うかたない印は目の前に、

      そしてさらには自分自身の中に
満ち満ちているからです。

      普通の日本人が「自然」と呼ぶもの、

      つまり自然に何者の手も借りずにできあがったと信じている自然界のすべてが

      その作者であるアッラーを言外に指し示しているのです。



 あるとても敬虔な人が、「私は真の信仰者として朝を迎えた」と言ったときに、「なにをもって真の信仰者と言うのか」と尋ねられて、「私は楽園の住民が嬉々として互いを訪ねあうのを目にするようだ。また、火獄の住民が劫火に焼かれて泣き叫ぶ様を目にするようだ。それでこうして昼は斎戒し、夜は礼拝に立って過ごすのだ」と答えたという話が伝えられます。

「神を信じる」とは、人間の知覚を遥かに超えた神をあたかも目の前にするかのように

 畏怖と感謝の念と共に神の命に服して生きることなのです。




http://muslimnewspaper.org/books
発行書籍リスト

クルアーン(コーラン)
◾「正典としてのクルアーン」600円
クルアーンはキリスト教の聖書や仏教の仏典とは違った成立の仕方をしました。その詳細について書いてある本です。


◾「ブグヤ・アル=イバーディッラフマーン」(タジュウィード解説)1000円
クルアーンは「読誦されるもの」という意味を持っています。礼拝などの際に、クルアーンは正しく音読されなければなりません。日本人にはなかなか難しいかもしれませんが、クルアーンを正しく読んでみたいという方にお勧めです。




http://www2.dokidoki.ne.jp/islam/quran/quran000.htm
アル=クルアーン(コーラン)

以下転載
http://www2.dokidoki.ne.jp/islam/quran/quran001.htm
開端章(アル・ファーティハ) マッカ啓示 7節


1-1.慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名において。

بِسْمِ اللهِ الرَّحْمنِ الرَّحِيمِِ 1


1-2.万有の主、アッラーにこそ凡ての称讃あれ、

الْحَمْدُ للّهِ رَبِّ الْعَالَمِينَ 2


1-3.慈悲あまねく慈愛深き御方、

الرَّحْمـنِ الرَّحِيمِ 3


1-4.最後の審きの日の主宰者に。

مَالِكِ يَوْمِ الدِّينِ 4


1-5.わたしたちはあなたにのみ崇め仕え、あなたにのみ御助けを請い願う。

إِيَّاكَ نَعْبُدُ وإِيَّاكَ نَسْتَعِينُ 5


1-6.わたしたちを正しい道に導きたまえ、

اهدِنَــــا الصِّرَاطَ المُستَقِيمَ 6


1-7.あなたが御恵みを下された人々の道に、あなたの怒りを受けし者、また踏み迷える人々の道ではなく。

صِرَاطَ الَّذِينَ أَنعَمتَ عَلَيهِمْ غَيرِ المَغضُوبِ عَلَيهِمْ وَلاَ الضَّالِّينَ 7